糞小屋
薬師様の落とし物の紙通りに生活し出してから、ひと月半が過ぎた。
今では、その紙に”健康の書”と名付けて、食事や掃除など、毎日しなければいけないことと細かく結びつけるくらいにはミトとタリオの生活に入り込んでいた。
しばらく、タリオは熱をだしてない。お腹を壊しても以前より早く回復するようになってきた。一度体調を崩したら二、三日寝込んでいたのが、半日で起き上がれるようになった日もある。
夕飯の粥を食べ終わって、空になった鍋を洗いながらバル婆が言った。
「食事だったんだねえ」
「食事だった、のよ!」
ミトは鍋の底にこびりついた頑固な汚れを落とそうと指先に力を込めて磨いていた。米のとぎ汁をつけて拭くと、思ったより汚れが落ちることを発見したが、数年来の頑固な汚れはとてもしぶとい。
バル婆も、最初は手間が増えると渋い顔をしていたけど、最近は黙って同じようにやっている。
「お前たちが食事を作るだ、掃除をするだって言いだした時はどうなることかと思ったけど」
いつか、何かの拍子に見つかると思っていたけど。今のところは、バル婆にもおじいさんにも何も言われていない。
「――それにしてもお前は、最近糞小屋でなにしてるんだい?」
――今のところは。
「掃除。だから気にしなくって大丈夫」
「気にしないったってねえ。大事な畑の肥料なんだからね? 迷惑だけはかけないようにするんだよ」
ミトは、はあい、と言ってまた鍋磨きに戻った。
糞小屋。
そこに、扉はなく、匂いは言葉にできないほど強烈だ。冬だったらまだましだった匂いも、春も近づいて暖かくなってきた今はただただ強烈でしかない。
ミトは口元に当て布をして匂いが緩和されないかと思ったけど、むしろそれは匂いをこもらせる飾りのようだった。
それでも掃除も当て布も、しないよりまし。そう思いながらまた正面に向き直って手を動かす。もう”健康の書”に書いてある掃除箇所はあらかた終わってしまったから、新しい汚れたところを探していた。
もっと早く手をつければよかったかも。
ミトは、丁度灰をまいて小屋の匂いを抑えようとしていた。
「ちょっと――何してるの」
吐き気をこらえながら後ろを振り向くと、ナウラが目を丸くして立っている。
「見たら分かるでしょ? ――掃除よ」
「掃除って――なんでまた糞小屋?」
「なんでって?」
「だって、糞小屋って最初っから汚いもんじゃないの。毎日汚れるし意味ないと思うけど」
ナウラの言うことはもっともだったけど、でも毎日綺麗にしていたら何かが変わりそうで、そうしてたどり着いたのが糞小屋なのだ。
糞小屋で仲良くおしゃべりする少女が二人。そこに、恐らく残飯や家畜の糞を持ってきた黄色い髪の女の人がやってきて、ミトとナウラをじろじろと見てから、何か異様なものを見るような目をして、手にしたものを下ろして去って行った。
「汚したらまた掃除したらいいでしょ?」
女の人の置いていったものの上にも灰をかけながら、ナウラにはそう返事をした。
――でも、こんなに良いこと。おじいさんは、どうして試すな、って言ったんだろう。
今のところ何度考えても悪いことが起きてないから、答えはでなかった。ミトは考えを放棄して作業に戻る。
灰をまきおわったら、その次は外から見える隙間を草で覆って隠そう!
外への隙間があるから、近づいただけですごく匂うのだし、隙間を覆えば多少はましになるかもしれない。
ナウラはしばらくの間ミトと小屋を交互に見ていたけど、手伝う、と言って中に入ってこようとした。ミトはそれを制止する。
「大丈夫! あともう少しだから、それにあんたが言う通り汚いからさ、来ない方がいいよ」
ミトは振り向いて、ナウラに断りを入れようとして足が絡まる。そして、そのまま糞の山に突っ込んだ。
夕方、やっと体を洗い終えてミトは家に帰り着いた。家に入る前に、もう一度爪の先を念入りに洗う。
もう、思い出したくもない。
糞小屋に落ちた後は、周りにいてその一部始終を興味深くみていた人から、果てはさっきの残飯を置いていった女の人に至るまでほぼ全員から鼻をつままれて、逃げるように小川の近くまで走った。
ナウラも鼻をつまみながらミトを追いかけてきたけど、こんなに恥ずかしい時だけはどこかに行って欲しかった。
小川に体を浸けようと服を脱いで飛び込もうとしたところを、さっきの女の人にものすごい剣幕で止められた。洗濯に使う水を汚す気か、と。
ミトは今すぐに体を洗いたくて、気持ち悪さと例えようのない匂いに体が震えていたけど、なんとか飛び込むのは我慢した。
女の人がミトとナウラを睨みつけながら消えていくのを見送ってから、すぐにナウラに指示して、うちの鍋と、モタンの実を煮出したものを持ってきてもらった。
全身と汚れた服を一刻もかけて念入りに洗った。汚れたのは膝と手のひら、顔はなんとか死守したけど、どこに何が飛んでいるかわかったものじゃなかったからじっくり時間をかけた。
そして今、何事もなかったかのように、ただいまを言って家に入る。
運のいいことにバル婆もタリオも居間にはいなかった。安堵して息を吐きながらミトは鍋を火にかける。今日あった最悪な出来事を頭から消そうとした。
まだ自分から糞小屋の匂いが漂っている気がして、もう一度確かめようと腕を鍋の縁から離そうとした、その瞬間のことだった。
「……やだ」
お腹の奥が、じり、と疼く。思わず肩がこわばった。鍋の縁を掴んで、息をとめる。違和感はすぐに引いた。一瞬だけ波みたいに来て、消えた。
すぐに着物をめくってお腹を確かめる。
「光ってない」
気のせいかもしれない。そう思うけど、手が鍋の縁を掴んだまま離せない。そのまま微動だにせずその場にただ立っていた。
「どうしたの?」
寝室から出てきたタリオが、驚いたような声を出して、鍋の縁を掴んだままのミトを見る。ミトは、その声でまた動き出せた。いつも通りの動作を、ひとつずつ確かめるようにやる。
「今から、ご飯作るから……待ってて」
動きながら、お腹に意識を向ける。今は、痛くない。ミトはゆっくりと鍋に蓋をした。
鍋がことことと鳴りはじめてもミトが火を弱めることはなかった。
「ミト……ミト!」
バル婆に急に話しかけられた。それと同時に鍋の湯があふれ出す。
「ぼうっとしてるんじゃないよ! 料理してるときはそれだけに集中しな」
バル婆は何も聞かずに、ミトから鍋をひき取った。
「――お前、あたしに何か言わなきゃならないことがあるんじゃないのかい」
今しがたのお腹の違和感を思い出して、ミトはとっさに体をこわばらせた。
「……なんのこと?」
バル婆がミトの近くに顔を持ってきて鼻をくんとさせる。
「ふ、ん、ご、や」
何を聞かれたか確信をもてた。何のことか全く分かりませんという顔でしらばっくれると、バル婆から軽く頭を叩かれる。
「恥ずかしいったらないよ、この子は! よりによってドマナに見つかるなんて、あたしは嫌味をこれでもかってくらい浴びてきたんだから。――糞小屋にはもう用がある時以外は近づかないこと!」
ミトは肩をすくめて頷くだけにする。糞小屋の掃除には今日でもう懲り懲りだ。
いつもお読みいただきありがとうございます。
作中に出てくる時間の単位について、少しだけご説明させてください。
この世界では、時間を次のように数えます。
半刻……十五分
一刻……三十分
二刻……一時間
三刻……一時間半
一時……二時間
一時半……三時間
二時間より短いときは「刻」、二時間からは「時」で数えます。
半日より長くなると「日」です……って当たり前ですよね。
時代小説などでは「一刻」がおよそ二時間とされることが多いので、少し短く感じられるかもしれませんが、この物語の一刻は、お粥がひと鍋炊けるくらいの長さだと思っていただければ幸いです。
ちなみに、時計のない村では、みんな日の高さで時間を測っています!
多分、何となくでも読めるようになっているかなとは思うのですがお伝えでした!




