小さな望み
凍えるような冷たい空気のある晩、早く体を温めたくて、ミトはすぐに毛布の中に潜り込んだ。
入ったばかりの寝床は部屋の空気と同じくらいか、もっと寒い。だから、毛布の中に潜ったら、何度も息を吐いてその中を温める。そうしてやっと体の上半身が暖かくなるのだ。足元が暖まるまではもっとかかるから、他のことを考えながら足を擦って温めていた。
隣で横になっているタリオは、ずっと寝ていたからもう暖まっているのだろう。
「バル婆がさっき言ってたけど、母さんたち、今度の星の日に帰って来れるって」
「お土産あるかな?」
タリオの言うお土産とは、地主さまからもらうお給金や二人が買ってくる食べ物なんかじゃない。
文字が書かれた本だ。うんと前に父さんが持って帰って来た古い本の一冊。それっきりなのに毎回期待している。
「どうだろ。甘いものがあったらいいけどな」
そういう自分もたったの数回しかない甘いものを持って帰ってくることをいつも待っていた。
お土産を思い浮かべながら足の指を開いたり閉じたりしているとタリオが言った。
「明日、なんて言われると思う?」
「明日? 何かあった?」
「朔の日! おじいさんが来る日でしょう?」
ミトは、ああ、と気のない返事をした。
「ミトは、楽しみじゃないの?」
「あの紙に書いてあることは気になるけど……」
「そうでしょう。また一緒に聞く?」
タリオの楽しそうな声を聞いて仕方なく答えた。
「美味しいものの作り方が書いてあると良いんだけど……」
朔の日の朝。ミトは、普段から起きている時間だったが、タリオは常には寝ている時間。
昼近くなって暖かくなってからでないと布団から出てこない弟は、今日は早くから起きていた。
文字の意味を予想しては紙に書きつけて、食卓でおじいさんを待っている。増えていく線のつながりを眺めながら、ミトは言った。
「あんたっておじいさんと似てるね」
「本当?」
「うん。なんだかあの紙を見てるときのおじいさんの顔、今のあんたにそっくりだった」
魚釣りをしている時のウダにも似ていることは黙っていてあげた。
「そうかな」
からかって言ったつもりだったのに、なぜか照れたようなタリオに呆れていたところに、おじいさんはやってきた。
「いつもより随分早かったね」
嬉しそうにタリオが言って、おじいさんの外套を預かった。それを、ばさっと適当に椅子の背にかけて、すぐにおじいさんが座る食卓の椅子を引いた。
おじいさんは、手に息を吹きかけながら、何度か手の平を擦った。
「お待ちかねだな」
「なんて書いてあるか、分かった?」
「そう急ぐな。分かったことはいくつかある」
思わず顔を上げた。
大人は、面白いことを何も教えてくれない。私塾で教えてくれるのは字の書き方や、礼の仕方、曜日の数え方なんかのものすごく退屈なことばかりなのに。
「まず、この五枚、裏表合わせて十面ある紙には、三つのことが書かれている」
ミトとタリオはこくりと頷いた。誰かが今の二人をみたらそっくりだと言ったかもしれない。
「それから、話す前に。わしもこの言葉を学んで久しい。間違っているところもあるかもしれん、だからくれぐれも今から言うことを実際に試したりしてはいかんからな。――わかったか?」
ミトはもう一度浅く首だけ動かした。タリオはきちんと、はい、と声に出して言った。
おじいさんは二人に目くばせしたあとに話し始めた。
「書いてある一つ目はこうだ。病にかからぬための暮らし方について。――手を洗い、顔を洗い、部屋の気を入れ替える」
ミトは思わず隣の弟を見たあと、すぐにおじいさんの話を真剣に聞くことにした。
一言も漏らさないようにしよう。
こないだの朔の日から数日経った、私塾からの帰り道。
ミトとナウラは家をとっくに通り過ぎて森を二人で寄り道をする。最近はやっと寒さが落ち着いて夕方でも地面が凍ることはなくなっていた。
何かと使うことが多い乾いた小枝を見つけては腕に抱えて、たまると腰に下げた小袋に入れていった。
煙が出るから家の中では使わないけど、外で何かを燃やすときはよく燃える小枝が役に立つのだ。
ナウラが湿っていないか小枝を曲げて確かめながら、その小枝でミトのことをつついた。
「あんた、この間と同じ顔してるけど。――またタリオが熱出したの?」
「ううん。今日は元気よ」
「それなら、どうしてぼうっとしてたの?」
「あのね、こないだ――」
おじいさんが、と続けようとしてミトは立ち止った。
そういえば、試したりするのは駄目だって言ってたんだったっけ?
でも――誰かに言ったら駄目だとは言われてない気がする。
「なあに?」
「ええと――試したら駄目なんだけど、病気にならないようにするには、きれいにしてることが大切なんだって。手を洗ったり、顔を洗ったり、空気を洗ったり」
「試したら駄目なの? それに空気を洗うって、なに?」
うまく伝えるのが難しい。
おじいさんの話を聞いた時にはよくわかったつもりだったのに。
タリオはおじいさんの言葉を書き取っていた。あれが読めれば、もっとちゃんと説明できるんだけど。
「よく分からないんだけど、戸を開けたり窓を開けるといいみたい……」
「そうすると、病気にならないの?」
「そうみたいよ。でも、試したら駄目なんだって」
自分で言っていて、何を言いたいか分からなくなってきていた。
「それと人が死んじゃいそうになったときには胸を揉みなさいって。――口から息を吹き込みなさいっても言ってたかしら」
ナウラが信じられないものを見るような顔でミトを見つめたあと、ミトから視線をずらして言った。
「――あんたのとこのおじさんとおばさんってヴェルサリアに小作で行くことになったのよね?」
ナウラが何も聞いていなかったかのように別の話をしてくれたのを、ミトはありがたく受け取った。
「そうよ」
「母さんが言ってたんだけどね、ヴェルサリアは地主が領主の甥に変わったみたいで前よりお給金が良くなったんだって?」
「バル婆もそう言ってたけど……」
「けど?」
「こないだ帰って来た時、母さんはなんだか違うみたいだったって言ってたわ。お給金が増えたのは働く日が増えたからだって」
「うまいこといかないもんだよねえ。――ねえ、あんたは大きくなったらやっぱり小作?」
「どうだろう。わたしは絶対に村から出たくないけど、バル婆の手伝いをしたって稼げないことは確かよね。――あんたは?」
「わたしは、まだ決められない」
ミトは、伺うようにナウラを見た。
小さいころに村の外に出て結婚をしたいとナウラが言っていたことをミトは思い出した。小さい頃の恥ずかしいことを誰かに掘り返されるのはミトも嫌だったから、違うことを言った。
「男の人はいいよね。勉強したら中央にだって、どこにだって行けるんだから」
ナウラが折った小枝を袋に詰めながら返事をした。
「そんな人はうんと少ないけどね。でも、タリオぐらい読み書きができれば役人も目指せるんじゃない?」
「あの子はまず体を強くしないと」
「じゃあ――空気を洗わないと!」
ナウラが言って笑った。
「試したら駄目なんだからね!」
ミトはナウラに釘を刺したけど、一緒になって笑ってしまった。
その日の夜、ミトは寝室の戸の隙間から居間を覗いた。手に縫い針と布切れを持ちながらバル婆がこくりこくりと船をこいでいた。
静かに戸を閉めて振り返ると、タリオは布団の上に紙を並べている。おじいさんが話してくれた言葉を書き写した紙と、薬師様の忘れ物を書き写した紙を、寝る前に見比べるのが最近のタリオの日課になっていた。
「タリオ?」
なに、と生返事が返ってくる。
「あんたも昔の言葉を読めるようになった?」
「なんとなく分かってきたみたい」
そんな言葉が返ってくると思わなくてミトは一瞬言葉に詰まってから、布団ににじり寄った。
「わたしね。――明日から、その紙の通りに暮らしてみようと思うの」
タリオがゆっくりと紙から顔を上げた。
「薬師様の忘れ物ってことは病気につながってるはずでしょ。おじいさんの言ったこととも合ってるし。それに、手を洗ったり顔を洗ったり、ご飯の作り方を変えたり、色々言ってたけど全部わたしたちだけでできそうだったじゃない? ――だから二人で試してみようよ!」
タリオは口をぽかんと開いてから、慌ててミトから隠すように紙をまとめ始めた。
「試したら駄目だって言われたのをもう忘れた? それに全部って言っても、間違ってるかもしれないっておじいさんも言ってたじゃない」
「ちゃんと分からないところはわたしがはじめに試すから。それに――わたしも、もうお腹が痛くなるのは嫌なの」
「もし、誰かに見つかったら? バル婆にすごく怒られるよ」
ミトは唇を噛みながら考える。
「バル婆って、怒ることも多いけど、でも分かってくれたり黙っててくれることも多いじゃない? だから大丈夫よ」
タリオはじっと考えるように紙を見つめた。
「――ぼくも、元気になれると思う?」
「きっと。――なれるよ!」
「そしたらおじいさんが言ってたこと、すぐ確認できるようにしちゃうね!」
タリオが布団から今すぐに飛び出していきそうな勢いで言った。ミトは唇に人差し指を当てて小声で言う。
「明日バル婆が畑に行ってからにしよう」




