朔の日
朔の日にくるというタリオの言葉通り、おじいさんはぴったりその日の昼前にタリオに文字を教えにやってきた。
おじいさんが、食卓につく間も与えずにタリオは薬師様の忘れ物を書き写した紙をおじいさんに渡した。
おじいさんは、どれ、と食卓に腰かけながら五枚の紙を机に一枚ずつ広げていく。
タリオは朝から少し熱っぽいのに、いつもより元気そうな顔をしていた。
おじいさんは紙をなんども繰り返し見た後、白い髭をなでた。
「これは。――ドルソタの古代文字だな」
「読めるの?」
「わずかばかりだが」
「なんて書いてあるか分かる? ぼくにも教えてくれる?」
タリオが立て続けに質問をする。ミトはおじいさんと話したこともなければ、弟が家族以外とこんなに親しそうにしているのも見たことがなかった。
「すぐには難しい。これは解読しないと。――それより一体こんなものをどこで見つけて来た?」
タリオが言葉に詰まる。おじいさんは次にミトを見た。
「お前さんが見つけてきたのかね」
ミトは顎でタリオをしゃくった。タリオは紙の端を指でいじりながら、小さな声で言った。
「薬師様が忘れ物をしたんだけど、その中にあったのを写したの」
おじいさんは、なに、と言った。ミトは怒られるんじゃないかと身構えたけど、次の瞬間にはおじいさんが大笑いしていたから、なんとなくタリオと顔を見合わせて笑った。
「そうか。薬師様がなあ」
おじいさんは、そうかそうか、と言いながらくっくと笑ってまだ紙を眺めている。タリオはおじいさんに聞いた。
「それで。どれぐらいでこの文字を教えてくれるの?」
「この文字を学ぶにはまだ早い。これはセドラムを修めたあとでなければな」
ミトは、がっかりして聞いた。
「じゃあ、ここに書いてあることは教えてくれないっていうこと?」
「ふむ、ミトさんや、教えるかどうかはこの内容を読んでからわしが決める。この紙を預かっていいかね?」
おじいさんの顔は日に焼けて、シワも沢山なのに、何だか子どもみたいだ。
「いいわ、早く読んでね? もし読めなかったらタリオに返してあげて」
「いいだろう。読み終わったらタリオに返そう」
タリオもそうだけど、おじいさんも字を読むことに夢中のようだ。
あんなに細かい線を見て何が面白いんだろう。
「じゃあわたしは外に行ってくるから、タリオはお留守番お願いね」
「おお、やはりお前さんは字を学ばないかね」
何となく責められているような気がして、ミトは戸口で立ち止まった。
「だって、使うことがないんだもの」
一月の半ば、おじいさんが紙を預かった朔の日からは三日が経った。
太陽がすごく眩しかった。吐く息は相変わらず白かったが、顔に当たる日差しはやんわりと暖かい。
ミトは親友のナウラと並んで、家から数十歩の距離にある、小川を目指して歩いていた。
冬の間、天気が良い日は、いつも家のすぐ近くの小川の縁で過ごすのだ。天気が悪い日は洗濯小屋で暖をとったけど、おばさんたちも居てちっとも真剣な話ができなかったから外で話していることが多かった。
小川の縁では、ナウラの弟のウダが小石を拾い集めているのが見えた。
洗濯小屋に目を向けると、壁にぴったり背をくっつけて寒そうにサオロがしゃがんでいる。ミトより少し年上の男の子は持っている着物を全部重ねたみたいに着ぶくれしていた。
横を歩くナウラは、赤みがかった亜麻色の髪を無造作に二つに編んでいる。歩く度にぴょんぴょん飛び跳ねる髪の毛が、なにかの生き物の様だ。
「だからねナウラ、わたし言ったの。字なんか覚えても使わない、って」
「そしたら、なんて言われたの?」
この数日は一応バル婆の言いつけで外で長い時間遊ばないようにしていたからナウラの髪が跳ねるのを見るのも久しぶりだ。
ナウラの言葉に答えようとすると、ウダが顔を上げて駆けてきた。
「どうしてたの?」
ミトは足を止めずに答える。
「大丈夫。ちょっとお腹が痛かっただけだから」
ウダがハッとしたようにミトを見た。
「じゃあずる休みだったって先生に言うからな?」
「本当に痛かったから言われてもいいもん」
丁度、お腹が光った翌日が私塾の冬の通学日と重なってしまったのだから仕方ない。
サオロをのぞいて、三人は川べりにしゃがんだ。
洗濯小屋が人でいっぱいになる朝には、一足遅く洗濯かごを持ってきたおばさんたちのたまり場にもなるそこは、今の時間は子どもたちだけの場所だった。
ミトの横にナウラがしゃがむ。その近くには弟のウダ。姉より頭ひとつ分小さい男の子は小川の周りにある小石をまた集め出していた。
壁にもたれかかってこちらを見るサオロの真っ黒の瞳は、いつも半分閉じられているみたいに眠そうに見える。伸びっぱなしの長い髪を頭頂でまとめていた。
ミトが、ぼんやりと川を眺めていたらウダに話しかけられた。タリオより一つ下の男の子は姉とよく似た薄い茶色の瞳でミトを見つめている。
「どうしたの?」
「どうしたのって?」
ミトは、この数日で起こったことを考えながら上の空で答える。
「変な顔してる」
「してない」
「してたよ。おれ見たもん」
ウダが、ミトの脇腹に向かって日に焼けた指を突き刺した。その指は、夏の日焼け痕がやっと薄くなりかけていた。冬には冬で雪焼けをするので、ほとんど同じだが少しだけ違う。
脇腹をさされたとき、一瞬だけびくりとして叫び声をあげたけど、特になんともなかった。
サオロが洗濯小屋の壁から、ミトをちらりと見たけど、またすぐに目を閉じる。ナウラを見たけどウダが集めた小石を川に向かって投げ込んでいた。
ミトは誰も自分の味方がいないことを悟った。
ふてくされて、小川に少しだけ手を入れてみる。すごく冷たかったけど、それは寒さで触れもしなかった新年の時ほどじゃない。
冬の終わりが近づいているのだろうか。
小川の周りに落ちている小石をまだ拾いながら、ウダが聞いてきた。
「ねえ、タリオは?」
「いつもと一緒」
「また熱?」
「うん」
「大変だね」
ウダは特に深く考えずそう言って、川の深い部分に向かって小石を投げる。ぽちゃん、と音がする。
夏になれば、小川の浅いところであれば裸足で入って行ったけど、深いところには行ってはいけないと言われているから、みんなで少しずつ浅くしようと石を投げていた。
ミトは石の沈んだところを見る。
この村では体が弱い子どもは、大変だね、で終わる。仕方ない、で終わる。大人になれば治る、で終わる。それが普通。十年間、自分もそう思っていた。
本当にそうなのだろうか。
ミトはウダが投げた小石がどこに落ちたか、目を凝らしたけれど見つからなかった。
「また変な顔してる」
今度はナウラに言われた。
「考え事してた」
「何を?」
「タリオのこと」
「早く元気になるといいね」
「本当に」
夕方、バル婆が畑から戻ってきた。少しだけ台所の炭の前で手を温めてから、そのまま右隣の家におしゃべりに出かけて行った。
ミトは台所にある鍋を手にとって磨き始める。
――魔法。
「どうやって使うんだろう」
うんと小さい頃母さんが話してくれた、色んなところを冒険して動物や人やお姫様を助ける魔法使いの話。ずっと忘れていた。
小さい時の憧れと、自分ももしかしたら、という期待がひどく胸を高鳴らせた。
でも、魔法使いになりたいと言った時、母さんはなんて言ってた?
”魔法はわたしたちには使えないのよ”
それを聞いて幼い自分がひどくがっかりしたことも同時に思い出す。
それに、薬師様の言ったもう一つの言葉。
あの一言も、引っかかったまま離れない。
「……考えすぎ」
ミトは、頭を振った。
磨いていた鍋を棚に戻そうとする。手元をみると、棚と手の境目が見えないくらい部屋が暗くなっていた。
本日は、二話続けて投稿します。二話目は十二時頃投稿です。
今後も、一話が長くなりそうな場合は、分割して一日に何度か投稿することがあるかもしれないです。




