薬師様の忘れ物
ミトは、薄暗い寝室で体を起こしてお腹にそっと手を当てた。
指で押してみてもあのときの痛みはどこにもない。もう一度、今度はさっきより強く押したけど、やっぱり痛まなかった。
「うそみたい……」
ぼんやりと天井を見上げながら、ふと、確認したくなって手の甲をつねる。こっちは痛い。
昨日の痛みと光は、跡形もなく消えていた。
ミトは、タリオを起こさないように布団を抜け出して、着古した寝間着の上に、棚にかけていた毛の上着を羽織る。
寝室の戸を静かに閉めて、バル婆の寝室に向かった。
まだ帰って来てない。
玄関の戸は下から持ち上げるようにして開けると、簡単に開くからいつもそうして開ける。冷たい空気が肺の奥まで入ってきたけど、気持ちよかった。
「さむ」
白い息が出て、すぐに風に流れていく。東の空はまだぼんやりと薄青い。
じっとしていられなくて、小川へ向かう。道のどこに石が出ているかは暗くても分かるから、凍った地面で滑らないようにだけ気をつけてゆっくり歩いた。
小川に隣接している洗濯小屋は、まだ戸が閉まっている。小屋が女たちの声で埋まるのはもう少ししてからなのだから、当然だ。
「まあいいわ」
ミトは戸に手をかけるのをやめて、小屋の壁伝いに小川に向かった。
小川は真っ暗で、底も魚も見えたものではなかったけど、水の音はいつもと同じ。しゃがんで、その音を聞いていると、体が芯から冷えていくのが分かった。
しばらくじっとしていると背中の方が少しだけ暖かくなってきて、水面が、動くことを思い出したようにきらきらしだす。
ぷっと息を吐いて、ゆっくり振り返ると、モロ山のてっぺんにかかるあたりから、太陽が顔を出していた。
「――燃えてるみたい」
目を細めていると、風に乗っていい匂いが流れてきた。
豆を焦がしたような匂いが混じっていたけど、それでも、ミトのお腹は盛大に鳴った。
「もう大丈夫」
ミトはすっかり冷えた体を叩いて温めながら、うちに戻って、台所に立った。
台所の台の上と、いつもすぐに使う食材を置いている棚を確認して、食べられそうなものを手に取っていく。
バル婆がとってきた山菜に、すでに煮てあるダルド豆。それから米。あとは誰かが食べた粥の残りがある。ダルドを指でつまんで、そのまま口に放り投げた。
「昨日食べてないんだから、三食分食べたっていいわよね」
声に出すと、腹の虫がそれに答える。米と山菜を鍋に広げていたら、後ろからタリオの声がした。
「ミト?」
ミトは振り向いた。
タリオが、台所の戸にもたれながら目をこすっている。クルミ色の髪は今はぼさぼさだったけど、どんなにぼさぼさでも母さんと同じ色の弟の髪の色が、ミトにはうらやましかった。
榛色の自分の髪が、あと少しだけ灰色でなくて、あと少しだけ黄色が薄かったら同じクルミ色なのにと思っていた。
でも、そんなことには気が付かれないように普通に答える。
「起きたの?」
「うん。ミトがいないから探しに来たの。お腹、治った?」
「すっかりね」
「よかったねえ!」
タリオの顔がぱっと明るくなる。その素直さに、思わずミトの口元が緩んだ。
「昨日はありがと。わたし、ずっと寝ちゃってたけど、あんたはちゃんと一人でご飯食べた?」
「置いてあったおかゆを食べたから大丈夫」
「良かった。――バル婆、帰って来なかったみたいね」
「そうなの。母さんと父さんに会えたかな?」
「そのはずだけど。――山道は凍ってるからすぐには来られなかったのかもね」
その割には、薬師様がすぐに来てくれたということに今更気が付いた。
――そうは見えなかったけど、うんと急いでくれたのかしら。
鍋を火にかけながら、母さんたちのことを考えているとタリオが言った。
「――昨日ねえ、薬師様が忘れ物をしていったの」
「忘れ物?」
タリオが、そう、と言って寝室にぱたぱたと走る。戻ってきた時には、大人の手のひらくらいの小さな袋を手に握っていた。
「中身は? バル婆のじゃない?」
「最初はバル婆のかと思ったから中身を見ちゃったんだけど、違うと思う」
ミトは、薬師様に少しだけ悪いとは思ったけど、タリオから袋を受け取って中身を見る。中には折りたたまれた茶色の小汚い紙が何枚か入っていた。
「開いて見た?」
「うん、もう見ちゃったよ」
タリオが何故か頬を膨らませた。
「――普通の字は全部読めるもん。難しい文字だって、おじいさんが知ってることはだいたい教わったのに、これは一つも読めない」
ミトは少しだけ目を細めて幼い弟を見た。
タリオが今よりもっと幼い時は、分からない文字に対して癇癪を起すのを何度も見たけど、最近はなかったはずだ。
易しい文字すらままならない自分にも分かるはずがないけど、少しだけ興味がわいてミトは紙を開く。そのまま二人で食卓に座った。
「だったら字じゃないんじゃない?」
ミトは紙を汚さないように食卓の上に食べかすが落ちていないかを確認してから丁寧に紙を広げた。全部で五枚あった。
紙の上にある複雑な模様をタリオが指さす。
「でもね、見て。ここと、ここ。全く同じ形が続いてるでしょ? あと、ここと、そこも、それからそっちも」
「それが何なの?」
「同じ形が続くってことは、これは文字で何か同じ言葉か意味、あとは音を伝えてるってことなの。でも、ラムでもセドラムでもない……」
ミトは、ふうん、と言った。タリオは文字にばかり注目していたけど、自分は絵が気になった。
簡単な絵でお世辞にも上手いとは言えないけど、一つ一つ違う絵が描かれていて何かを表してるみたいだ。
「これは多分人だけど、この丸いのとかはなんだろう?」
タリオは眉間にしわを寄せて首を振った。
「分からない。――なんて書いてあるか分かればそれが何かも分かるんだけど」
「おじいさんは次いつ教えに来るの?」
「朔の日に来ると思う。いつもそうだから」
「明後日ね。でもそれまでに薬師様が忘れ物を取りにくるかもしれないね……」
「もう写しちゃった」
タリオが何でもないことのように言った。
昼食の献立を考えながら、台所でダルド豆を洗っていた。でも綺麗になったあともミトは手を止めないでいた。
魔力を溜める場所が腫れている、と薬師様は言った。
「じゃあ――わたしには魔法が使えるってこと?」
何かが繋がったところで、玄関の戸が開く音が鳴った。
母さんだった。タリオとよく似たクルミ色の髪は少し乱れていて、玄関の戸を開けっ放しで、着物や履物にも泥が付いたまま台所に入ってくる。
母さんは豆を洗うミトを見るなり顔を覆ってしゃがみ込んだ。でも、すぐにミトをキッと見上げたと思うと立ち上がって、ミトの肩を掴んでその場に固定した。農作業と冬の寒さで赤く荒れた手が肩に食い込む。
「――お嬢さん?」
なんでもないように昼食を作ろうとしていたことが後ろめたくて、ミトは豆を握りしめる。
忙しい母さんを呼び戻してしまった。
ミトは、精一杯申し訳ないという気持ちと、許してくださいという笑顔を作って母さんに笑いかける。
「はい」
「お母さんが早く戻れなんて言うからなにごとかと思ったわよ! モルトなんて畑を投げ出して来ようとするし、驚いたじゃないの、もう!」
母さんは、腰に手を当ててため息をついた。それから、玄関の戸を閉めて居間に入ってきたバル婆を、ちらりと見た。
「もう、痛くないのね?」
「ごめんね! すぐに良くなったの」
「まったく! ――今度からお腹が痛くなるのはこの馬鹿みたいに忙しく無いときにして!」
母さんはそう言ってミトの鼻をつまんだ。ミトは、返事をして床に目を逸らした。
「ほら、昼食なら母さんが作るから、あんたはお母さんが掃除するのを手伝って」
バル婆は、居間に行ったミトの頭を軽く小突く。ミトは痛くはないその部分をさすった。
夜ご飯は、昼と同じものが出たけど、母さん、バル婆、タリオと一緒に四人でご飯を食べた。ミトはいつものようにお代わりをしようとして三人から叱られる。
「お腹が痛くなったばかりじゃないの!」
「あたしはもう薬師様を呼ぶ気力なんか無いからね」
「ほんとに、ミトって食い意地はってるんだから!」
ミトは、バル婆と母さんが見ていない隙に、タリオが残した夜ご飯の粥をこっそりいつものように胃袋に片付ける。
タリオと目があったけど、それを無視して口にかきこんでいく。お腹がぺこぺこなのだ。
けれど、ふとその動きが鈍る。
そういえばタリオっていつもおかゆを残してる。
腹も壊すし、熱もよく出す。自分はあんなに痛くても一日で治ったのにタリオは何日も治らないことも多い。
残飯を片付ける手はいつしか止まっていた。
母さんは、次の日の早朝すぐに、出稼ぎ先に戻っていった。また次に家に帰ってくるのが先になりそうだ、とバル婆にぼやくのが聞こえた。
バル婆が畑に出かけて、何の音も聞こえなくなってから二度寝をしていたら、戸を強く叩かれて起こされた。
目をこすりながら、枕にしていた上着を着た。タリオを見ると眠っていたので、そのまま静かに寝室を出て、玄関の戸を叩いた人を確認しに行く。
戸を開けると、薬師様は家の中には入らずにゼイゼイとしながらミトを睨んだ。
「小さな袋を……見なかったか」
あの袋を忘れたことにやっと気が付いたみたいだ。
ミトは、待ってて、と言って寝室に戻った。タリオの寝顔を見て、もう写してしまったことを思い出してくすりと笑う。
目的の袋を持って玄関に戻る。薬師様に袋を渡すと随分安心したような顔をしていた。
「中身を見たか?」
「うん。――でも、汚したりしてないわ」
元から汚い紙だったことを強調する。薬師様は怒って行ってしまった。
「――はじめっから汚い紙だったわよ!」
ミトは、長い昼寝をしているタリオの寝息をあとにして居間に向かう。
きっと昨日のことがあったから疲れているんだ。
居間では、畑仕事を終えて一息ついていたバル婆が、お湯をすすりながら、縫物を膝に広げている。
ミトは、台所に行ってまだ熱いお湯が入っている鍋から湯呑にお湯をすくい上げた。湯呑に向かってふーふーと息を吹きかけながら、バル婆の向かいの椅子に腰かける。
熱いお湯をちびちびと飲みながら、何を繕っているのかを確認しようとして、縫物から目を上げたバル婆と目があった。
「ミト。薬師様、結局なんだって?」
ミトはお湯を吹き出した。
あとで絶対に聞かれると分かっていたのに!
今の今まで別のことばかり考えていた自分を殴りたくなった。
「あのね」
なんて言おうか。薬師様が言った、しばらくはな、なんて言葉を伝えたら心配するに決まっているし。
「何が原因かは言っていたかい?」
バル婆の目は、まっすぐミトに向いている。
なかなか次の言葉を出せなかった。口を開いて、閉じる。バル婆はお湯をすすりながら、黙って答えを待っている。
「――ええと確か、ムル……ムルなんとか、てところが腫れてるんだって」
バル婆が、首をかしげて縫物の糸を切る。布を裏返して、ほつれていた部分が直っているか確認していた。
「ムルグ?」
「そう、ムルグ。でも、もう大丈夫だって」
思わず口から出てしまった。
「ムルグ、ね。――そろそろ夕飯にするよ」
バル婆は夜ご飯の粥を作る鍋をかき混ぜながら、考えるように言った。
「治療代はいくらだって?」
「なんにもいってなかった」
「もう一度、話を聞く必要がありそうだ……」
バル婆はそれだけ言って、タリオに夜ご飯ができたことを伝えに行った。




