ムルグ
寝室にはタリオが置いてくれた小さな炭が、申し訳程度の暖かさを運んでいる。汗で濡れた布団はむしろさっきよりも冷たさを増して、ただ重くて冷たい塊になっていた。
タリオはミトの布団の傍らに腰かけて光っている腹をちらちらと見てくる。その視線はミトを不安な気持ちにさせた。
「タリオ」
「どうしたの」
「お湯飲みたい」
タリオがすぐに立ち上がる。ばたばたと走りかけて、走らない、と自分で言い直して少しだけ歩調を落とした。その背中を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
戻ってきたタリオの手には二つの湯呑。慎重にひとつの湯呑を、はい、と差し出すと、もう一度布団の端に座り込んだ。そしてやっぱり、ミトの腹をちらちらと見ながら湯呑を手元でもてあそぶ。
ミトは、ありがと、と言って受け取った湯呑に顔を近づける。湯気を鼻で吸い込んで、次いでお湯が喉を通っていった。温かい湯呑が手に温度を取り戻してくれる。
「タリオ」
湯呑を動かすタリオの手が止まった。
「あんたは、お腹よく壊してるでしょ?」
「うん……」
「――何かで刺されるみたいに痛むことなんて、ある?」
「分からない……」
「――お腹が光ったことなんて」
「あるわけないでしょう!」
そりゃあそうだ。
――やっぱり、何かの病気なのかしら。
タリオが、大きな目を見開きながら聞いてくる。
「本当に、何も食べてないの?」
頷くミトの顔をじっと見て、そうしてなにかに気づいたように話すのをやめた。立ち上がって居間に行ってしまう。
どうしたのかと思っていたら、すぐに戻ってきて、その手には布をもっていた。
持ってきた布でミトのおでこと首筋を拭いていく。優しく汗を拭う右手は少し震えていた。
食器を拭く布であることに気が付いた。
「すごい汗」
言われた後にまた刺すような痛みが来て、ミトは息を止めて過ぎるのを待った。タリオが返事をしないミトを見つめる。
「――大丈夫?」
大丈夫なのか、分からなかった。
どれくらい経ったのだろう。
薬師様を待ちながら、タリオは最近勉強している本の内容を話してくれた。でもその内容はミトの頭の中に入って来ない。
バル婆が出ていったのは、少し前のような気もするし、とても前のような気もした。タリオが持ってきた炭の鉢はしきりにパチパチと音をならしてなんだかタリオの声よりも大きく聞こえる。
しばらく上の空でタリオの話に相槌をうっていたら、パチパチいう音に混じって、戸を叩く音と風の音が聞こえた。
タリオがすぐに反応して、見てくる、と言い残して居間に駆けて行く。そしてすぐに、聞きなじみのない男の声が聞こえてきた。
待っていると、タリオが男の手を引いて戻ってきた。
男が部屋に入ってきた瞬間、鼻にかかる独特の匂いが広がる。入ってきたのは背の低い、白い髭をたっぷりとたくわえた老人だ。百歳を超えていてもおかしくないくらいしわしわなのに、足取りは妙にしっかりしている。
ミトの目が、その顔から、腰にいくつも下がった袋へと落ちる。男が暖かそうな外套を脱いで、腰にかかった袋と脱いだ外套を壁の棚に置いた。
「お前だな」
低い声だった。見た目よりずっと若い声に感じる。
「薬師様?」
薬師様は、ミトを見下ろしたまま、ゆっくりと近づいてくる。視線が、顔から胸、腹へと落ちていった。そして、腹に触れようとするその動きに、あらかじめ用意していた言葉を出す。
「あのね!」
薬師様の手が止まる。
「――なんだ」
「すごくお腹が痛くて」
薬師様は目を細めたまま、ミトのほとんど黒に近い深緑色の瞳を見つめる。
「吐いたのよ。それと――お腹が光ってる」
被っていた布団をよせて、光っている部分をミトは指さした。
「――いつからだ」
「多分、朝から」
薬師様は黙ったまま腕を動かして、自分の親指をミトの手首に当てた。それからちらともう一度ミトを見て、腹へ手を伸ばす。みぞおちのあたりを軽く押された。
今度は、止めなかった。
ゆっくり手が動いて、そして――何度目か分からない痛みにミトの目に涙がにじむ。薬師様の手が、ぴたりと止まった。
「ここだな」
ミトは頷くのがやっとだった。薬師様は、今度はひどく痛むところの周りを軽く押す。さっきよりずっと慎重だった。
視線が、すっと鋭くなる。細くなった目は、すぐに通常の大きさに戻って、そこからは何も読み取れない。
「わたし、普段はお腹が痛くなったりしないの。それでも普通のお腹の痛さと違うのだけは分かるわ。ただ冷えたり、お腹を壊したらお腹全部が痛くなるでしょう? でも、押したときにそこだけすごく痛むの――それに」
無表情にミトを見下ろしていた薬師様の眉がわずかに動く。ミトはタリオを見てから小さい声で薬師様に言った。
「それに――お腹が光る腹痛なんて聞いたことないわ」
薬師様はしばらくじっとミトを見てから口を動かす。ミトには、薬師様の目が一瞬光ったように見えた。
「詳しく診よう」
薬師様はミトが寝ている布団の横に腰を下ろした。ミトの腹の上に手をかざす。触れずに、ほんの少しだけ腹から手を浮かせている。
「じっとしていろ」
薬師様が低く言う。ミトは黙って頷いた。タリオも息を殺してそれを見守る。
ミトが動かないように意識を集中していると、じわりと何かが腹にやってきた。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。かざされた手の平から、何かが体の奥に入ってくるような感覚だった。食べたものが喉を通るときに似て、見えない何かが体の中へ入ってくる。
お腹の内側を、触られているみたい。
痛くはないけど気持ち悪い感覚がしばらく続いた。そして、薬師様の目が一点を見つめていることに気が付いた。
「痛むのは、ここだけだな」
ぽつりと呟かれた言葉。薬師様の指先は、ミトの腹の右下のあたりを指していた。
「うん」
「腫れている」
薬師様はミトの腹から手を離して、考えるように太ももの上で指を組んだ。そしてミトの顔を見もせずに言った。
「お前はこの痛みを何だと思っている」
その問いに、ミトは目線を動かして部屋の中を見回す。
「分からないわ」
薬師様は再びミトの腹の一点を指した。そこは、先ほど薬師様が見ていた痛んで光る所。
「ここには――魔力を溜める場所がある」
「魔力を、溜める場所?」
「ムルグだ」
「ムルグ?」
「臓器のひとつだ」
ミトは上手く言葉をのみこむことができなかった。
「お前のそれは、異常に膨れている。だから、周囲を圧迫して痛む。――放っておけば、どうなるか分かるか」
ミトは、素直に首を横に振った。薬師様がため息をついて言った。
「膨らみ続ければ、破れる」
ミトは天井の藁の飛び出た一本を見つめる。森で木の実をとったときに、袋一杯に詰め込んで破れた袋を思い出していた。
破れると聞くと恐ろしい。でも、とにかくこの得体の知れない痛みをなんとかしたかった。
「どうしたらいいの?」
薬師様は立ち上がって、棚に置いた袋の一つに手を入れて、小さな布と、銅色の細長い棒のようなものを取り出した。
手の平より少し長いそれは、ミトが見たことのない道具だった。なんだか嫌な予感がする。
「なんなの?」
「破れる前にムルグに穴を開ける、というやり方がある……」
薬師様はそう言ってから小さく息を吐いた。
手にした道具を、またゆっくりと袋の中へ戻す。ミトは、その手の動きをただ目で追った。
「やらないの?」
思わずそう口にしていた。
薬師様は答えずに、ただもう一度ミトの腹に手をかざす。何かが体の内側にやってくるあの感覚が、再び痛むあたりに広がった。
今度は気持ちわるいというよりじんわり暖かい。
それでも、沈黙が続くほど不安がふくらんでいく。薬師様の手は、痛む場所を通り越して、もっと奥を、もっと長く探っている、そう感じた。
やがて薬師様は腹から手を離し、静かに口を開いた。
「急がなくてもいい。今すぐどうこうなるわけじゃない」
「どういうこと?」
薬師様はミトの質問を無視して立ち上がった。
「今日は何も食べずに寝てろ。痛み止めのまじないを施したから、数刻たてば普段通りになる。――まあ、しばらくはな」
薬師様がミトに背を向ける。そして、振り向かずに言った。
「――随分はっきりとものをいう」
ミトは答えなかった。
薬師様の、冷たい氷のような目がミトに再び向けられた。しばらくの間、薬師様は何も言わずにじっとミトを見ていた。それから急に興味を失ったように視線を外して、今度こそ本当に部屋を出ていく。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで、ようやく息を吐く。
タリオも同じ瞬間に息を吐いたから、二人で目を見合わせた。
「大丈夫?」
ミトはぎこちなくタリオに笑いかける。少しだけ考えてから答えた。
「そうみたい」
「しばらくすれば元通りって言ってた、よね?」
念を押すみたいに、タリオが言った。
「――うん」
”しばらくはな”という言葉が頭の中でこだましている。
それでも、唇の片方を上げて笑ってみせた。
「もう食べすぎないようにしないとね」
タリオは少しだけ笑ってくれた。
ミトは光る場所から手のひらを少し浮かせて、かざしてみる。
……まさか、自分の体に魔力を溜める場所があるとは思ってもいなかった。
魔法は、物語なんかで聞いて知っている。薬師様のように仕事で魔法を使う人もいるらしい。だけど、それは自分には関係のないことだと思っていた。
痛み止めが効いてきたのか、急に重くなったまぶたをゆっくりと閉じていく。
薬師様は、どうして途中で気が変わったのかしら。




