オンじいの問い
ひとに黙って勝手をしていた報いというのは突然くるのだ。
腹を壊した翌朝、ミトはバル婆に揺すられてまだ開ききらない重い目をこすった。
貯蔵庫に連れていかれると、バル婆がダルドの袋を持ちあげる。
「ダルドを何かに使ったかい」
わざわざ貯蔵庫のダルドを、すこしだけ使ったつもりだったのに。
バル婆はダルドの袋の口をきつく縛って言った。
「食べ物を粗末にするんじゃないよ、まったく! ――エダに怒られるのはあたしなんだから」
そのまま畑に向かおうとするバル婆の背中に向かって言い訳をしようと口を開いた。その瞬間、背中に目でもあるように、バル婆の声が飛んでくる。
「もう何もしないこと!」
とぼとぼと寝室に戻ると、タリオが起きていた。バル婆と同じ顔でミトを見ている。タリオに向かって着替えの着物を投げつけながら言った。
「なにも言わないで!」
タリオは布団の上で着物を着替えると何も言わずに布団から出た。そのまま棚から健康の書を取って居間に向かう。
今日は朔の日か。もう随分と二人でオンじいから文字を習っていた。
「タリオ。今日はわたしも難しい文字を教えてもらえると思う? もう、易しい文字は随分上達してきたと思うのよ」
「無理に決まってるでしょう?」
「どうしてよ」
「だってぼくが教えてもらった時なんて分かるようになるまで何回もやり直しさせられたもの。全部覚えたと思って次に進んだら、忘れたころに同じ質問をされるの。それに間違えたらまたやり直しだよ」
「一回覚えたら忘れないわ」
タリオは、忘れないという言葉を聞いて軽く微笑んだ。
「じゃあ、覚えるのと間違えないっていうのは別ってことなんだね」
「どういうことよ!」
二人でやり合いながら、朝食をお腹に詰め込んでいく。
タリオが粥のおかわりをするから、ミトも一緒におかわりをする。もちろんタリオがおかわりをしなくてもするつもりではあるのだが。
薬師様の忘れ物でこんなにタリオが元気になるなんて。
自分に対しての薬師様の態度にはあまり良いことは思わなかったけれど、それだけは本当に感謝している。
「健康の書のダルドのとこ、もう一回聞いてもいいと思う?」
朝食を片付けて、鍋を水にさらしておく。
それから、濡れた布巾で食卓をきれいに拭いた後、三通りの健康の書を机に広げた。ミトが読む用に、タリオがラムで書き直したもの、オンじいの言葉をタリオがセドラムも交えて正確に書き取ったもの、元の古い言葉のもの。
紙が重なりあって、机の上全体が一枚の大きな紙みたいになった。
しばらく二人でダルドの部分について話し合っているとオンじいがやってきた。オンじいは最近はすごく早くから来て、夕方まで一緒に居る日もある。タリオに聞いたら前はお昼前から来て、一刻くらいで帰ったって言っていたから、ずいぶん健康の書が面白いのだろう。
オンじいは机の上に広げた書を見て言った。
「準備万端だな」
「そうなの、上出来でしょう?」
「でも、お前さんは先にラムを覚えないと。そのあとにセドラム。タリオは、古い文字を学ぶ前にセドラムだな。なにごとも基礎なくして楽しい表現はできない。お前さんたちが今頑張っていることは後に起こる楽しみを最大に――」
オンじいのいつもの授業がはじまりそうだったので、ミトは口をはさんだ。
「――でもね、今日は少し聞きたいことがあるの」
「ふむ。聞きたいこととは?」
「前に、この”健康の書”にはダルドを藁につつむやり方が書いてあるって言ってたじゃない?」
「そうだったな。ダルドを藁に包む、確かに。――して、健康の書というのは何だね?」
タリオが天井を仰いで、小さな手で顔を覆った。
ミトはオンじいを見て小さく口を開け閉めした。オンじいには呼び名を決めたことを教えていなかったのかもしれない。
「あのね――この書は健康になることについて書かれているでしょ? だから健康の書って呼ぼうって、タリオと決めたの」
「遠からず近からず、と言ったところだな。わしが言ったことを覚えてるかね?」
「もちろん覚えてるわ。だから、健康の書って名付けたんだもの」
でも、話したいのは名付けの理由なんかじゃない。
「聞きたいことはね――ダルドの料理も病気にならないためのものなのってことと、本当に作り方が合ってるかなってとこなのよ」
「それはこの書からは分からないとも言ったはずだ。この書は五枚、裏表合わせると合計十面からなる。このうち、三枚六面は病気を遠ざけるための、衛生、食、薬についてが書かれている。ここまではお前さんたちの言う健康の書と呼んで差支えないかもしれん」
ミトは頷いた。タリオも見上げていた天井からオンじいに視線を戻して真剣な表情で聞いていた。
オンじいは頷き返して、二枚の紙を改めてミトたちの方に向けなおした。
「だが、この二枚四面は全く違う。タリオは、理由が分かるかね?」
「多分だけど――目的が書かれてない?」
「それは、半分正しい。目的が表立って書かれていない。だが内容を読むと、ダルドや他の食材の食べ方を書いていることが分かるため、目的のひとつに食べることがあるというのは間違いないだろう」
ミトは、話を聞きながら頭がこんがらがってきた。
「じゃあ、どうして半分間違ってるみたいな言い方をするわけ?」
「それは、この書のどこにも、なぜ、どうしてそれを食べるかが書かれていないからだ」
「他の三枚の続きだから書かなかったんじゃない?」
オンじいの目が、いたずらをする子どものように輝いた。
「そうかもしれないが……」
「そうだと思うわ」
「だけど、そうでないかもしれない」
何度も同じやり取りをしているようでうんざりしてきた。
「じゃあ、作り方を真似て、それを食べたら何が目的かが分かるんじゃない?」
「それは、性急すぎる。この二枚四面が示しているのは、もしかしたら毒の作り方かもしれないのだから」
「まさか」
まさか、とは言ったものの、心当たりがありすぎて暑さからくる汗とは別の水分を背中に感じた。
それに、タリオを元気にしてくれた紙だったのだから、毒の作り方が書いてあるとはとても信じられない。
「そうだな、もしかしたら薬かもしれない」
「へ?」
オンじいは混乱するミトから、考え込むように聞いていたタリオに視線をうつした。
「タリオは、先ほどミトが言った、三枚の続き、という考え方をどう思う? しばらく古い文字を眺めていて、気が付いたことがあるんじゃないかね」
タリオは、オンじいと同じくらい楽しそうな顔になって言った。
一体なにが楽しいというのか。
「ぼくは、続きじゃないと思う」
「理由は?」
「上手く言えないんだけど、文字のまとめ方と書いてあることが違うんじゃない?」
「続けなさい」
「――間違ってるかもしれないんだけど、最初の三枚六面は、一枚一枚に何をするっていう目的と、それをする理由とそのやり方とか、全部が書かれていると思うの」
「ふむ」
「あのね、元の古い書のほうでは、この二枚四面は消したり付け足したりした跡が沢山あったの。絵も、子どもの落書きみたいなのと、大人が丁寧に描いたようなのが混じってた。――上手に写せなかったから全部今は下手に見えるかもしれないけど……。だから、続きじゃないと思う」
「じゃあお前さんが、写した元の書には今以上の情報があったかもしれんな」
タリオは親指の爪を噛んだ。
「消してあるのは――間違いだと思ってた」
後悔がにじんだような、小さな声だった。
ミトはミトで、まだダルドのことを考えていた。
本当にあの部分は、健康の書ではないのだろうか。
オンじいは二人を見てふっと微笑んでからタリオに聞いた。
「最近は前より元気そうだの」
「そうでしょ? これも健康の書のおかげ」
「――ミト!」
口を押えたけどもう遅かった。タリオが目をぐるりと回してミトを睨んだ。オンじいは口元を手で隠したから怒っているのかどうかミトには分からなかった。
「お前さんたちは――試したりしてはならない、と言った約束を破ったのか?」
ミトは、タリオと顔を見合わせた。タリオが渋々というように口を開く。
「ごめんなさい……」
「あんたは謝る必要なんかないわ。――わたしが、試そうって言ったんだから」
「お前さんが?」
「そうよ。書の通りにしようって、色々試してたのもわたし。だから、怒るならわたしだけにして」
むしろタリオは、はじめは自分を止めようとしたのだから。
タリオが横でミトに抗議しようとしたのをオンじいが手で遮った。
「でも――どうしてお前さんが?」
「だって! ――タリオは、同じ年の子と遊べもしなかったんだよ? ご飯もおかわりできなかった。いつも熱を出して、お腹を壊して、その度に母さんは泣いてた。だから病気をしないようになるなら試してみようって言ったの」
オンじいの髭が少しだけ揺れた。ミトはそれに押されるようにして話を続ける。
「それに、本当に元気になったわ!」
「元気になったのは良かったと、わしも心から思う。――でも、そうでなかったらどうするつもりだったのかね?」
ミトは、目を見開いた。そして何度か言葉を出しかけて、やめる。
「考えてなかった……」
「そうだろうな。誰かを助けたいと、そう思ってそこに向かって行動できるところはお前さんの美徳。しかし、それが約束を破って、もし最悪の結果になっていたらどうした?」
「それは! わたしが先に試すって言ったんだからわたしが責任をとるわ」
「考えてもみなさい。お前さんたちがこの書に従って行動を起こした時、それを問うた人は一人もいなかったかね? この書の通りにして失敗したことは?」
最初の頃は、食事や掃除で家族に、それから糞小屋でナウラや村の人に、何か変わったものを見る目で見られたのを思い出した。
そして、それは今日の朝にも起こった。
「――今回はたまたま良い方に傾いただけ。それに、誰かに隠し事をして、それで結果をなして気分が良かったかね?」
食卓に広がる紙の上に目を落とした。
「元気になったことは良かったと思うわ……。それに、最初の頃は色々試していくのも面白かった。でも――タリオと同じような人がいるか分からないけど、もしそういう人が居たら教えてあげたいと思うのに、秘密なんだから教えられないの」
認めないわけにはいかなかった。
「――だから、最近はあまり気分はよくなかったかも」
オンじいが頷いた。
「そうだろうとも。そしてなぜ人に試してもらうことができないか。――わしが、試すこと自体を禁じたからだな?」
「そうよ」
「では――お前さんはどうしたらいいと思う?」
ミトは、ため息をついた。
もちろんタリオのような人がいたら同じように元気にしてあげたいけど、オンじいが欲しいのはそんな言葉じゃない。だから、上手く答えることができなかった。
オンじいは、タリオにも同じ質問をしたけどタリオも答えを見つけることができなかった。
「では、次の朔の日まで、考えておきなさい」
オンじいは、バル婆みたいに叱るでも褒めるでもなかった。
オンじいが玄関を出て、町の方に向かうのを見送った。
その後、二人で昼食の粥を食べている時にタリオが思い出したように言った。
「ね。難しいでしょう?」
弟が最初に言った通り、セドラムに進むどころか、その手前で止まってしまった。




