六日目 吐露
「……いやいやいや、ちょっと待ってください。たかが我々二人だけでは、あまりに危険です」
「いや、さっきは多勢に無勢だったから逃げ隠れせざるを得なかったけれど、包囲から抜け出してしまえばこっちのものだから、わたし達二人でも少しずつ敵を撃破していくことはできると思うのよ」
「それでもです。またぞろ包囲されないとも限りませんし、この二人だけでは不安が残ります」
通路を少し移動したところで、それまで色々と考えを巡らせていたらしい梨乃ちゃんから、今更の反対意見があった。
一旦見晴らしの悪いところに身を隠してから、わたし達二人は声を抑えつつ話を続ける。
「だから、包囲されるリスクを最小限に抑えるために、さっき赤団員が集まって行った方向とは全然違う方向に進むんじゃないの」
「それだと、馬垣さんのことはどうなるんです?もしかしたら、馬垣さんはあっちの方向に…」
「いやあ、あいつは負けないでしょ。馬垣くんはこれまで対人戦で無敗なんだから。それに、さっき分断された時に、敵の男がシャッターの鍵を持ったまま逃げちゃったみたいだけれど、別にあそこのシャッターが開かなくても正面玄関から入れるし、正面玄関から入ったらそのうち第二班と合流するでしょ?つまり、馬垣くんと第二班は、お互いに応援に行ける状況にあると思うのよ」
わたしは、詳らかに説得…もとい、説明する。
あくまでも、自分の決定を覆すつもりが無いかのように。
さながら、何かを企んでいるかのように。
「私達もそこに合流しては駄目なのですか?」
「……えーと、うん、駄目と言えば駄目。それだと二手に分かれた意味が無いからね。こっちは赤団より人数が少ないから、やっぱり二手以上に分かれてなきゃ不利でしょ?別に、わたしと梨乃ちゃんがここから活躍する必要がある訳じゃなくて、ただ二手に分かれた状態を維持したいっていう…」
「先輩」
———と。
梨乃ちゃんは改まったように、わたしをそう呼んだ。
ここにきて不意に、出し抜けに。
そんな、久しぶりに聞く二人称代名詞で。
「私は、不安が嫌いです」
「……梨乃ちゃん?」
「リスクが嫌いです。恐れが嫌いです。悪い予感が嫌いです。虫の報せが嫌いです」
梨乃ちゃんは。
紫野梨乃は、言う。
「目に見えない、触れることもできないものによって与えられる不快感と不安が、どこまでも嫌いです」
「……えと」
「ですから、そういうのも嫌いです。篠守さん、貴方は知らないかも知れませんが、実は私は、死にたくないのですよ。酷い目に遭いたくないのですよ」
「そ、それはもちろん…」
「そして、死んで欲しくないのですよ」
「っ!」
それは、思い返せば初めてのことだった。
紫野梨乃という人間が、初めて自分の個人的で私的な内面を、価値観と感情を、明確に吐露したのだった。
「貴方にも死んで欲しくありませんし、貴方にも酷い目に遭って欲しくないのですよ……いいえ、そんな言い方をしてしまうのは不完全ですね。死んで欲しくないからと言って、死なないで欲しいとは限りませんからね……ですから訂正します。私はですね篠守さん、貴方が死ぬのも、貴方が酷い目に遭うのも、そのリスクがあるというだけでも嫌になるくらい、嫌なのですよ。わからないんですか?まだ」
「ちょ、ちょっと待って……」
わたしは気圧される。
梨乃ちゃんは、はっきり物を言う奴だ。
しかし、こんなことは今まで、一度も言わなかった。
……そうまで、彼女は追い詰められた状況にあるのか?
そうまで、わたしは彼女を追い詰めてしまったのか?
「貴方はいつもそうです。自分勝手で自分本位な割には、何です、いやに自己犠牲的な振る舞いが目立つじゃありませんか。味方を守るやら仲間を死なせないやら、そういうことだけはいつも断言してくれるから頼もしくて結構ですけれど、いくら何でも貴方は、その味方や仲間が自分自身を失う可能性に対する想定が、甘すぎますよね」
「……え?」
一瞬、言われたことの意味がわからず、わたしは固まる。
でもやっぱり、それはただ、わたしが本当に想定していないことを指摘されたからそうなったというだけのことなのだった。
「『いざとなったら自分を犠牲にして守れば良いや』なんて、思っているのでしょう?貴方のような人間は、どうせ」
「……っ」
梨乃ちゃんがそんな嫌味な言葉を使うのは、初対面のあの時以来だった。
彼女があの時、家族と連絡が付かないあの非常事態に、どんな想いで避難して、どんな気持ちでわたしと会話していたのか、どうやらわたしには全然わかっていなかったようだと、今更のように思い知らされる。
わたしのように、単に気が立っていただけだとばかり、思っていたのだけれど……
そうか……この子は。
いや、わたしも。
「自分が犠牲になることが、どれだけ味方を傷付けるか、良い加減にわかってください。自分が危ない橋を渡るだけでも、どれだけ味方が不安になるか、わかってくださいって言ってるんですよ」
頼もしいくらいに、弱いだけだ。
「…………」
わかっていなかった。
強さとは、弱さでもある。
弱さとは、強さでもある。
強ければ、その強さを自覚するが故に、自らの行いや戦い方に制限をかけざるを得ない。無駄に余計に他者を傷付けてしまう恐怖から、傷付けてしまった後悔から、逃れることはできない。それではまるで枷である。
弱ければ、その弱さを自覚するが故に、目的のために手段を選ばない。弱さから生じる恐怖心や嫌悪感は、卑怯なことをするのにも、残酷なことをするのにも、抵抗を無くす。それではまるで凶器である。
強さと弱さは表裏一体。わかりやすく例えるならば、漫画や映画などで見かける『愛する家族を持つ殺し屋』という風な類の登場人物も、家族を想えば人一倍の精神力を発揮する一方で、家族を人質に取られた途端に弱く脆くなってしまうという意味で、強さと弱さが両立していると言える。
強いは弱い、弱いは強い。
ならば。
前々から頼もしいと思っていた、梨乃ちゃんが。
こうまで強かで心強い、この子が。
弱い人間だということにも、説明が付く。
「…………」
わたしは俯いたまま、何も答えられない。
図星と言うか、何と言うか……それが図星だということ自体に、今気付いたからだ。
勿論、わたしはそうそう死ぬことはない。この異能、《不壊》がある限り、物理的な外傷では死なない。
しかし、化学的な、毒物などによる中毒症状で死なないかどうかは判っていない部分も多いし、何よりこれは、そんな理屈の話ではない。
例え、合理と理性を重んじた生き方をとる、紫野梨乃にとっての話であっても。
理屈の話じゃないんだ。
「本来、この作戦は仕事でも何でもありません。途中で逃げ出して駐屯地に帰ったとしても、誰から責められる訳でもありません。良いですか篠守さん、もしも他の皆さんのことが心配になって、赤団の取り締まりもそっちのけにして探し回って、全員と合流した頃には赤団も体勢を立て直していて攻めにくくなっていて、もう逃げるしか無いと判断して情けなく逃げ帰ってしまったのだとしても、悪いことではないんですよ?だって、それ以上悪いことにはならないのですから……合理的な損切りです」
言っても結局、この子は正論ばかりだ。
梨乃ちゃんはいつもいつも、正論ばかり言う。
うるさいものだから、憎たらしいものだから、それが一周回って、わたしはもはや微笑みすら浮かべてしまった。
本当に、うるさくて。
うざったくて。鬱陶しくて。煩わしくて。
頼もしくて。清々しくて。気が置けなくて。
可愛い、後輩である。
「……わかった。それはわかったよ、梨乃ちゃん」
だから。
「でも」
だからわたしは、迷惑をかけることにした。
「でもごめん。わたしについて来て」
「でしょうね。そんなことだろうと思いました。はいはい、もうわかりました、その作戦でいきましょう、もう良いですよそれで。失敗したらどうなっても知りませんからね」
「……いや、まだ詳しく言ってないんだけど」
「言われなくてもわかるんですって。あなたの考えていることなんて、お見通しですよ」
「…………」
梨乃ちゃん、待って?
この場面だけは、読心術で台無しにしないでもらえる?
大事な部分を言いにくくなっちゃったよ。どうしてくれんの?この状態で言っても、全く格好が付かないんだけど。
「……良いの?こんな雑な考えを、信じてくれて」
「良い訳が無いでしょう?そんなリスクのある考えを実行に移すあなたを、守る羽目になってしまって」
何となく流れとノリで、わたしは大事な部分をはっきり言わずに、確認の言葉だけを並べる。
そう、大事な部分があるのだ。
それは遊撃をすることのメリットであり、且つまた、遊撃をしても大丈夫だと考える根拠である。
「あは、守ってくれはするんだ」
「当たり前です」
盾は、わたしだけれど。
矛があるからこそ、盾は盾として成立する。
矛が無ければ、盾なんか掴まれて引っ剥がされ組み伏せられて終わりだ。
そういう意味で、矛は盾を守るものだと言える。
わたしはいつも、守られてばかりなのかも知れなかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
何と言うか、こんな時だというのにわたしはなぜか多幸感を感じてしまって、微笑みを浮かべながら喋るだけになってしまっている。
対する梨乃ちゃんは、どちらかと言えば不機嫌で、渋々といった風な表情だ。
……期せずして、今はまだわたしの考えを明かす時ではないみたいな空気になってしまったことを、この手記を読んでいる誰かに対して、いるのかどうかもわからない未来の読者の皆さんに対して、お詫びしよう。
本当は今すぐ説明するつもりだったのだけれど……ごめん、もう少し待って欲しい。
今に、わかるから。
「じゃあやろうか。遊撃を」
「はいはい、わたしは後輩として、先輩を助けるだけの人間ですよ。やりますよ仕方ないから」
「あはは、梨乃ちゃんが面倒臭そうにしてる」
「ただし」
ただし、約束があります———と、梨乃ちゃんは特段強調するように、ともすればこれを言うためだけに話を始めたのではないかと思わせるような確信的な調子で、言った。
「一つだけです。けれどもこれは、今日この場に限らず、篠守さん、あなたに今後ずっと守ってもらう約束です」
……わたしもそろそろ、次に梨乃ちゃんが言うことが読めるようになってきたぞ。
でも、わたしは先輩だから……いやADFでは同僚だし、人生の先輩を自称するのもおこがましいけれど……何となく概念的に先輩というものを気取りたいから、ここは黙って梨乃ちゃんの台詞を聞くことにしてあげよう。
こうするんだよ梨乃ちゃん、大事な場面では。
さあ、言ってくれ。
「死なないでください。私もそうします」
「わかった。肝に銘じておく」




