三日目 真鈴真鈴
ホテルから逃げ出したわたしは、偶然それなりの距離にあった別の宿屋に逃げ込んで、そこで泊まることにした。
こぢんまりとした宿で、と言うか下宿みたいな感じもある施設で、全く優雅な思いはできないだろうけれども、致し方ない。
梨乃ちゃんがわたしにくださったお金はまだ消費していないので、こういう宿であれば泊まれないことはまずないだろう。
「あら、篠守さん。二日ぶりですね」
「ひっ……」
宿の玄関を開けると、真鈴真鈴さんがいた。
わたしはさながら、自分をいじめているいじめっ子の、いじめにはそこまで乗り気ではないがそれでも加担してはいる取り巻きと、うっかり鉢合わせてしまったかのような気分になって、萎縮してしまった。
「あれ?どうなさいました?」
「……ああいや、何でもないです。真鈴さんもこの宿に?」
「はい。時に篠守さん、もし宜しければ、私めと同じ部屋に泊まっていってくださいませんか?この真鈴、普段はあまり一人で宿泊する機会が無く……」
「…………」
デジャヴと言うか、何と言うか……
やたらと丁寧な口調で、わたしを騙そうとしているかのような印象にもなってしまうのだが、冷静に考えてみたら、真鈴さんは別にそういう人ではないだろう。
真鈴さんから良からぬことをされた憶えは無いし、荻原さんとの繋がりも、今だけは無いだろう。
第一、真鈴さんは元々こういう喋り方をする人だし。
そう言えば荻原さんは、今日は真鈴さんと別行動だとか言っていたし……、だったら荻原さんはここには居ない筈だ。
いや、当たり前だけど。さっきまでホテルに居たのに、もし荻原さんがピンポイントでここに先回りして来ていたら怖すぎるけれど。
受付が済んだ後に、早速案内された部屋まで行って、中に入ってみた。内装はまあ下宿の一室という感じだが、しかし違和感がある。
なんか……狭い?気のせいかな?
「あら?少し狭いかも知れませんね……この部屋に二人でとなると、やや窮屈では……」
「いやあ全然大丈夫ですよ!別に気にしないでいただけたらなーと……あの、それより真鈴さん、荻原さんから何か、言われたりとかしました…?」
部屋に入ったところで、わたしは恐る恐る確認する。
「はい?荻原さんからですか?何かと仰られましても、そうですね……今朝、『たまには別行動を取って休日を過ごすわよ』、と言われたくらいでしょうか……」
「あーそうなんですね!いや別に何となく訊いてみただけなんですけれど、へえーそうなんですね、そしたら今日の昼間はどんな感じで過ごしたんですか?」
わたしは適当に話を逸らす。
良かった、わたしの情報は伝わっていないらしい。わたしの居場所に関して、真鈴さんから荻原さんに情報が伝わることも、多分無さそうだ。
さておき、改めて見てみると、そこはやっぱり狭すぎる部屋だった。
はっきり言って1人用の部屋である。受付の人に、2人で1つの部屋に泊まりますと伝えた筈なのだけれど……
伝え方が悪かったのかなぁ……
「篠守様…あっ、篠守さんは、もうお夕食はお済みですか?」
「……今、なんて呼びました?」
されたことの無い呼ばれ方で突然呼ばれたものだから、わたしは驚いて硬直する。
本当にされたことが無い。
今までの人生で一度も無い。
恐らく、またと無い。
「失礼しました…!その、口癖と言いましょうか、特に深い意味は無いので、気にしないでいただきたいのですが…!」
「全然いいですよ。大丈夫ですよほんとに。なんなら真鈴さん、もっとわたしをそう呼んでくれても良いんですよ?まあそう恥ずかしがらずに、さあ」
「ええと…?」
聞くところによると、真鈴さんや荻原さんが前に一緒に通っていた高校だか大学だかが、いわゆるお嬢様校だったらしい。そこで丁寧かつ気品ある言葉遣いが求められていたから、そんな口癖が身に付いたそうだ。
何という素敵な女性だろう。
「さあ、もっとわたしのことを『様』付けで呼んでください」
「良いのですか?そ、それでは、篠守様、お夕食はお済みで?」
「うふふ……済んでおりますとも、ええ……」
「…?」
そこからは、既に夕食を済ませていたわたしを除いて、真鈴さんだけ軽く食事をすることになった。
わたしはわたしで、あのホテルではお風呂に入りそびれていたので、真鈴さんがご飯を食べている間に部屋風呂に入った。
大浴場には行かない。他人に素肌を、特に生足を晒す趣味は無いわたしである。
さて、無事に事は進み(というのも妙な表現だけれど)、とにかく時間を過ごして夜も遅くなり、そろそろ就寝しようかと言うところで、薄々予感していた問題に直面したのである。
「あれ?どこかにこう、展開も収束も自由自在の簡易ベッドみたいなのが、1つくらいしまってあるかと思っていたんですけれど……」
「……どこにも御座いませんね」
この部屋、ベッドが1つしか無いのだ。
そもそも、宿屋と言っても旅館ではない。寝具は布団ではなくベッドだ。
因みに、大浴場はあっても別に温泉ではなく、どちらかと言うと銭湯のようなものらしいし……だから、下宿みたいな感じの宿屋なのだ。
学校行事で例えるなら、修学旅行で泊まりそうな場所ではなく、宿泊学習で泊まりそうな場所なのだ。
しかし、ベッドが1つなどと……そんな馬鹿な。
完全に1人用の部屋じゃねーか!
「これは苦情を入れ……じゃなくて、別の部屋を紹介してもらったほうが良いんじゃないですかね…?」
「ご尤もですけれど、それは難しいのではないかと愚考します。受付の方も、大分混み合っているという風なことを仰っていましたから、恐らくもう、ここしか空き部屋が無かったのでしょう」
「ええ!?じゃ、じゃあどうします?布団も寝袋も無いんだったら床で寝ることもできないですし……」
あの受付め。間違えたのか、それともわざとなのか……
これでは、寝ることができないじゃないか。流石にどちらか片方が出ていくというのも気まずいし……いや、出て行くとしたらそれは真鈴さんだから、わたしはそんなに困らないのだけれど、でも何だか申し訳ないような気もしなくもなくもなくもないし……
と、悩んでいたわたしに、しかし真鈴さんはどういう訳か大胆不敵だった。
極めて冷静な、冷静すぎる提案で、殴りつけてきた。
「あの、篠守さん。このベッドもかなり広いので、篠守さんさえ大丈夫なら、二人で一緒に寝ることもできますが……如何なさいましょう?」
……わたしは一瞬、固まる。
こんな上品で育ちの良さそうな、身持ちの堅そうな女性が、真鈴真鈴さんが、一体何を言い出したのか、脳がうまく処理できなかった。
「え、えーと、それは……あっ」
……そうか。そういうことなのか。
荻原さんは言っていた。
『あの子ともよくやるけど』。
真鈴さん……彼女は、そういうことに慣れてしまって、感覚が麻痺しているのかも……いや、何でもない。
何でもない何でもない。
とにかく、わたしはその魅惑的…じゃない、冷徹で合理性の塊のような提案に、どうしようもなく反論もできず、従うしか無かった。
まさか断る訳にもいくまい。『あなたと寝るのは嫌です』などとは、こんなお嬢様系女子に対して面と向かって言えまい。
真鈴さんには正直、かなりの好意…言い間違えた、かなりの好感が持てるのだ。荻原さんとは違って、品があってまともなのだ。決して手を出してくるようなことは無いとの確信もある。
『何となく嫌だから』などというなおざりで失敬な理由では、もはや断ることは許されない状況なのだ。
だからわたしは、従ってしまっただけなのである。
従わざるを得なかった。ただそれだけだ。
「お休みなさい、篠守さん」
「お、お休みなさい」
その夜は、真鈴さんと添い寝をしているというまさかのシチュエーションに、わたしはどきどきし過ぎて、色んな意味でどきどきしてしまって、全然眠れなかった。
『今夜は寝かさないわよ』という荻原さんの言葉は、宣言ではなく、予言だったのだろうか?




