表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/110

【第83話中編:配電盤・給湯・工事の始まり】

【Scene 3:老練なる再会】


 軽トラックの助手席で、木村はリパルテンツァのロゴが入った新しい作業帽子を膝の上で回した。 かつて農協の指定工場で、どんな古いトラクターでも息をき返らせた伝説の整備士も、今は75歳だ。


 運転席に座る島田は、かつて農協の指導員としてこの町の隅々までを知り尽くしていた。 組織の論理に嫌気がさして隠居していた男が、再びハンドルを握り、現場へと向かっている。


「島田さん。佐藤の若造が言った通り、まずは一番上の理事長に顔を出さないとな。筋を通すのがこの町の規律だ」

 木村が静かに告げると、島田は短く「わかっている」と応じた。


 二人が到着したのは、海帆市全体の水利組織を束ねる理事長の自宅だ。 この町の農業の根幹を担う、最高責任者の元である。


 玄関から現れた理事長は、並んで立つ二人の姿を見るなり、驚きで目を見開いた。

「木村さんに、島田さん。どういうことだ。二人揃って、その作業着を着て現れるなんて」


「理事長、ご無沙汰しております。佐藤という男に口説かれましてね。今日からリパルテンツァの技術担当として、正式に現場へ復帰することになりました」

 島田が深く一礼すると、理事長は慌てて二人の手を取り、感極まったように何度も頷いた。


「これは心強い。佐藤さんから『地域を知り尽くした最高の布陣を揃える』とは聞いていたが、まさかあんたたち二人を呼び戻すとは」

 木村が、油の染み込んだ大きな手を理事長に差し出した。


「理事長。俺はもう一度、この町の農機具を全部見て回るつもりだ。動かなくて離農するなんて話は、俺が現役のうちはもうさせない」

 理事長は、かつて技術を軽視されて現場を去った木村と、組織に絶望した島田が、再び前を向いている姿に言葉を詰まらせた。


「わかった。佐藤さんが連れてきたのがあんたたちなら、私も全面的に信頼しよう。この町の農業を、もう一度支えてやってくれ」

 島田は手帳を開き、本日の挨拶回りの予定を冷静に確認した。


「ありがとうございます。まずはトップである理事長に承諾をいただけて安心しました。明日からは、各現場の管理人の元へも順次伺います」


 二人の老兵が、佐藤という若者の志を背負い、再びこの町の土を踏み締めた。 経験という名の重みを持った挨拶は、理事長の心に、消えかけていた希望の火を再び灯した。



【Scene 4:緑の衝撃】


 3月の冷え込みが残る午後、田中と米山は、リパルテンツァの苗プラントの前に立っていた。 無機質な倉庫のような外観に、米山は首をすくめて作業着の襟を立てる。

「場所は知っていたが、中に入るのは初めてだ。あいつ、こんな大掛かりな仕掛けをこしらえて何を企んでいるんだか」


 田中が重い扉を開けると、そこには外の残雪を忘れさせる、湿った熱気が立ち込めていた。 特別な設備を通ることなく、二人はそのまま管理された空間へと足を踏み入れた。


 米山は眼鏡を外し、曇りを拭き取りながら周囲を見渡した。 紫色の光が整然と並び、水の流れるかすかな音だけが響く空間は、彼らの知る「苗代なわしろ」の風景とはあまりにかけ離れている。


「米山さん、あそこです。19日に置いたっていう、例の実験用マットは」

 田中に促され、米山はプラント中央の作業台へ近づいた。 そこには土を使わず、マットの上に、直接並べられた30粒の種が置かれている。


今日で、わずか4日。 米山は身を乗り出し、その30粒の様子を凝視した。

口から漏れたのは、感嘆ではなく、戸惑いに近い吐息だった。 30粒すべてから1〜2ミリの白い芽(鳩胸)が100%揃っている。

「田中。これ、1粒も欠けずに全部出ているのか」


「ええ。発芽率100パーセントです。しかも、たった4日でこの太さと勢いですよ」

 米山は、分厚い指先でそっと芽の先端に触れた。 本来ならこの時期、ビニールハウスの温度管理に神経をすり減らし、夜中も見回らなければ発芽すら揃わないのが当たり前だ。


 目の前にあるのは、その苦労を嘲笑うかのような圧倒的な均一さだった。

「確かに、見事だ。だがな、田中。農業は芽が出ただけで決まるもんじゃない」

 米山の言葉は厳しかったが、その視線はマットから離れなかった。


「この後の根の張りや、外に出した時の耐性がどうなるか。それが分からんうちは、手放しで喜ぶわけにはいかんよ」

「そうですね。でも、この100パーセントの揃い方は、俺たちのハウスじゃ逆立ちしても不可能です。温度と湿度を管理している結果ですよ」


 田中が補足すると、米山は少しだけ口角を緩めた。

「機械が守る、か。まあ、この30粒に関する限り、あいつの言うやり方は守られているようだな。この計算がどこまで続くのか、俺は最後まで見届けさせてもらうぞ」


 米山はまだ全てを認めるとは言わなかったが、その瞳には新しい技術への純粋な好奇心が兆していた。

「田中。明日の朝も、もう一度見に来るぞ。この成長のスピード、記録しておかないと後で誰にも信じてもらえんからな」


 二人の農家は、外の寒空へ戻る前に、もう一度だけその30粒の小さな命を振り返った。 それは、この町の農業の常識が、静かに、しかし決定的に塗り替えられようとしている瞬間だった。



【Scene 5:四月一日の約束】


 海帆銀行の支店長室には、三連休の静寂を振り払うような、独特の緊張感が漂っていた。

 応接テーブルの上には、厳格な規律に基づいて作成された金銭消費貸借契約書が整然と並べられている。


 佐藤は差し出された書類に一度目を通し、約束通りの数字が並んでいることを確認した。

「融資額5000万、金利2.345パーセント。間違いないな、支店長」


「はい。佐藤様のご提示通り、本部の承認も最速で通しております。連休明けのこのタイミングで、すべて準備が整いました」

 支店長の声には、安堵と、それ以上の畏敬の念が混じっていた。


 本来なら銀行側から頭を下げて下げてもらうはずの金利を、自ら引き上げた顧客。

 目の前の男が示したのは、安売りをさせないという、商売の相手に対する最大級の敬意だった。


 佐藤は内ポケットから実印を取り出し、朱肉に軽く押し当てた。

『マスター、支店長の指先が微かに震えています。彼にとって、この契約書は単なる貸し付け以上の意味を持つ「信頼の証」になったようですね』


 脳内でヴェルの論理的な分析が響く。

 佐藤は短く頷くと、迷いのない所作で契約書の末尾に捺印した。

 静かな室内に、印影が紙を捉える重厚な音が響く。


「事務的な手続きはこれで終わりだ。さて、肝心の入金日だが、四月一日でいけるか」

 佐藤の問いに、支店長は姿勢を正し、即座に応じた。


「はい、承知いたしました。本日の契約完了を受け、内部処理を最優先で進めます。四月一日の午前中には、リパルテンツァ様の口座への着金を確認いただけるよう手配いたします」


「助かる。年度初めのその日に、動かせる資金がある。それがこの町の農家たちへの一番の安心材料になるからな」

 佐藤は実印をしまい、席を立った。


 手に入れる5000万という資金は、ただの数字ではない。

 それは、水門を直し、苗を育て、この町で必死に土に齧りつく農家たちの生活を支えるための、物理的な重みを持ったエネルギーだ。


「支店長、期待しているぞ。四月一日、いい知らせを待っている」

「精一杯、務めさせていただきます。佐藤様の志、我々もしっかりと支えさせていただきます」


 支店長は深く頭を下げ、重みのある契約書を大切そうにファイルに収めた。

 海帆市の春の風を受けながら、佐藤は次の一手へと意識を切り替えていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ