【第83話前編:配電盤・給湯・工事の始まり】
【Scene 1:規律の再編】
月曜日。 早朝の納屋には、リパルテンツァの全戦力が顔を揃えていた。 静まり返った空気の中、佐藤は全員の顔を見渡し、迷いのない口調で指示を飛ばした。
「おはようございます。まず、健治は年度末の決算対応に専念させるため、今週はいません。健治工務店の3名は今週いっぱい牧野の下についてもらいます」
佐藤は、健治の部下たちと牧野に視線を送る。
「牧野、米田、藤田、そして工務店の3名。合計6名で隣の敷地、第1工場の建築準備に入ってください。59坪の箱を建てるための、丁張りと道作りが最優先です」
「了解しました。野郎ども、気合入れろよ」
牧野の太い声に、現場組が短く応じる。 続けて、佐藤は若手4名に指示を出した。
「舞さん、七海さん。それに森田、優斗。4人も今週は牧野の指揮下に入ってください。土木の基礎と、現場の規律をその体に叩き込むいい機会です」
「はい!」
若手たちの返声が、古い納屋の梁に反響した。 それから佐藤は、電気系統を担当する北脇へ向き直る。
「千尋さんは、北脇さんと一緒に水門の配電盤を完成させてください。北脇さん、千尋さんをお願いします」
「ああ、任せておけ」
北脇が短く応じ、千尋を連れて作業場へと向かう。 一段落ついたところで、佐藤は女性陣へ向き直った。
「では、智子、裕子さん、香織さんは『青豆腐』へ。移動しましょう。まず、適当に座ってください。智子は手を動かしながらで構わない。聞いておいてくれ」
納屋の一角、事務スペースとして整えられた通称「青豆腐」へ移動すると、佐藤は椅子を勧めた。 智子は頷き、PCの画面へ視線を戻したが、その耳は佐藤の言葉に集中している。
「香織さん、朝から来てもらって申し訳ない。お願いしたいことを増やしたくて、相談なんだ。人数が増える速度が速く、智子がそろそろオーバーフローしそうなんだ。裕子さんと協力して、事務作業のフォローに入ってほしい」
智子がキーボードを叩く手を一瞬止め、深く、噛み締めるような溜息をついた。
「助かるわ。正直、今のペースで備品の発注と労務管理を一人で回すのは、精度の規律が保てなくなるところだったから。現場の動きが速すぎて、書類が追いつかないのよ」
智子の言葉に、事前に方針を伝えてあった裕子が静かに頷く。
「香織さん、私からもお願いしたいと思っていたの。これからは現場の『油の匂い』だけじゃなく、管理側の『数字の規律』でも私を助けてちょうだい」
香織は少し戸惑ったように、二人の顔を見比べた。
「これまでは1日4時間、月8回でお願いしていたけれど。現場の『毬(MARI)』や『爪とぎ』のラインは、他の10名のパートさんで回る目処が立った。香織さん、お子さんは今月、無事に高校を卒業されたんですよね」
「ええ、おかげさまで。もう家の方は落ち着いているんですけど、事務のお仕事なんて私にできるのかしら」
「来月から、月給22万円。1日5時間勤務のフル出勤で、裕子さんと智子のフォローをお願いできないだろうか。今の時給から考えれば、社会保険や税金を引くと手残りは大きく変わらないかもしれない。だが、リパルテンツァの正社員として、長期的な安定と管理職への足掛かりにしてほしいんだ」
香織は数字を頭の中で弾いているようだった。 劇的な昇給ではないが、固定給としての安定感と、何より佐藤からの「信頼」の重さが伝わってくる。
「月給22万、5時間勤務。条件としては、これ以上ないほどありがたいお話です。でも、これまでのパート勤務とは責任も生活リズムも変わります。私一人の判断ですぐに、とはいきません」
香織は一度言葉を切り、誠実な眼差しで佐藤を見返した。
「主人の理解も必要です。今日の夜、しっかり家族で相談させていただけますか」
「もちろんです。旦那さんとよく話し合ってください。急ぐ話ではあるが、家庭の規律を乱してまで進めるつもりはない」
佐藤は香織の慎重な姿勢に、かえって信頼を深めたようだった。
「決定すれば、香織さんが現場から抜けることになる。その分の追加人員探しは、現場を熟知している裕子さんと香織さんで進めてもらいたい」
「分かりました。私の方でも、現場のバランスを崩さないような人を探してみるわね」 裕子が香織に微笑みかけ、頼もしく頷いた。
静かで誠実な交渉がひとまずの区切りを迎えた。
【Scene 2:着金と管理の正常化】
香織が去り、納屋の一角にある事務スペース「青豆腐」には、電子機器の微かな駆動音だけが残った。
智子はデスクのスマートフォンを操作し、ヴェルから同期された決済データの最終照合を行っている。
「ようやく一括で確定したわ。2週間以上前に発送を終えていた410個分の決済よ。メイン口座への着金を確認したわ」
「これで健治への支払いや、次の資材発注への備えは万全だな」
佐藤が応じると、今日から本格的に事務所側のデスクに座った裕子が、不慣れな手つきでバインダーのページをめくった。
彼女の目の前には、新しく採用したメンバーと、これまで現場を共に支えてきたパートたちの労務リストが並んでいる。
「私はこれから、新しく入った人たちの社会保険の手続きを進めるわ。不備がないように書類を整えないと」
裕子はスマートフォンの画面を指でなぞりながら、近隣にある内科の連絡先を確認した。
「あわせて、全員の健康診断の予約も入れるわね。一斉に現場を止めるわけにはいかないから、一人ずつ手の空いたタイミングで行ってもらうつもりよ。現場を回っている時とは違って、こうして椅子に座って電話や書類の隙間を埋めていくのも、神経を使う仕事だわ」
裕子の言葉には、規律に向き合う当惑と、それでも投げ出さない責任感が混じっていた。
「本当よ。私や裕子さんがこうした実務のパズルに手を焼いている間は、リパルテンツァの次の計画に思考を割けない。香織さんが入って、こうした調整を実務として担ってくれれば、私たちはそれぞれの本来の役割にもっと専念できるようになるはずだわ」
智子はそう言って、次の生産計画と入金データの照合を始めた。
ここから、地味で、しかし絶対に外せない管理の積み重ねが始まろうとしていた。
【Scene 2:回路の対話】
納屋の作業台には、回収された昭和51年製の配電盤が、その無骨な鉄の口を開けて横たわっていた。
北脇は絶縁抵抗計を傍らに置き、被覆が硬化してひび割れた古い電線を、一本ずつ迷いなくニッパーで断ち切っていく。
その横では、大橋千尋が取り外されたアナログメーターの汚れを、専用のクロスで静かに拭き取っていた。
「千尋さん。この盤を直すのは、単に部品を新しくするだけではありません。教えながら進めるので、今日はじっくり腰を据えていきましょう」
千尋は、くすんでいたメーターのガラスが透明感を取り戻すのを見届け、小さく頷いた。
「はい。画面の中の記号ではなく、この重いスイッチがどうしてこう動くのか、自分の手で確かめたいです」
北脇は満足げに目を細め、筐体の底に溜まった数十年の埃をエアダスターで吹き飛ばした。
最初の工程である解体と洗浄、そして新しい部品を配置する設計の確認は、順調に終わった。
既存のメーターやスイッチの配置は変えず、内部の配線だけを最新の規格に入れ替えていく。
いよいよ、本番である主回路と制御回路の配線作業が始まった。全部で6時間は要する、この修理の核心部だ。
北脇は電線を一本手に取るたびに、その線が担う役割と、回路を守るための知恵を丁寧に説いた。
「配線は最短距離を通せばいいというものではありません。熱を逃がし、振動に耐え、長く使い続けるための工夫が必要なのです。それが、この盤を預かる者の責任ですから」
千尋は北脇の手捌きを見つめ、教えられた通りの手順で端子台に線を這わせる。
専用の圧着工具を握る手に力を込めると、カチリ、という手応えと共に端子が固定された。
「指先が、熱いです。電気が通る道を、今、私が作っているんだって感じます」
「いい感覚だ。その手触りを忘れないように。次は、マグネットスイッチからサーマルリレーへの渡り線だ。ここがモーターの命を守る最後の砦になる」
集中が深まるにつれ、周囲の雑音は消え、二人の間には電線が擦れる音と、端子を締める金属音だけが響くようになった。
複雑に絡み合う制御回路の迷路を、一本ずつ、確実に、令和の規律で整理していく。
作業はまだ中盤。
納屋の奥で、二人の影は作業灯に照らされながら、静かに、しかし熱量を持って動き続けていた。




