【第82話:タッパと事務作業】
【Scene 1:タッパ付き漁船】
市場が休みで静まり返った港に、北辰丸のエンジン音が低く響いている。
佐藤はエンジンルームから這い出し、手にしていたノートパソコンを岸壁の木箱に置いた。
傍らで心配そうに様子を伺っていた木下が、口を開く。
「どうだった、佐藤。一通り見てくれたか」
佐藤はキーボードを叩きながら、耳元の骨伝導デバイスに向かって声をかけた。
「ヴェル、エンジンの振動データと冷却系の流量ログを照合してくれ。俺が目視で確認した摩耗箇所と一致するか」
『肯定します。マスターの視診データと、各種センサーの数値を統合解析しました。致命的な故障はありませんが、看過できない劣化が複数確認できます。メーカーの診断プログラムをエミュレートし、想定される修理見積もりを画面に出力します』
ヴェルの冷徹な声と共に、ノートパソコンの画面に詳細な診断結果と金額が弾き出された。
佐藤は画面を木下の方へと向けた。
「致命的な故障はない。だが、放置すれば遠からず止まる箇所がいくつかある。画面に出ているのが、正規の代理店を呼んだ場合の想定見積もりだ」
木下は画面を食い入るように見つめた。
【正規代理店予防保全見積り(シミュレーション)】 ・冷却水ポンプ:ユニット(Assy)交換 ・Vベルト、防食亜鉛、フィルタ類一式 ・基本技術料、出張費 合計想定額:約320,000円(税別)
木下は合計金額を見た瞬間、喉の奥で変な声を漏らした。 「さ、三十万超え。ただの消耗品交換でこんなにかかるのか」
「冷却水ポンプの劣化が原因だ。メーカーは後々のクレームを避けるため、内部のゴム部品だけでなく、金属ケースを含めたユニットごとの丸ごと交換を要求してくる。それに基本工賃と出張費が乗れば、その金額になるのが現実だ」
佐藤は画面の数値を切り替えながら、淡々と説明を続ける。
『マスターの言う通りです。メーカーの予防保全パッケージを適用した場合、出張費を含めて約三十二万円の請求が論理的な相場となります。非効率極まりないビジネスモデルですね』
ヴェルの言葉が、佐藤の判断を裏付ける。
佐藤はノートパソコンを閉じ、木下に向き直った。
「だが、俺がやるなら話は別だ。ユニットごとではなく、必要な部品だけをピンポイントで引き直す。十万でどうだ。発注と、二名で半日はかかると思うからな」
木下は目を丸くしたが、すぐに深く頷いた。
「十万でもメーカーの三分の一以下だ。佐藤の腕なら喜んで払う。ぜひ頼む」
佐藤は少しだけバツが悪そうに視線を落とし、言葉を継いだ。
「部品代自体は二万三千円ほどなんだが、合計五万とかで受けちまうと、今後に影響が出る。また同じ感じでやるためにこの金額にさせてくれ。すまんな」
木下はカラカラと笑って佐藤の肩を叩いた。
「気にするな。佐藤の腕と手間を買ってるんだ。安売りされたら逆に不安になる。金はちゃんと用意しておくから、よろしく頼む」
佐藤は頷くと、足元の工具箱から、配線が飛び出した小さな密閉容器を取り出した。
「それと、修理の時にこれをエンジンルームに仕込ませてくれ」
木下が不思議そうにその容器を覗き込む。
「なんだこれ。台所にあるタッパーか」
「中身は安いマイコン基板と、音声センサー、それに振動センサーだ。電源は船のバッテリーから取る。木下のスマホに専用のアプリを入れておくから、船に乗っている間はスマホの通信を使って、ヴェルのサーバーへ常時データを送る仕組みだ」
『肯定します。私が北辰丸の心音を常時監視し、異常の兆候を検知次第、即座に警告を発します』
佐藤は密閉容器を工具箱へ戻した。
「これを取り付けておけば、暗礁にでもぶつかるような物理的な事故がない限り、沖でいきなりエンジンが止まることは二度となくなる」
木下は目を丸くして息を呑んだ。
「そんな凄いもんまで付けてくれるのか。本当に十万でいいのかよ」
「タッパーの中身は全部で三千円くらいだからな。俺にとっても貴重なデータ収集になる。その代わりだ」
「ありがてえ。本当に何から何まで頼りっぱなしだな」
佐藤は今後の段取りを伝える。
「部品の手配は俺がやっておく。一ヶ月以内に部品が届いたら、作業を進めよう。不慮の事故でもない限り、これで半年は全く問題なく動くようにするつもりだ」
木下の安堵した笑い声が港に響いていた。
【Scene 2:なぎさ亭】
港から歩いてすぐの食堂「なぎさ亭」に入ると、潮の香りに混じって出汁のいい匂いが鼻をくすぐった。
店内は落ち着いており、厨房のおばちゃんが佐藤には特盛りの日替わり定食を、木下には刺身定食を運んでくる。
木下はまだどこか狐につままれたような顔をしながら、箸を割った。
「十万の修理代に、謎のタッパー。さっきの話、飯を食いながら詳しく聞かせてくれ。その基板とやらで、本当にエンジンが止まらなくなるのか」
佐藤は山盛りの白飯を一口頬張り、飲み込んでからノートパソコンを開いた。
「魔法じゃない。ただの予防保全だ」
佐藤は画面に、タッパーの中に収めた部品の構成図を表示させた。
「中身は安いマイコン基板と、音声センサー、それに振動センサーだ。電源は船のバッテリーから取る。木下のスマホに専用のアプリを入れておくから、船に乗っている間はスマホの通信を使って、ヴェルのサーバーへ常時データを送る仕組みだ」
木下が刺身を口に運ぶ手を止めて、画面を覗き込む。
「ヴェルのサーバーに送って、どうするんだ」
『私が解説します。木下さん。そのモジュールは、いわば北辰丸の聴診器です。エンジンが正常に回っている時の音と振動には、一定のパターンがあります。ベアリングが摩耗したり、ボルトが緩み始めたりすると、人間には聞き取れない極低周波や高周波のノイズが混じり始めます』
ヴェルの声が、骨伝導デバイスから店内に微かに漏れる。
『私は常時そのデータを解析し続け、過去の膨大な故障データと照合します。いつもと違うという兆候を検知した段階で、スマホに警告を飛ばします。それは、部品が完全に破損する数週間、あるいは一ヶ月前の段階です』
佐藤が付け加える。
「さっき木下に出した最短90日っていう診断も、これがあればもっと正確になる。部品が悲鳴を上げ始める瞬間に気づけるからだ」
木下は味噌汁を啜り、大きく息を吐いた。
「つまり、俺が気づく前に、ヴェルが教えてくれるってことか」
「そうだ。何かにぶつかったり、粗悪な燃料を掴まされたりするような物理的な事故は防げないが、機械的な摩耗や劣化でいきなり止まることはなくなる。兆候が出た時点で俺に連絡をくれれば、次の休場でパッと直せる」
佐藤は特盛りの飯を半分ほど片付け、木下を真っ直ぐに見つめた。
「木下は海の上で、余計な心配をせずに網を揚げることだけに集中しろ。船の機嫌は、俺とヴェルが診ておいてやる」
木下はしばらく黙って佐藤の言葉を噛み締めていたが、やがて顔を上げて笑った。 「十万。安い買い物だったよ。佐藤、本当に頼むぜ」
その時だった。 少し離れたテーブルで定食を食っていた、佐藤の知らない漁師風の男たち三人が、ぞろぞろと立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。
「おい、木下。ずいぶんと便利な話をしてるじゃねえか」
日に焼けた年配の漁師が、興味津々といった顔で木下の肩を叩く。 別の男が、佐藤のノートパソコンを覗き込みながら口を開いた。
「そっちの兄ちゃん、俺らの船も見てもらえねえか」
佐藤は箸を置き、淡々と事実だけを告げた。
「付けるのはいいが、ちゃんと修理になったら金はしっかりもらうぞ」
「おう、そりゃあ構わねえ。さっきの話を聞いてたら、壊れる予兆がわかるんだよな」
三番目の男が、身を乗り出して尋ねてくる。
「百パーセントわかるとは言わん。だが、確率は高いはずだぞ。俺の診断と、ヴェルのデータ解析を組み合わせるからな」
三人の漁師は顔を見合わせ、大きく頷いた。
「沖でエンジンが止まる恐怖に比べりゃ、タッパー一個で安心が買えるなら安いもんだ」
「兄ちゃん、俺の船にもそのタッパーを仕込んでくれ。頼むわ」
佐藤は首を横に振り、落ち着いた声で答えた。
「悪いが、今はタッパーのセンサーの予備を持っていないんだ。準備ができたら木下に連絡する」
男たちは残念そうにしつつも、嬉しそうに頷いた。
「おう、待ってるぜ。木下、話が来たらすぐに教えろよ」
静かだったなぎさ亭の店内が、にわかに活気づき始めた。 職人の確かな技術と、それを裏付ける最新のシステムが、漁師たちの口コミに乗って広がり始めた瞬間だった。
【Scene 3:タッパの解像度】
事務所「青豆腐」の前に軽トラが停まり、佐藤は使い込まれた工具箱を抱えて降りた。 コンテナのドアを開けると、電子機器の排熱の匂いが鼻を突く。
椅子に深く腰掛けた佐藤は、骨伝導デバイスのスイッチを入れ直した。
「ヴェル。なぎさ亭でのログを解析しろ。あのタッパーひとつで、俺たちはどこまで『予言』できる」
『おかえりなさいませ、マスター。漁師の方々の食いつきは、計算以上の反応でしたわね。あの密閉容器……いわゆる「タッパー」が収集するデータの有効性について、改めて演算結果を共有しますわ』
メインモニターに、北辰丸のエンジン音を周波数分解したグラフが踊る。
『まず、ベアリングの剥離・焼き付き予知、冷却水ポンプ(インペラ)の破損予知、Vベルトの滑り・破断予知、そしてマウントゴムの寿命判定。これら駆動系の物理的摩耗は、私の「耳」を誤魔化せませんわ』
佐藤はモニターの波形を指先でなぞった。
「音だけじゃない。スマホのGPSと連動させれば、回転数に対する対地速度の低下も追えるな」
『その通りですわ。さらに、吸気フィルタの目詰まり、ターボチャージャーの異常、燃料噴射ノズルの不調(失火)、粗悪燃料の混入判定。これら吸排気や燃料系の「内科的」な不調も、燃焼リズムの乱れから特定可能です』
画面に、北辰丸のエンジン内部を模した3Dモデルが展開される。
『加えて、プロペラへの異物巻き込みや船底の汚れ(貝・藻)の推測、海水ラインの詰まり。さらにはオルタネーター(発電機)の寿命、スターターモーターの固着予兆まで。漁師が「なんかおかしい」と首を傾げる前に、私がスマホへ引導を飛ばして差し上げますわ』
佐藤はフッと短く笑い、背もたれに体重を預けた。
「10万の修理代と、3,000円のタッパーか。木下にとっては安い保険だが、俺たちにとっては海帆港中の船の『健康診断データ』が手に入るチケットだな」
『ええ。データの蓄積が進めば、私は海帆市の全漁船の「寿命」を管理する神にでもなれるかしら。ですがマスター。お忘れなく。タッパーを配れば配るほど、あなたの「半日作業」が増える計算になります。物理的な身体を持たない私を羨ましく思わないことですわね』
「フン。そのために新人どもを鍛えてるんだ。ヴェル、次のタッパーの部材発注リストを作っておけ。なぎさ亭の三人の分、予備を含めて5セットだ」
『了解しましたわ。』
【Scene 4:前払いと完全隔離】
傾きかけた日差しが、コンテナ事務所の窓をオレンジ色に染めている。 佐藤はスマートフォンを置き、到着を待った。
砂利を踏む車の音が止み、数分後に健治が事務所へ姿を見せた。 作業着にはうっすらと木くずが付着している。
「急に呼び出してすまない。健治、工務店の年度末処理の進み具合はどうなっている」
佐藤が真っ直ぐに問うと、健治は頭をかきながら丸椅子に腰を下ろした。
「まあ、少しずつはやってるんだけどよ。現場が終わってからの深夜作業だとなかなか進まなくてな。白紙になったマンションの一件もあるし、業者の対応で頭が痛いところだ」
疲労が滲むその言葉に、佐藤は手元のタブレットへ視線を落とした。 画面には、智子が弾き出した今月の支払総額が表示されている。
「明日、智子から工務店の口座に136万5000円を振り込ませる。3月分の前払いだ」
健治の動きがピタリと止まる。 数秒の空白の後、信じられないものを見るような目で佐藤を見つめた。
「は。先に振り込む。何言ってるんだ佐藤。月末締めの前に突っ込んでくる元請けなんて聞いたことがないぞ」
「今月は途中合流だから、部下が14日、健治が9日の稼働計算だ。明日からの1週間、健治が現場に出ない5日分の17万5000円は、きっちり引かせてもらっている」
佐藤は淡々とした口調で、数字の根拠を提示する。 健治の表情が、驚きから徐々に理解へと変わっていく。
「健治が疲労を抱えたまま現場で動くと、こっちの規律に響く。明日からの1週間、部下3人は俺と牧野で預かる。その間に事務所にこもって、決算を完全に終わらせてほしい」
それは命令ではなく、互いの会社を生き残らせるための合理的な提案だった。 年度末の資金繰りと時間の枯渇。その両方を、佐藤は実弾で撃ち抜いたのだ。
「それと、今月は部下たちに残業をさせないでやってほしい」
佐藤はタブレットの画面を閉じ、静かに付け加えた。
「こっちからの支払いはこれで確定だ。今月分の給料もこの時点でほぼ確定させてしまえば、毎日の給与計算の手間が省ける。決算処理も早く終わるはずだ」
健治は目を丸くし、それから面白そうに口角を上げた。
「徹底してるな。支払いだけじゃなく、俺の事務作業を減らす算段まで組んでるわけだ」
「現場の規律を守るためには、経営者の頭の中も整理されていなければ困るからな」
「痛いところを突く。分かったよ、野郎どもの給料も今日でスパンと締める。残業もなしだ」
健治は深く息を吐き出し、天井を仰いだ。 その目元には、安堵とも悔しさともつかない、微かな熱が浮かんでいる。
「その金でリース代でも何でも払って、体制を立て直してくれ。来月からはフル稼働で頼む」
「ああ、分かったよ。きっちり1週間で忌々しい書類を全部片付けて、完璧な状態で戻ってきてやる。野郎どものこと、頼んだぞ」
健治は力強く頷き、勢いよく立ち上がった。 その背中からは、先ほどまでの重苦しい疲労は完全に消え去っていた。
【第82話:収支報告(最終版)】
【前回の資産:2,950,520円】
【収入:0円】
【支出:1,555,500円】
健治工務店:3月分稼働費前払い:1,365,000円
船舶監視用「タッパー」センサー部材(大量一括発注):100,000円
毬「Silk & Ravage 99」海外発送送料(45個×1,500円):67,500円
北辰丸・修理用交換部品(インペラ等実費分):23,000円
【現在の資産(メイン口座):1,395,020円】
【納税・社保引等金(聖域):1,472,000円】
【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】
【個人資産(佐藤):6,100,000円】
【役員借入金残高(佐藤への債務):5,000,000円】
【第82話:完】
【偉人の言葉】 「信頼は、金で買うものではなく、誠実な行動の積み重ねによってのみ築かれる。」




