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【第81話後編:熱の胎動】

【Scene 4:バグってる就業規則】


 土曜日の午後。大橋千尋は自室のパソコンモニターを見つめていた。

 画面に映っているのは、ブラウザ版の『ヴェル・アプリ』。支給されたアカウントでログインすると、自分専用のダッシュボードが表示されている。


 キーボードに置いた指先が、わずかに震えていた。恐怖からではない。そこに羅列された「就業規則」という名のテキストが、彼女の知る社会の常識からあまりにも乖離していたからだ。


「なんだこれ。完全にバグってる」

 千尋は独り言を呟きながら、マウスのホイールを回す。


 まず目に飛び込んできたのは、労働時間とインターバルの項目だ。連続勤務は最大6日まで。その前後には必ず1日の休日を設けること。


 さらに、残業や早出が発生した場合、次の勤務までに必ず「12時間以上」の間隔を空けるようシステムで制御されている。


 割増賃金のロジックも異常だった。法定休日の出勤は40%増し、非法定休日は30%増し。通常の残業も、法律の最低ラインである25%ではなく、一律30%増しとハードコーディングされている。


 深夜労働の定義すら違った。世間一般の22時ではなく「21時以降」を深夜帯とし、30%が加算される。

 その結果、残業や休出が深夜に食い込んだ場合は60%増し、法定休日の深夜に至っては70%増しという、見たこともない掛け率が設定されていた。


「これ、会社側が絶対に長時間労働させないための防波堤だ」

 千尋は画面をスクロールする。有給休暇の項目には、入社初日からいきなり15日が付与されるとある。


 勤続年数に応じて最大30日まで増え、年最低10日の取得が義務化されていた。年に14日の病気休暇もあり、会社が半日分を負担して有給と組み合わせる運用が推奨されている。


 給与改定の仕組みも極めて合理的だ。月給35万円以下の層は、3月と9月の年2回も昇給査定がある。

 賞与は月給のレンジに応じて2ヶ月から5ヶ月分と変動するが、あえてボーナス偏重にせず、生活の基盤となる月給のベースアップを優先させる意図がはっきりと読み取れる。


 月に120時間以上勤務すれば、給与額に応じた退職金の積み立てまで会社が行ってくれる仕様だ。

 福利厚生のセクションを開くと、さらに信じられない文字列が並んでいた。


 結婚手当10万。出産前と出産時の手当で計30万。弔慰金から本人の死亡時の補償まで、ライフイベントへの金銭的バックアップが網羅されている。


「男性社員は、出産予定日の2週間前から会社半分負担で半強制的に休暇を取る。女性は予定日9週間前から100%会社負担の特別有給」


 千尋の指が止まる。育児休暇の項目には「出産後1年間の男女ともの取得を推奨」とあり、さらに「休暇中は1日1時間の在宅勤務を推奨」と書かれていた。


 完全に現場から切り離されて孤独になるのを防ぐための、見事なエラー処理だ。中学校に上がるまでは1日4時間からの時短勤務も、給与とスライドさせる形で個別に相談可能となっている。


「この社長、法律の最低限をクリアする気なんて最初からないんだ」

 千尋はモニターから目を離し、自室の天井を仰いだ。


 世の中の効率主義は、人を削るためにあると思っていた。高専時代、意味のないスペック競争に疲弊し、社会に出ることに絶望していた千尋にとって、この規則は衝撃だった。


 佐藤という男は、論理と数字と資金を使って、理不尽な社会から従業員を守るための「完璧なシステム」を構築している。


 自分がこれから組み込まれるシステムの全容を理解し、千尋は小さく息を吐いた。

 月曜日から始まる多角事業のローテーション。自分の指先がハマる場所を見つけるためのテストプレイが、少しだけ楽しみになっている自分がいた。



【Scene 5:猫撮影会】


 本来ならシフトに入っていないはずの木村七海は、愛用のジンバル付きスマートフォンを片手に集会場の引き戸を開けた。

「おはようございまーす。お邪魔します」


 持ち前の明るくよく通る声で挨拶をすると、和室で車座になっていたおばあちゃんたちが一斉に顔を上げる。

「あら、七海ちゃん。今日も元気だねえ」


「お休みなのに偉いね。お茶でも飲んでいきなさいな」

 地元のおばあちゃんたちは、色鮮やかな糸を巻いて毬を作りながら、孫を見るような目で七海を歓迎してくれた。


 その隣の作業スペースでは、パートの女性たちが完成した毬を手際よく段ボールへ梱包している。

「ありがとうございます。ちょっとだけ撮影させてくださいね」


 七海は人懐っこく笑い返し、和やかな手作業の風景にカメラを向けた。だが、彼女の本当の狙いはそこではない。

 視線の先は、壁の低い位置に後付けされた小さなフラップ扉だ。


『外部広角カメラ、対象の接近を検知。歩様、骨格モデル、および網膜パターン照合クリア。登録生体、イエネコ・茶トラ個体と完全に一致』


 七海の胸元にあるインカムから、ヴェルダンディの合成音声が響く。

 いつもは冷徹で無駄を嫌うシステム管理AIの声だが、今はどう聞いても演算リソースを過剰に割きすぎている。


『心拍数および体表温度、異常なし。今日も素晴らしい毛並みね。電磁弁のロック、解除します。ゆっくり入ってきてちょうだい』

 カチッという小さな電子音が鳴り、分厚い扉のロックが外れる。


 外からふらりと現れた茶トラ猫が、慣れた様子で頭で扉を押し開け、集会場の中へ入ってきた。

「お、来た来た。今日のゲスト第一号だね」


 七海はスマートフォンの録画ボタンを押しながら、低い姿勢で猫にカメラを向ける。

 この猫用ドアは、ヴェルダンディが全周囲カメラの映像を極限まで解析し、特定の猫が近づいた時だけ電磁弁を操作する完全自動ゲートだ。


 他の野生動物や不審者が近づいても絶対に開かない、軍事施設並みのセキュリティ網が、なぜか猫の出入りだけのために全力で稼働している。


『室内の空調を最適化します。床面の温度分布も調整済みよ。人間たちは絶対に踏まないように注意して動きなさい』

 ヴェルダンディの指示には、自らが管理する至高の存在への、隠しきれない異常な過保護さが滲み出ていた。


 猫はおばあちゃんたちの足元をすり抜け、梱包待ちの段ボールの影で一番居心地の良い場所を陣取る。おばあちゃんたちも猫の扱いに慣れたもので、邪魔にすることなく毬作りの手を動かしている。


「AI制御の絶対防衛ゲートを突破して、おばあちゃんたちの膝でくつろぐ猫ちゃん。これは視聴者も絶対に食いつくよ」

 七海は画面越しの猫に向かって、楽しそうに笑いかける。


「千尋、あとで最高の素材データを送るからね。編集よろしく」

 七海は同級生であり、自身のチャンネルの裏方でもある友人へ向けて画面越しに呟いた。


 自分が野生の直感で撮影し、千尋がプロレベルの編集で仕上げる。空白の期間を繋ぎ止めていた二人のコンビネーションが、この新しい職場でさらに輝きを増そうとしている。


 最新のAIテクノロジーによる極端なエコ贔屓と、おばあちゃんたちの手仕事。そして自由気ままな猫たち。

 海帆市の小さな集会場は、七海にとって最高の撮影スタジオになっていた。



【Scene 6:ジャンクはおもちゃ】


 休日の納屋。コンクリートの土間には、昨日スクラップ屋から引き取ってきたばかりの古い灯油ボイラーが九台、整然と並べられていた。


 智子は作業着姿で現れた。休みなのだがなんとなく気になって様子を見に来たところ、すでに佐藤が工具を手に取り、ボイラーのカバーを外して内部の清掃を始めている。


「やっぱり手をつけてる。私も手伝うよ」

 智子が袖を捲りながら近づくと、佐藤は無言で手を制した。

 そして、作業台の横に置いてあったタブレットを起動し、画面を智子へ向ける。

「工具に触る前に、この画面の条目に同意のサインを書いてくれ」


「なにこれ」

 智子が画面を覗き込むと、そこには堅苦しい文面が羅列されていた。


 ヴェル・アプリ:プライベート・ラボ(施設私的利用)同意条目

【第1条:目的の定義】 本日の施設立ち入りおよび設備利用は、利用者の個人的な技術的好奇心、自己研鑽、または趣味的創作活動を目的とするものであり、会社による業務命令に基づくものではないことを確認する。


【第2条:参加および離脱の完全なる自由】 利用者は、本施設への立ち入りおよび退出、ならびに活動の内容について、自らの意思で決定する権利を有する。会社は制限を設けず、いつでも予告なく活動を終了し帰宅できる。


【第3条:労働基準法上の非該当性】 本日の活動時間は、労働基準法上の「労働時間」には該当しない。したがって、賃金等の支払対象とはならず、将来の人事評価に影響を与えることは一切ない。


【第4条:成果物の帰属と処理】 活動中に生じた技術的知見、または修理・改善等の成果物について、利用者は無償で会社にその知用を許諾するものとする。会社はこれを利用者が単なる趣味の工作として行ったものとみなす。


【第5条:安全管理と自己責任】 利用者は、休日であっても工場の「安全規律」を遵守しなければならない。


【第6条:施設管理ログの同意】 本サインをもって入退館の記録を行う。


「やりすぎじゃないの。これじゃ完全に、サービス残業を『趣味の工作』って言い張るための誓約書じゃない」


 智子が呆れたように言うと、佐藤は真顔で首を横に振った。

「休日に会社の設備を触れば、法的には労働とみなされるリスクがある。お互いを守るための明確な線引きだ。遊びでやるなら、遊びだとシステムに記録を残してくれ。智子が来るような気がしてさっき作った」


 佐藤の徹底したコンプライアンス管理に、智子はため息をつきながらも電子ペンでサインを書き込んだ。

 そこへ、納屋の入り口から控えめな足音が聞こえてきた。


「お休みのところ、失礼します。近くを通りかかったもので、少し寄らせていただきました」

 現れたのは、製造と電工の匠である北脇だった。休日の私服姿だが、その出で立ちには大手メーカー出身者らしい厳格な雰囲気が漂っている。


 挨拶もそこそこに、北脇の視線はずらりと並んだ九台の灯油ボイラーに釘付けになっていた。

「これは驚きました。古いボイラーのようですが、一体何に使うおつもりですか」


 北脇が興味津々に尋ねると、佐藤は清掃用のウエスを置き、淡々と計画を口にする。

「田んぼに直接お湯を入れる。水温を強制的に引き上げて、苗の初期成長にスタートダッシュをかけるための熱源なんだ」


「田んぼにお湯を。なるほど、巨大なボイラーを新調する代わりに、スクラップの灯油ボイラーを連結再生させるわけですか」


 北脇の目が、職人特有の鋭い光を帯びた。メーカーが匙を投げるような古い基板の単体修理すらこなす彼にとって、目の前のジャンク品の山は最高の玩具に等しい。

「佐藤社長。晩御飯の時間までで構いません。私にもその基板や配線に触らせていただけませんか」


 北脇が上着を脱ごうとした瞬間、佐藤は先ほど智子がサインしたばかりのタブレットを、無言で北脇の目の前に差し出した。

「なら、北脇さんもまずはこれにサインしてほしい」


 画面に表示された『プライベート・ラボ同意条目』を見て、北脇もまた目を丸くする。

 休日返上の労働という概念を、システムと契約で「純粋な大人の工作遊び」へとロンダリングする佐藤の手法に、智子は思わず吹き出した。



【第81話:収支報告】

【前回の資産:3,018,020円】

収入なし:0円】

【支出:67,500円】

 毬「Silk & Ravage 99」海外発送送料(45個×1,500円):67,500円

【現在の資産(メイン口座):2,950,520円】

【納税・社保引等金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):6,100,000円】

【役員借入金残高(佐藤への債務):5,000,000円】

【第81話:完】

【偉人の言葉】 「情熱とは、現状のデータを書き換え、不可能な数値を可能にするための最強のパッチである。」


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