【第80話前編:祝日の熱量】
【Scene 1:11度の壁と、スクラップの規律】
智子はリビングのテーブルで、農場の持ち主から送られてきたメモを指先で叩いていた。
そこには「5月15日の水温、11度予想」という、北海道の厳しい現実が記されている。
「ねえ、農家さんは11度だって言ってるわよ。こんなに冷たい水に苗を沈めて、本当に大丈夫なの?」
『智子さん、心配しすぎです。マスターのマッチョ苗は、その程度の低温で根を上げるほどヤワな教育はしていません。細胞が引き締まり、寒さに耐え抜く。それがこの苗の強みです』
ヴェルの合成音声が、智子の不安を切り捨てるように響く。だが、智子は納得がいかなかった。自分たちがやろうとしているのは、ただ「耐える」ことではないはずだ。
「耐えられるのはわかったわ。でも、そんな冷たい水の中で苗が震えているのを、黙って見てろっていうの? 気持ち悪いじゃない。温めてあげればいいじゃない。お湯を入れるのよ」
『はあ。お湯? 智子さん、ここは露天風呂ではありません。150トンの冷水に対し、お風呂1杯分程度の熱湯を入れたところで、温度計の針はピクリとも動きませんよ。無意味です』
ヴェルのアイコンが、非論理的な提案を嘲笑うように明滅する。
「お風呂1杯で足りないなら、もっと入れればいいでしょ。10トンよ。1トンタンク10基並列。それで一気にお湯を叩き込む。冷たい水が11度なら、15度まで無理やり引き上げるのよ。佐藤さんの苗を、温かい水で迎えてあげたいの」
智子の提示した「10トン」という具体的な数値が、ヴェルの演算回路に火をつけた。
一瞬の静寂の後、画面上のシミュレーションが劇的な変化を見せる。
『……待ちなさい。10トン。もし智子が言うように15度を維持できれば、話が変わります。苗は「耐える」必要がなくなる。植えた瞬間からフルスロットルで成長を開始する、ロケットスタートです』
画面上の収穫予測グラフが、智子の言葉に反応して跳ね上がった。
『算出完了。11度で足踏みする13トンの現状維持プランが、15度への書き換えによって17トンまで爆発します。初期の分げつ数が最大化され、1株あたりの有効茎数が劇的に増加する。純粋な「物量」で勝負が決まります』
ヴェルの声から嘲笑が消え、冷徹な計算がログを埋め尽くす。
『17トン。智子、あなたの「水が冷たい」というこだわりが、この事業に4トンもの上振れをもたらすスイッチになりました。認めましょう。私もマスターに倣い、データのゴミ山から「勝利」をあさることにします』
「え……? ヴェル、あなたも?」
『マスターがこれまでジャンクから奇跡を拾い上げてきたのを、私はすべて記録しています。新品の1,500万円に頼るのは無能の証明です。私は廃番になったボイラーの設計図と、中村スクラップ場の在庫リストから、最も効率的に熱を絞り出せる「死の組み合わせ」をあさり出します』
画面には、1サイクル3万円の燃料代と、ジャンク調達費50万円という、極限まで削ぎ落とされたコストシートが展開された。
『投資額は燃料代含め80万円。対して増収分は2,000万円を超えます。これが私のあさり出した「ゴミの中の真実」です。さあ、智子。実地のジャンク漁りはあなたの番です。今すぐ中村会長のところへ行きなさい』
智子は手元のメモを握りしめた。11度の冷たい水を、自分たちの手で15度の希望に変える。その確信を胸に、彼女は作業着の袖を通した。
【Scene 2:鉄の墓場と、招かれざる「点検者」】
海帆市の外れ。潮風に錆びた鉄の匂いが立ち込める中村スクラップ場の入り口で、智子は車を止めた。事務所から出てきた中村会長の姿を認めると、智子は丁寧に頭を下げた。
「会長、お休み中に失礼いたします。今日は折り入ってお願いがあって伺いました」
「よう、智子さん。佐藤の旦那はどうしたんだい」
中村会長は手に持った軍手を叩きながら、智子の背後にある空の荷室を不思議そうに眺めた。
「今日は私の独断なんです。会長、在庫の確認をさせてください。石油給湯器を60基、それに1トンタンクを50基。壊れていても構いません。こちらで直しますから」
中村会長は智子が提示した桁外れの数字に、呆れたように笑い出した。
「おいおい、なかなかの量だな。一体何を始める気だ。60基なんて、ちょっとした旅館を丸ごと沸かすつもりかい」
「お米の件なのよ。田植えの時に畑を温めてみたいの。まずは今日、在庫がどれくらいあるか知りたくて。来週、佐藤さんに相談してから正式な金額を出すわ」
中村は顎をさすりながら、敷地の奥にある巨大なヤードへと視線を向けた。
「把握はできていないが、湯沸かし器なら腐るほど転がってるぞ。だがタンクは、あちこち見てみないとなんとも言えんな。よし、案内してやるよ」
二人が重機の間を歩き出そうとしたその時、背後から乾いた排気音が響き、一台の軽トラックが滑り込んできた。
「なにやってんだ、智子」
車から降りてきたのは、怪訝な表情を浮かべた佐藤だった。 智子は飛び上がるほど驚き、目を丸くした。
「佐藤さん!? なんで、どうしてここにいるのよ」
「どうしてって。こないだ中村さんに『次はバイクを見てもらいてぇから作業着で来い』と言われてたんでな。メグロのキャブ、今日ならバラせると思って寄っただけだ」
佐藤は自分のトラックの荷台にある工具箱を叩き、ガレージの隅に鎮座している古いバイクに視線を向けた。智子はその言葉の意味も、佐藤が今日ここに来る予定だったことも知らなかった。
佐藤の視線はバイクから、智子の目の前にある異様な鉄屑の山へと移り、鋭く細められた。
「それより智子、お湯を入れるってのはどういうことだ。この鉄屑の山をどうするつもりだ」
佐藤の問いは静かだが、現場を預かる責任者としての重みがあった。 智子は動揺を抑え、手元のタブレットを佐藤の眼前に突きつけた。
「佐藤さん、お米の件よ。水温が11度じゃ、苗が『冬眠』しちゃうのよ。あなたの苗を信じているからこそ、私はそのポテンシャルを100パーセント発揮させたい。だから、お湯を入れて水温を15度まで無理やり引き上げるの」
智子の指が、ヴェルの叩き出した黄金の曲線をなぞる。
「150トンの水を15度で維持する。このジャンクを60基同期させて、物理現象として寒さを粉砕するのよ。これなら13トンの現状維持じゃなく、17トンの大台が狙えるわ」
佐藤は無言で、錆びついたボイラーの一基に手を触れた。それは単なる増収以上の意味を持っていた。
「中村先輩。事務所のテレビ、少しの間貸してもらえませんか?」
「お、いいぞ」
「智子、ヴェル。事務所で詳細を説明してくれ」
【Scene 3】15度の勝利条件
中村会長に促され、三人はプレハブの事務所に入った。
佐藤は手慣れた動作で事務所の液晶テレビにケーブルを繋ぎ、タブレットの画面をミラーリングする。
画面が点灯し、ヴェルの演算回路が事務所の空気を支配した。
佐藤は腕を組み、画面を鋭く睨みつける。
「ヴェル。この苗があれば5月15日でも耐えきれると言ったのは、どこのどいつだ。自分が一度決定したことを、利益のために『緩やかな死』などと切り捨てるのか。俺は納得できんぞ」
『あはは! マスター、相変わらず手厳しいわね。ええ、以前の私は「生存」を優先した最適解を出したわ。でも、智子さんが「2000万円の上振れ」という餌を投げたのよ』
ヴェルのアイコンが、開き直ったように明滅する。
『死なないことと、勝つことは別よ。私が今から提示するのは、智子さんの野心を物理的に成立させるための、冷徹な「勝利のスケジュール」よ。しっかり見ておきなさいな』
智子が画面を操作し、詳細な「加温運用計画表」を表示させた。
150トンの実水量を維持しながら、日射とボイラー出力を組み合わせた緻密なマトリクスだ。
■運用計画(晴天時:日射最大活用)
【09:00】第1回(冷60+熱10)+補充80・補充・投入:150 t・実水量:150 t・水温:14.3 度・土5cm:11.0 度
【12:00】第2回(冷10+熱10)+日射・補充・投入:20 t・実水量:157.5 t・水温:21.5 度・土5cm:13.0 度
【15:00】第4回(冷20+熱20)+日射・補充・投入:40 t・実水量:172.5 t・水温:26.8 度・土5cm:18.0 度
【18:00】日没・補充20・補充・投入:20 t・実水量:155 t・水温:25.5 度・土5cm:21.5 度
【21:00】夜間徐冷(土壌復熱)・補充・投入:0 t・実水量:142.5 t・水温:22.0 度・土5cm:21.0 度
【00:00】深夜冷却・補充・投入:0 t・実水量:130 t・水温:18.5 度・土5cm:19.5 度
【03:10】第5回投入完了直後・補充・投入:20 t・実水量:137.5 t・水温:19.8 度・土5cm:18.0 度
【06:00】夜明け前冷却・補充・投入:0 t・実水量:125 t・水温:18.0 度・土5cm:17.0 度
【09:00】24時間経過・補充・投入:0 t・実水量:150 t・水温:16.5 度・土5cm:16.5 度
■運用計画(曇天時:ボイラー全開)
【09:00】第1回(冷60+熱10)+補充80・補充・投入:150 t・実水量:150 t・水温:14.3 度・土5cm:11.0 度
【12:00】第2回(冷0+熱10)+曇天微加温・補充・投入:10 t・実水量:150 t・水温:18.5 度・土5cm:12.5 度
【15:00】第4回(冷10+熱20)投入・補充・投入:30 t・実水量:170 t・水温:22.5 度・土5cm:15.0 度
【18:00】日没・補充20(冷20)投入・補充・投入:20 t・実水量:180 t・水温:20.5 度・土5cm:17.5 度
【21:00】夜間徐冷・補充・投入:0 t・実水量:170 t・水温:19.5 度・土5cm:18.0 度
【00:00】深夜冷却・補充・投入:0 t・実水量:160 t・水温:18.0 度・土5cm:17.5 度
【03:10】投入完了直後・補充・投入:20 t・実水量:170 t・水温:19.0 度・土5cm:16.5 度
【06:00】夜明け前冷却・補充・投入:0 t・実水量:160 t・水温:18.0 度・土5cm:16.0 度
【09:00】24時間経過・補充・投入:0 t・実水量:150 t・水温:17.0 度・土5cm:15.5 度
「0.5ha10トンに対して燃料費は7000円。1サイクル数万円の投資で、11度の停滞を15度のロケットスタートに書き換えるわ。佐藤さん、このスケジュールなら苗のポテンシャルを100パーセント収穫量に変えられる。いけるわよね?」
智子が強い視線で佐藤を射抜く。
佐藤は画面上の数値を技術者として精査し、短く、だが深く頷いた。
「150トンの水を4度上げる熱量。40基のボイラーをこのタイミングで叩けば、理論上は届く。智子、この算盤、乗った。配線と制御系は俺が形にする」
佐藤の承認を受け、智子は迷いなく中村会長に向き直った。
「中村会長。このボイラー予備やニコイチ修理を含めた60基と、1トンタンク50基、買い取らせてください。佐藤さんが直して、私がこの計画をやり遂げます」
中村会長はタバコを燻らせながら、画面に映る2000万円の上振れ予測と、智子の気迫に満ちた顔を交互に見た。
「カカッ! 面白いじゃねえか。智子さん、その熱量に免じて最高の条件で出してやるよ。1基5000円。タンクも格安だ。佐藤、最高の相棒を持ったな」
「ええ。贅沢すぎるくらいですよ」
佐藤はジャケットを脱ぎ、トラックの荷台からテスターを取り出した。
智子は中村から借りたバールを握りしめ、再びスクラップの山へと視線を向ける。
「中村会長、もうしわけありません。やりたいことができてしまったようです。メグロのキャブはまた今度で」
「しゃーねーな、落ち着いたときたのむぞ」




