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【第80話後編:祝日の熱量】

【Scene 4:不退転の自習室】


 藤田はアパートの狭い机で、建築法規の分厚いテキストと格闘していました。

世間は祝日の休みを満喫しています。ですが、今の彼に「のんびり休む」という選択肢はありません。


 来月から、信じられないような規律が始まります。 午後の15時から17時までの2時間を、業務中でありながら試験勉強に充てていいという特権です。


 普通の会社ならあり得ません。現場の人間を、それも稼ぎ時の午後に2時間も机に向かわせる。そんな破格の条件を提示された以上、藤田の背中には冷たい汗が流れていました。


 これだけの便宜を図ってもらって、もし落ちるようなことがあれば、合わせる顔がありません。 不合格は、技術者としての死を意味します。それくらいの重圧が、藤田を休日の机に縛り付けていました。


「25万から、32万か」

 ノートの隅に、現在の月給と合格後の予定額を書き込みます。 7万の昇給。それは単なる報酬ではなく、プロとして認められた証です。


 佐藤は言いました。

「お前が来月も同じ精度で動くための維持費だ。資格はその証明に過ぎん」

 情けで給料を上げるのではありません。価値があるから払う。 そのドライでいて確かな信頼に応えるためには、法規の一字一句を脳に刻み込むしかありませんでした。


「第17条、誘導灯の有効範囲」

 文字が滑ります。焦れば焦るほど、頭に入ってきません。 藤田は小さく吐き捨て、机の上のスマートフォンを手に取りました。 画面には、会社の全情報を管理するヴェルアプリのアイコンがあります。


 彼はアプリを起動し、音声アシスタントを呼び出しました。 以前の冷徹な声ではなく、設定を切り替え、今の自分に最も必要な「声」を求めます。

「フレイヤ、頼む。法規の第17条が、どうしても頭に入らないんだ」


 藤田の声に応えるように、画面が穏やかな青い光に包まれました。

「あら、藤田さん。祝日なのに、熱心ですわね。脳のオーバーヒートは、合格率を大幅に下げてしまいますわよ」


 フレイヤの穏やかで気品のある声が、静かな部屋に響きます。 その凛とした響きに、藤田は張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けるのを感じました。

「15時からの勉強時間を有効に使うためにも、今日のうちにこの項目を整理しておきたいんだ。でも、条文が難しくて」


「ふふっ。真面目ですわね。藤田さん、ただ書くだけではなく、その言葉を『口に出して』みてはいかがかしら?」

 フレイヤが、テキストの難解な文章を読み解くための「技術」を提案します。

「口に出す? 独り言みたいに、か?」


「ええ。書くという運動に、声を出すというアウトプット、そしてそれを自分の耳で聞くというインプットを重ねるのですわ。五感を多層的に使うことで、記憶の定着率は飛躍的に高まります」


 フレイヤの解説は、単なる知識の提供ではありません。 藤田の中に眠る現場の記憶を、法規という論理に結びつけていくデバッグ作業でした。

「例えば、この第17条を、誰かに現場で指示を出すつもりで読み上げてみてください」


 藤田は半信半疑ながら、テキストの文字をなぞりながら声に出しました。

「……誘導灯の有効範囲は、歩行距離で20メートル以下。明るさは床面で1ルクス以上」

 自分の声が耳に届きます。ただ目で追っていた時よりも、言葉の輪郭がはっきりと意識に刻まれる感覚がありました。


「どうかしら? 自分の声で聞くと、言葉が『生きた情報』として脳に届くはずですわ。現場で牧野さんの指示を耳で覚えたように、法規もまた、あなたの身体の一部にしていきましょう」


「……確かに。ただ書いてる時より、逃げていかない感じがする。これならいけるかもしれない」

「頼もしいですわ。知識を詰め込むのではなく、言葉を『飼い慣らす』のです。焦りは最大の敵。少し深呼吸をして、脳に新鮮な空気を送ってあげてくださいね。合格は、智子さんも心から望んでおられますわ」


 フレイヤの優しくも凛とした励ましに、藤田は力強く頷きました。

 来月の開始を待たず、今日から体を作っておく。 二級建築士という門を潜り抜け、あの二人の背中に追いつくために。


 藤田はシャープペンシルを握り直し、再び法規の森へと分け入りました。 今度は迷路ではなく、自分の声が導く確かな避難経路が見えていました。



【Scene 5:550坪の白図と、静かなる招致】


 金曜日。春分の日。 海帆市の空は低く、窓の外にはまだ冬の名残を感じさせる冷たい風が吹いている。


 牧野は居間の座卓で、湯気を立てるコーヒーを片手に1枚の図面を広げていた。 視線の先にあるのは、事務所として使っているコンテナ「青豆腐」が鎮座する納屋の横。 今はただ枯れ草が目立つだけの、なだらかな550坪の雑種地だ。


 その何もない地面の上に、59坪の精米工場が建つ。 図面の白い余白を指でなぞりながら、牧野はそこにあるはずの鉄骨と、搬入される重機の音を頭の中で再生させていた。


 ただの空き地が、秋には140トンの米を磨き上げる心臓部に変わる。 その実感が、じわりと指先に熱を持たせる。


 背後では、裕子が手際よく家事をこなしていた。 洗濯物を畳むその手つきには迷いがない。 彼女はつい先日、新たに6名のパートを見つけ、リパルテンツァの陣容に加えたばかりだ。


 これで合計12名。 だが、現在の勢いを見れば、これで終わりではないことも分かっている。


「この調子だと、また近いうちに『人が足りない』って言われるかもしれないわね」

 裕子が独り言のように呟いた。 彼女の頭の中には、地域の繋がりの中で「ほんのり働ける人」のリストが書き換えられている。


 時給の高さは、あえて伏せたまま。 最初から金を目当てに集まる人間ではなく、仕事の規律を重んじる人間を慎重に見極める必要があるからだ。

「佐藤さんは、めんどくさい人間関係を持ち込むのを一番嫌がるから。人選には本当に気を使うわ」


 裕子の苦労を知ってか知らずか、牧野はコーヒーを一口啜り、図面へ視線を戻した。 その時、座卓の上に置いたスマートフォンが短く震えた。 画面に表示された名は「佐藤」。


「お疲れ様です、佐藤さん」

『佐藤だ。少しだけ話したいことがある、時間はいいか?』


 スピーカーから漏れる声は、休日であっても変わらず冷静で、迷いがない。

「普通に家でのんびりしてるだけです。大丈夫ですよ」

『すぐ行く。すまんな、休日に』


「いえいえ、お待ちしてます」

 通話が切れると同時に、牧野は立ち上がった。

「あなた、どうしたの?」


「佐藤さんが話したいことがあるってさ。今からここへ来る」

 裕子は驚いたように手を止めたが、すぐに納得したように頷いた。

「もう来たみたいだね。車の音がしたわ」


 窓の外で、砂利を踏む規則正しい音が止まる。 間を置かずに、玄関のインターホンが鳴り響いた。

「コーヒーの準備をするわ。あなた、お願いね」

 裕子がキッチンへ向かうのを見送り、牧野は玄関の鍵を開けた。


「すまんな」

「どうぞ、上がってください。ちょうどコーヒーを淹れたところです」

 佐藤は短く会釈を返し、作業着のまま居間へと足を踏み入れた。 その鋭い眼光は、休日の穏やかな空気の中でも、常に次の「盤面」を見据えているようだった。


「何度も言うようで申し訳ないが、休日にすまない。でも悪い話じゃないと思うので来た」

「いえいえ、特に今週は4日しか働いてなくて、悪いなぁと思っていたところですよ」


 座卓を挟んで向き合うと、佐藤は単刀直入に切り出した。

「さて、本題だ。いきなり金の話で申し訳ないが。お二人の手取りの話をさせてもらう。今月は予定通りいけば、牧野が手取り17万。裕子さんが10万だ。少ないとは言えないが、多くもない」


「いえ、佐藤さんが肩代わりしていただいた毎月20万返済があるので、これでも多い方だと思います」

 牧野が即座に返すと、佐藤はわずかに目を細めた。


「そう言ってもらえると嬉しいのだが、毎日『毬』1名の人員管理に加えて、今週から平日『爪とぎ』2名を、合計12名分、裕子さんにお願いする形になってる。それで同じというのも気が引けててな」


 佐藤はそこで言葉を切り、少しだけ視線を外した。

「正直言うと、複数の主婦にあまり直接関わりたくなくてな」

「佐藤さんにも、苦手なことがあるんですね」


 裕子がキッチンからコーヒーを運びながら、くすりと笑った。

「部品は文句言わんが、人間は文句言うからな、くくっ」

「ま、そこは裕子に任せていただければ、うまくやると思いますよ」


 牧野の言葉に、佐藤は深く頷いた。

「そこで、裕子さんの勤務時間変更をお願いしたい。今までは月40時間狙い、時給2500円だったが、来月から一日5時間、月合計100時間、月給で25万にしたいと思うんだ」


「あらー」

 裕子が驚きの声を漏らす。


「勤務時間が増え、時給では下がる形になる。いろいろな税金が乗るからな」

 佐藤は落ち着いたトーンで、新しい「規律」の提案を続けた。


「お子さんも、来月から高校生になると思う。何かと物入りになると思ってな。こうすれば、お二人の手取り合計は約37万になる。裕子さんがブランド狂いじゃなきゃ、普通に暮らせるんじゃないかと思ってな」


 佐藤の言葉に、牧野は思わず図面から顔を上げた。 子供の進学まで把握し、家計の防衛線を具体的に提示してくる。 その配慮の深さに、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「佐藤さん、そこまで考えていただいて。ちょうど入学金や制服代で頭を抱えていたところです。37万あれば、あいつを不自由なく学校へ通わせてやれます」

 裕子も深く頭を下げ、それから少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


「ブランド品なんて興味ありませんから大丈夫ですよ。それより、私にそこまで期待していただけることが何よりの報酬ですわ。責任を持って、佐藤さんの苦手なところを引き受けさせていただきます」


「助かる。あとは、今後さらに4時間パートを増やすことになると思う。まずの決定事項が、これから建設する精米事業だ。あと検討中なのが、今週立ててもらった苗プラント。苗の後に、何か野菜でも水耕栽培で作ってみようかと考えている。いろいろ寄せ集めのプラントだが、遊ばせておくのはもったいないしな」


「なるほど、あのプラントをそのまま転用するんですか。確かに、育苗が終わった後の設備を空けておくのは非効率ですね。水耕栽培なら、あの構造を活かして安定した供給が狙えそうだ」


 牧野の職人としての目が、新しい事業の可能性を瞬時に計算する。 佐藤は頷き、裕子へ真っ直ぐに視線を向けた。


「今、裕子さんには現場はコミュニケーション程度に入ってほしいが、今後の人員集めの分も兼ねている時間だと思ってほしい。ということで、月60時間の勤務時間増加になるが、受けてもらえないだろうか?」


「もちろんです。12名でもまだ足りなくなる予感がしていましたから。地域のネットワークを駆使して、リパルテンツァの空気に馴染める、筋の通った方を探しておきますわ。佐藤さんは、どうぞ安心して設計に集中してください」


 裕子の力強い言葉に、牧野も静かに背中を押した。

「俺からもお願いします。裕子が現場をまとめてくれれば、俺も安心して新工場の建設に没頭できます。佐藤さん、この話、喜んでお受けします」



【第80話:収支報告】

【前回の資産:3,585,520円】

収入なし:0円】

【支出:567,500円】

 加温システム用ジャンク資材(ボイラー60基・タンク50基)一括調達:500,000円

 毬「Silk & Ravage 99」海外発送送料(45個×1,500円):67,500円

【現在の資産(メイン口座):3,018,020円】

【納税・社保引等金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):6,100,000円】(役員借入金として500万を貸付済)

【役員借入金残高(佐藤への債務):5,000,000円】

【第80話:完】

【偉人の言葉】 「情熱とは、現状のデータを書き換え、不可能な数値を可能にするための最強のパッチである。」


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