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【第75話前編: 泥の代償、金の呼吸】

【Scene 1: 密室のデフラグ】


 駅裏の雑居ビル。地下へ続く階段を下りると、地上の喧騒が嘘のように消える。 カウベルが低く、湿った音を立てた。 店内を支配するのは、何十年もかけて壁に染み付いた紫煙の残香と、深く焙煎された豆の匂いだ。 俺は無言で会釈し、いつもの奥の席へ向かう。煉瓦の仕切りが、世間との物理的な境界線として機能している。


 ドサッ。

 使い古されたビロードのソファに体を沈める。 ジャケットのポケットから、プラスチックの持ち手がすり減った軽トラの鍵と、スマホを取り出し、テーブルの隅に置いた。 油と埃にまみれた感覚をコーヒーの香りで上書きする。 お冷を持ってきた白髪のマスターに、俺はメニューも見ずに短く告げた。


「ホットサンドとブレンド。あと、食後にアフォガードを」

「かしこまりました」

 マスターが去り、再び静寂が戻る。 俺はスマホを手に取り、画面を起動させた。 農林水産省が公表した、最新のマンスリーレポート。そのPDFを無言でスワイプし、価格情報のページを呼び出す。


【全銘柄平均価格:26,485円】

 画面を凝視する俺の指が、その数字を執拗にトレースする。 60kgあたり26,485円。1kgあたりに直せば441.4円。 前年比プラス73%。1990年以降で過去最高値。 この数字だけを見れば、世間の連中は農家はボロ儲けだと騒ぐだろう。 だが、俺は画面をさらに下へ送り、資材価格指数の項目を長押しした。


 それが、ヴェルの起動スイッチだった。 画面の端から、漆黒のテキストボックスが滑り込んでくる。

『1kg 585円。60kgで35,100円。結局、その数字を押し通すつもりなのね。市場平均の441.4円に143円もの差額を乗せて、力ずくで農家を鎖から引き剥がす。その覚悟は、この最新データの絶望を見ても揺るがないのかしら』


 ヴェルのテキストが、政府の公表データの上に無慈悲に重なる。

『いいわ。同じ金額なら農家はJAを選ぶけれど、35,100円となれば話は別。JAが中抜きを維持するために設定した441.4円という天井を、あなたが物理的に踏み抜くことになる。でも、忘れないで。それは農家を救うだけじゃない。あなたが彼らの新しい主になるという責任の重さよ』


 カチャリ、と皿の音がした。 焼きたてのホットサンドが置かれる。 俺は熱々のサンドを手に取り、左手でスマホを操作し続けた。

「これは、農業じゃないな」


 俺は心の中で呟き、ホットサンドを噛み締めた。 画面上の肥料指数137という数字を、実際の伝票に変換する。 2024年には1袋3,200円だった肥料が、今は4,110円を超えている。軽油も120円台から160円へと跳ね上がった。


 農薬も2年前から15%は底上げされている。 燃料、肥料、農薬。そのすべてを海外から買っている以上、国内市場だけで完結させていれば、富は一方的に外へ流出し続ける。 資材代として外貨を支払い、国内で安く叩き売る。 今の農業は、ただの外貨垂れ流し装置に過ぎない。


『あら、ようやく財布の底に空いた37%もの巨大な穴に気づいたのね。肥料指数の137という数字は、単なる統計じゃないわ。農家が100の力で働いても、その内の37は最初から日本にすら残らない仕組み。主食用米の価格を吊り上げるために、税金を使って無理やり家畜の餌を作らせる飼料米の不整合。そんなマッチポンプで遊んでいる間に、農家の体力は外貨の流出と共に枯れ果てていくのよ』


 画面上の文字が、俺の喉を焼く。 出口を塞がれ、補助金という名の麻酔で眠らされたまま、燃料代と肥料代を毟り取られる。 そんな歪んだ構造を、俺の提示した585円という絶対的な対価と、外貨獲得という名のバイパスで切り裂く。


「2,200円の外貨を海外から引っ張ってくる。燃料も肥料も外来種である以上、国内だけで回していても維持はできない」

 俺はスプーンを手に取り、アフォガードの冷たい白に熱い黒を回しかけた。 白と黒が混ざり合い、溶けていく。 甘さと苦さが脳に染みるのを待った。


 1kg 585円で買い、2,200円で売る。 JAには乾燥保管料として30円、水利に5円を払って、インフラだけを利用する。 その1,615円の差額こそが、俺たちの技術と、農家の自立と、この国の農業が生き残るための真の道筋だ。

 俺はスマホをポケットに沈め、最後のアフォガードを飲み干した。 思考のデフラグは終わった。


「ほかの街のことはしらん。俺は海帆市の農業がしっかり稼げる道を作る。もうそろそろ行くか」

 会計を済ませ、喫茶店の重い扉を開ける。 肌を刺す風はまだ冷たいが、俺の胸の中には、明日からの戦いに必要な熱い数字が刻まれていた。



【Scene 2: 瓦解の足音】

 喫茶店の重い扉を押し開けると、海帆市の湿った空気が顔にまとわりついた。

 ポケットの中でスマホが長く震える。画面には工務店を経営する健治の名が表示されていた。

 通話ボタンを押し、耳に当てる。

「どうした」


「ちょっと相談があるんだが、どこにいる」

 受話器越しの健治の声は、湿り気を帯びて重い。余裕のなさが、短い語句の端々に棘となって現れていた。

 俺は使い古された軽トラのドアを開け、手垢で黒ずんだシートに腰を下ろした。


「ホームセンターに寄って資材を買ってから戻る。1時間後には納屋にいる。どうした」

「じゃあ、納屋で待たせてもらう」

 健治の返答を待たず、通話は切れた。


 国道沿いの大型店舗へ向かい、資材売り場でスチール製のメタルラック一式を3台分、台車に積み上げる。棚板の1枚1枚がずっしりと重い。さらに厚手の透明ビニール、首振り機能のついた工業用サーキュレーターをレジへ運んだ。


 支払いを済ませ、軽トラの荷台に資材を積み込む。ロープで固定する際、スチール同士が擦れる高い音が駐車場に響いた。

 1時間後、納屋の前に車を停めると、入り口の横で手持ち無沙汰に地面を蹴っている健治の姿があった。

「待たせたな健治。中に入れ」


 俺は荷台からラックの箱を下ろし、納屋の一角に設けた仮事務所へ運び入れた。

「ちょっと、困ったことになってよ」

 健治の表情には、逃げ場を失った職人の暗い影が落ちていた。

 俺は段ボールにカッターの刃を立て、スチール製のポールを取り出す。


「これ、組み立てながらでいいか」

「おう、もちろんだ」

 俺がポールの垂直を支え、健治が手際よく黒いプラスチックのスリーブを溝にはめ込んでいく。指先に染み付いたオイルの匂いが、2人の間で動いた。


「来週の水曜日からの仕事がなくなった。完全に真っ白だ」

 棚板を1段スライドさせ、2人で同時に4隅を叩き込んだ。ガシャン、という硬い音が納屋の天井に跳ね返る。

「どれくらいの工期だったんだ」


「3ヶ月以上の予定だった。大型マンションの計画が、デベロッパーの資金繰り悪化で突如白紙になりやがった。急激な金利上昇とコンクリートの再見積もりが、あいつらの損益分岐点を一気に突き抜けたらしい」

 俺はポールの継ぎ手をねじ込み、高さを延長させた。


「それはやばいな、健治。お前の会社、運営と人件費で月いくらかかってる」

「常用3人の人件費で160万円だ。事務所の家賃や車両のリースを合わせれば、毎月200万円が口座から音もなく消えていく計算になる」


 俺は2段目の棚板を健治に渡し、その目を見据えて言った。

「それなら、うちでがっつり仕事をするか。月に230万でどうだ」

「230万だと。佐藤、お前本気か。一体何をさせるつもりだ」


「やりたいこと詰まっている。8月いっぱまでは間違いなく仕事があるが、どうする」

「8月までだと。助かるなんてレベルじゃない。それだけあれば、うちの連中の生活も会社も完全に守りきれる」


 俺は作業の手を止め、ポケットからスマホを取り出した。

「ちょっと待て、牧野も交えて3人で話そう」

 呼び出し音が2回鳴り、通話がつながる。スピーカーに切り替え、組み立て途中のラックの横にある作業台に置いた。


「牧野か。休みの日にすまない。電話のままで来週からの話をしたい」

「佐藤さん、承知しました。どうぞ」

「健治の仕事が飛んだ。長期で一緒にやってもらおうと考えている」

「牧野、悪い。急な話だが、佐藤が言うなら俺はまた全力でやる」


 健治はスマホに向かってそう応じながら、俺が差し込んだ棚板の角を指差した。

「佐藤、そこの溝が甘いぞ。しっかり噛ませろ」

 俺は棚の角を拳で叩き込み、固定を確認してから続けた。


「やりたいことが多すぎてな。今いるこの納屋の改修、その横に25坪の苗プラント。それと俺の土地に工場と事務所を建設する。健治、そこを押さえてくれ。いっしょに2haの農業をやる米山さんの水田の水門自動化、土壌感知センサー24か所の設置、海帆市の水門配電盤の新規作成ラッシュだ。マタタビの木集め、それの精製液作りもある。全部お前らの手が必要だ」


「いろいろやることはわかりましたが、お2人で今、何をしてるんですか」

 スピーカー越しに牧野が尋ねる。

「木材乾燥の棚作ってる」


「それなら自分も行きますよ。ちょうど昨日、萩の月をもらったので、終わったら一緒に食べましょう」

「お、いいな。仙台銘菓か。牧野、待ってるぜ」

 健治が少しだけ表情を緩めて笑った。


「よし、牧野が来る前に、このラックの仕上げ、終わらせちまおうぜ。で、佐藤、さっき言ってた苗プラントってのはなんだ」

 俺は最上段の棚板をスライドさせながら答えた。


「米山さんっていう、離農しようとしてた農家がいてな。2haあるんだが、今年からはうちの会社で手伝うからまだやろう、とお願いしてあるんだ。そのための施設だ」

 俺たちは同時に棚の4隅を叩き込んだ。


「その中で作ったコメを海外に売ることを考えてる。銘柄は『おぼろづき』に決めたが、あれは味はいいが、わがままな子らしくてな。環境に敏感で、育てるのが難しい。だからこそ、しっかりした苗を自前で造る必要があるんだ」


「あいかわらず、徹底してんなぁ」

 健治が感心したように吐息を漏らし、2人でラックの揺れがないかを確認した。

 その時、納屋の入り口に1台の車が停まり、牧野が黄色い紙袋を手に現れた。

「お待たせしました。もう完成ですか。さすがに早いですね」


「牧野、早いな。悪いがあと2台あるんだ。手伝ってくれ」

 俺は2つ目の段ボールを足で引き寄せた。

 2台目の組み立ては、3人掛かりになった。1人がポールを支え、2人が左右からスリーブをはめる。

 金属が噛み合う一定のリズムの中、再び俺のスマホが震えた。大橋千尋からだ。

 俺はスピーカーのままスマホを作業台へ置く。


「あの、大橋です。日曜日にすみません」

「大橋さん、大丈夫ですよ。どうしました」

「お仕事の件、ずっと悩んでいたんですが、今、友達に怒られてしまって。そんなにいい条件のお仕事、この街ではそうそうないよ! 私が行きたいぐらいだよって。なので、全力で頑張りますので、あ、ちょっと七海」


 電話の向こうで、ハキハキとした若い女性の声が混じった。

「こんにちは、木村七海といいます! 大橋の同級生で、21歳です! おじいちゃんがまた働くって聞きました! お姉ちゃんも定期預金の手続きをしてもらった日、本当に喜んでました!」


 受話器の向こうで、21歳の活気が跳ねる。

「もし枠が空いていたら、私も働かせてほしいです!!」

 大橋が慌てて「こら、七海! 仕事の電話なんだから!」と制止する声が聞こえてくる。

 俺は最上段のポールを支えながら、スピーカーに声を投げた。


「そんなにうちの事務所から大橋さんの家は遠くなかったよな。よかったら、履歴書はとりあえず今はいいから、一度話を聞かせてもらえないか。あと大橋さんには契約書も書いてもらいたいしな」

「え、いいんですか! やった! ありがとうございます!」


 七海の弾んだ声と、大橋の恐縮しきった謝罪が混ざり合い、通話が切れた。

 納屋に再び、スチール棚を叩く硬い音が響き始める。

 俺は2台目のラックの最上段を、今日一番の力で叩き込んだ。


「聞いたか、健治、牧野。21歳の若者が、この泥臭い仕事に自ら名乗りを上げる。で、だ。俺のようなおじさんと21歳が事務所にいるのはマズイ。すまんが面接に付き合ってくれ」

「ははっ、お前らしくもねえ。だがまあ、コンプライアンスってやつか。いいぜ、付き合ってやるよ」

「承知しました。私も同席させていただきます。それが組織としての規律ですからね」



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