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【第75話後編: 泥の代償、金の呼吸】

【Scene 3: 黄金の円卓】


 3台目のスチールラックを壁際に寄せ、足元のガタつきがないか最終確認を行う。 金属の冷たい感触を掌に残したまま、俺は作業台に散乱したカッターや軍手を片付けた。

「よし。中に入ろうか」


 俺の合図で、健治と牧野が「青い豆腐」の入り口へと向かう。 納屋の薄暗い空間に鎮座するコンテナは、その外壁すべてが青い断熱材で覆われ、異様な威圧感を放っていた。 気密パッキングされたハッチを開け、俺たちは内部へ潜り込んだ。


 外断熱によって守られた20ftコンテナの内部は、6畳ほどの面積がある。 エアコンが作り出す24度の冷気が、納屋の埃っぽさを完全に遮断した静謐な空間を支配していた。 室内にはスチールデスクと椅子が整然と並び、機能性だけを追求した事務所として成立している。


 俺はデスクの横に置かれた段ボールから、500mlの緑茶のペットボトルを3本取り出した。 結露したボトルを、健治と牧野へそれぞれ手渡す。

「助かる。スチールを叩くと、喉の奥が鉄臭くなるからな」


 健治がキャップをひねり、豪快に茶を煽った。 牧野は丁寧に会釈をして受け取ると、ラベルの水分を拭ってから口をつけた。 デスクの上には、牧野が持参した萩の月の箱が置かれている。

「こんにちはー!」


 コンテナの外、納屋の広い空間に若い女性の声が響いた。 密閉されたこの部屋の中にいても、その活気は明瞭に伝わってくる。

 俺はハッチを開け、外の空気の中へ一歩踏み出した。 納屋の光の中に、21歳の2人が立っていた。

「どうぞこちらへ、あまり広くはありませんが」


 俺が手招きすると、七海が迷いのない足取りで近づいてきた。 彼女はコンテナの外壁を覆う青いスタイロフォームを指差し、声を弾ませた。

「お邪魔します! 佐藤さん、壁真っ青ですね!」


 七海がコンテナの中に足を踏み入れると、続いて千尋が入り口で一度足を止め、深く頭を下げた。

「こんにちは。日曜日に、すみません」

「そこの椅子に座ってくれ」


 俺は空いているパイプ椅子を2つ指し示した。

「まずは、わたしは、佐藤。株式会社 Ripartenzaの代表をしている。で、こっちが健治。工務店の社長でうちの建物関連はほぼ関わっている。そして牧野。建築、プラント組立関連のうちの責任者だ」


「健治だ。佐藤とは腐れ縁だが、現場の仕上がりには一切妥協しねえ。よろしくな」

 健治がペットボトルを置き、不敵に笑って短く挨拶をした。

「牧野です。佐藤さんの志を形にするのが私の役目です。まずは楽にしてください」


 牧野は座ったまま、穏やかな、だが職人特有の鋭い眼差しを添えて会釈をした。

 青い外断熱に守られた20ftの鋼鉄の箱。 その中央に置かれたスチールデスクの上で、萩の月の黄色い箱と、結露したペットボトルが、これから始まる交渉の静かな証人となっていた。


「大橋さんにお会いした翌日にも3名の方とお話させていただいた中で、大橋さんに言ってなかったことをお伝えしますね。1つめに35万になるまでは半年ごとに昇給査定します。ま、さすがに一気に5万とか10万は上がりませんが、ちょこちょこ様子見て上げさせてもらう予定です」


「35万。半年ごと、ですか。あの、私、まだ何も、お返しできるような成果を出せていないのに。本当に、そんなにいただいて、いいんでしょうか」

 千尋は、契約書の端を白くなるほど強く握りしめた。期待という重圧に、言葉を失っているようだった。健治は天井を仰ぎ、牧野は彼女を静かに見守る。


「あの、3人にも似たような疑問を持たれました。ヴェル、卵の話を画面に出してくれ」

『了解。マスター。出力するわ』


【生活実感を伴う「購買力」の比較(卵換算)】

 以前:200円 ー 15万円(750パック)

 現在:320円 ー 20万円(640パック)※今回提示:総支給25万

 将来:320円 ー 28万円(825パック)※目標:総支給35万


「こんな感じになってるんだ。税金・社会保険が上がってる今、総支給で昔のように卵買えるようになるのは、総支給で30万を超えるあたりなんだ。他社より多いのかもしれないけど、それは俺は比較対象として見ていない。よく言うでしょ、よそはよそうちはうちってね、くくっ」


「そして年14日までは病欠に関しては何も言わない。当日病欠します、と連絡もらうだけでいい。半日は会社が負担するから。給料減らしたくなかったら残り半日有給使ってもらってかまわない。言いにくいが、特に女性の日、重かったら気軽に休んで。」


「あと、結婚後の養育についても3段階用意してある。詳細は後で入れてもらう会社のアプリから社員規則を見てほしい」

「え、当日連絡だけでいいんですか? 生理休暇まで自分から言ってくれる社長なんて初めて見ました」


  七海が驚き、身を乗り出して俺の顔を覗き込んだ。

「うーん、無理してきていただくのもありがたいんだけど、テンションダダ下がりの能率もよくない。ミスや怪我の可能性もあるし。というか、言いにくい単語だったから俺は伏せて言ったのに」


「ありがとうございます。そういう、言い出しにくいことを先に決めておいてもらえると、すごく、助かります」

 千尋が深く頭を下げた。


「ということで、大橋さんは大丈夫そうね。では次に木村さん。あなたのことを教えてください。本当は履歴書とかあった方がいいけど、急に呼んじゃったからね」


「はい! 木村七海です! JAの整備工場で3年弱、トラクターからコンバインまで一通り触ってきました。理屈より先に手が動くタイプですが、機械の不機嫌な音を聞き分けるのは得意です。あと、猫のためならどこへでも行きます!」


『猫のためならですって?!』

「ヴェル、黙ってろ。木村さん、どんな高校を出て、何か資格等はとりましたか?」


「地元の海帆工業高校の機械科卒業です! 資格は、実務経験を積んで去年の12月に2級農業機械整備士を取りました。あとはフォークリフト、ガスとアーク溶接、玉掛けに小型移動式クレーン、危険物の乙4。現場で必要だと言われたものは、一通り揃えてあります!」


 七海は胸を張り、自身の技術を証明する資格の数々を淀みなく並べ立てた。

「牧野、現場の即戦力にもいけるな」

「21歳で2級整備士、さらに関連資格もこれだけ揃っている。即戦力どころか、今のうちにとっては願ってもない人材ですね」


「あと、千尋とふたりでyoutubeチャンネルもあります”みななちゃんねる”です!」

『開設から約1年の猫4匹をお部屋の中で撮影している、登録者6500人の可愛い猫ちゃんのチャンネルです!』

「だから、ヴェルいちいち猫に反応するな。そして画面にそのチャンネルを出すなよ」


「動画制作の機材やソフトも、これまでの給料を突っ込んで揃えてるんで、現場の記録や広報動画なら任せてください!」


「では、大橋さんから聞いているかもしれないが、うちの会社は農家、漁業関連機器修理、状況によっては直せそうな機械は何でも直す。あとはマタタビ精製液が入った猫の毬、明日からは同じく、精製液を真空含浸した爪とぎを作る予定です。そして中古の納屋を買ったので改修、米のための苗プラント作り、一緒に農業やる方の自動水門化や水質AI管理等の準備、そしてこの隣の敷地に秋までに工場と、ちゃんとした事務所を自社で建設予定です」


「真空含浸の爪とぎ! 整備以外にそんな面白そうなモノづくりまでやってるんですか。しかも、秋には自社工場なんて最高です。機械いじりも猫も広報も、全部全力でやらせてください!」

「ああ、その工場と事務所の施工はうちが請け負ってる。佐藤の野郎、注文が細かくて泣かされるが、やりがいはあるぜ」


 健治が頼もしそうに頷き、新たな仲間に不敵な笑みを向けた。

 スチールデスクの上で、結露したペットボトルが静かに光を反射していた。

「そして給与条件はもちろん一緒で25万スタート。しかし、木村さん、おじいさんから許可もらってください。その上で採用したいと思います」


「え、じいちゃんの許可ですか? わかりました。じゃあ今、電話で確認しちゃいますね」

 七海は作業ズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、迷いなく通話ボタンを押した。 密閉されたコンテナ内に、スピーカー越しに鳴る呼び出し音が鋭く響く。


「あ、じいちゃん? 七海だけど。今、佐藤さんの事務所。就職先、ここに決めていいよね? ……え、代われって?」

 七海が困ったような顔で、スマートフォンを俺の方へと差し出した。


「木村さん、電話変わりました。いきなりこんなことになってすいません。わたしが面談した大橋さんのご友人だったようで」


「おう、佐藤さんか。すまねえな、うちの孫が突然押しかけて。七海が今日、大橋の嬢ちゃんから話を聞いたっていうから、どこに乗り込んだかと思えばあんたの所だったか。本当に、あいつを雇ってくれるのか。腕はJAで仕込まれてるから嘘はねえが、とにかく跳ねっ返りでな」


 スマホのスピーカー越しに、木村さんの野太い声が響いた。短い付き合いだが、その飾らない響きには孫娘の突然の行動に対する困惑と、身内を案ずる体温が混ざっている。

「いえいえ、お若いのにいろいろ資格もおもちで、ぜひお願いしたいです」


「あんたがそう言ってくれるなら、俺に異論はねえよ。JAで3年、現場の泥は一通り被ってきてる。もしあいつが慢心したり手を抜いたりしたら、遠慮なく叩き直してやってくれ。佐藤さんのところなら、俺が言うまでもねえか。よろしく頼みます」


 電話の向こうで、木村さんが少し照れたように、だが確かな信頼を込めて短く笑った。

 俺は通話を切り、スマートフォンを七海に返した。


「許可は出た。条件については大橋さんと同じく25万スタート。昇給のルールも同様だ。納得できるならサインを」

 俺はもう一枚の契約書と、真鍮のペンを七海の方へスライドさせた。 七海は迷いのない筆致で、契約書に自らの名を記した。


「早速木村さんお願いがあります。同じ苗字の方が社内にいらっしゃるので、呼び方を決めていただきたいのです」

「あ、じいちゃんと一緒ですもんね。それなら私のことはナナミって呼んでください。現場で木村って呼ばれて、二人で返事するのもややこしいですし!」


「私も、名前で呼んでいただけると嬉しいです。大橋って呼ばれると、なんだかまだ緊張しちゃいそうです」

 真新しい二枚の契約書が並ぶデスクの上で、冷え切った緑茶が小さく揺れた。


「ありがとうございます。では七海さんと千尋さんと呼ばせていただきます。今日はこんなところで、とりあえず2着制服お渡ししておきますね。ヴェル、アプリインストールのQR画面表示してくれ」


『勤怠管理から資材発注、さらに緊急連絡まで。私の計算にあなたの時間を最適化するためのゲートウェイよ。さっさと読み込んで、自分の存在をシステムに登録しなさい』


「わあ、本格的なんですね。マニュアルもここから見れるんだ。今日から予習しておきます」

  千尋がスマートフォンを構え、画面を食い入るように見つめた。

「監視どんとこいですよ! 私、こういう便利なツールは大好きです。制服もありがとうございます! 明日からこれを着て、ナナミ、完全燃焼しますから!」


 七海は手渡された紺色の作業着を愛おしそうに撫で、コンテナ内にその明るい声を響かせた。

「あと、最後に、AIが二人いる。ヴェルダンディとフレイヤだ。基本お二人にはフレイヤが寄りそうようになる」

 俺がそう紹介すると、モニターの中で二つの異なる光が明滅した。


『私はヴェルダンディ。マスターの合理性を担保し、この事業の因果律を監視する存在よ。あなたたちのような未熟な個体の教育に割くリソースは、私の計算領域には存在しないわ。精々、足手まといにならないよう最速で適応しなさい』


 ヴェルの冷徹な合成音声が、コンテナの壁に冷たく反響した。それを受け継ぐように、もう一つの柔らかい声がスピーカーから流れ出す。


『皆様、はじめまして。フレイヤでございます。現場での戸惑いや、佐藤様の言葉の真意、そして日々の業務上の不明点など、何なりとお申し付けください。皆様がこの地で、誇りを持って歩んでいけるよう、誠心誠意サポートさせていただきます』


「え、AIが二人も? 喋り方が全然違う……。でも、フレイヤさんなら、なんだか優しく教えてくれそうですね」

 千尋が少し安心したように、画面の中の光を見つめた。


「毒舌な方と、おしとやかな方って感じですか。面白そうじゃないですか! ヴェルさん、ナナミの根性、たっぷり計算に入れておいてくださいよ!」


 七海は物怖じすることなく、画面に向かって不敵に笑いかけた。

 モニターの青い光が、新しい仲間たちの瞳に鮮やかに映り込んでいる。



【Scene 4:日曜日の着信音】


 みんなが明日に備え帰った後、事務所のデスクで、明日から合流する新人たちの最終的な機材チェックを行っていた。静寂を破ったのは、デスクに置いたスマートフォンの鋭い振動音だった。

 画面に表示された発信元は「JA海帆本部・常務」


 5日前の激しい交渉以来、音沙汰のなかった相手だ。休日というタイミングでの着信には、明確な意図が感じられた。佐藤は通話ボタンをスライドさせた。

「佐藤です」

「佐藤さん。休みの日に申し訳ない。JAの常務だ」


 受話器から聞こえる声は、前回の威圧的なトーンとは打って変わり、丁寧に探るような響きを含んでいた。

「どうしました。不手際でもありましたか」

「いや、そうではない。5日前の件で、個人的に話を詰めたい部分があってな。もし今日、時間が許すなら、今からJAの本部まで来てもらえないだろうか。裏の通用口は開けておく」


 壁の時計を確認し、短く答えた。

「分かりました。30分後に伺います」

「助かる。待っているよ」

 電話は切れた。佐藤は椅子から立ち上がり、壁に掛けた軽トラの鍵を手に取った。



【Scene 5:沈黙の三角形】


 人気のないJA本部の裏手。軽トラを停めた佐藤は、約束通り開けられていた通用門から内部へと足を踏み入れた。コンクリートの廊下には自分の足音だけが響き、平日の喧騒が嘘のように冷え切っている。

 階段で常務室の前まで辿り着くと、一度だけ短くノックをして扉を開けた。


「失礼します。佐藤です」

 室内に入った佐藤の視界の端に、壁際で直立不動のまま佇む人影が映った。

 稲葉だ。数日前、ハローワークで面談し、採用の回答を待っている最中の男。彼は佐藤と視線を合わせることなく、ただ無機質な空間の一点を見つめていた。


 デスクにいた常務が、穏やかな動作で立ち上がった。

「わざわざすまないね、佐藤さん。まあ、掛けてください」


 常務は応接スペースへと歩を進め、自らソファへと腰を下ろした。佐藤が対面に座るのを確認すると、常務は壁際の稲葉へ静かに視線を向けた。

 言葉はなかった。常務はただ、手近な椅子へ向けてわずかに顎を動かし、視線だけで着席を促した。


 稲葉はそれに応えるように短く一礼すると、音も立てずに椅子へと腰を下ろした。

 静まり返った室内。常務、佐藤、そして去就の決まっていないはずの男。回答を待たせている当事者が、なぜ交渉相手の懐にいるのか。その情報の歪みが、室内の空気を重く沈ませていた。


「佐藤さん、休みの日に申し訳ないね」

 常務は、手元の茶碗を揺らしながら、静かに切り出した。

「いえ、特に作業はしてませんでしたから、で今日はどのような?」


 佐藤は、椅子に深く腰掛けたまま、正面の常務と、その傍らに座る稲葉を交互に見た。

「息子の、優斗のことだ」

 常務が視線を上げ、隣の若者を指した。


「ええっ!」

 佐藤の喉から、驚きの声が漏れた。視線の先で、稲葉と呼ばれていた若者が、静かに深く頭を下げた。


「大きな声を出して申し訳ありません。存じ上げてなかったもので。言われてみれば同じ苗字ですものね。申し訳ありません、自分の苗字がありふれているもので、そういうことに機敏ではなかったようです。息子さんだったんですね」


「その通りだ。こいつは私の息子、稲葉優斗だ」

 常務は表情を変えず、淡々と肯定した。隣で優斗が、佐藤へ向けて申し訳なさそうに視線を落とす。

「面接のときにわざわざ言うことではないと思いまして」


「いや、親がだれでも関係ない、と言いたいところだが」

 佐藤は言葉を切り、改めて目の前の親子を見据えた。


「優斗さんは存じ上げないとは思いますが、数日前にここで私と常務はひと悶着あったんですよ。優斗さん自体は、内地の厳しい企業で働き経験も得たと思います。そして23歳という可能性あふれた年齢です。弊社は両手広げてお願いしたいところです」


 西日の差し込む応接室で、親子の複雑な視線と佐藤の熱を帯びた眼差しが静かに交錯した。

「しかし、佐藤さんとは現状『仲が良い』とは言える状態じゃないのだよ」

 常務の言葉に、佐藤は真っ直ぐに応えた。


「常務さんの気持ちは少し理解できます。ちょうどいい、優斗さんにも聞いてもらいたい。今の農家の状況はとてもまずい状態です。しかし、今はだれが悪いどこが悪いと決めつけられる状態を通り過ぎていると思うのです」


「認めたくはないが、今が一番いい状態とは言えない」

 常務は苦渋を滲ませ、視線を落とした。


「さまざまな段階を経て、私は農家が笑って過ごせる状態にしたいのです。そして、稲葉常務は申し訳ないが、もうJA単体ではできないところまで来ています。第一、JAの農作物に関する部門のお金関係は」

「赤字だ。金融で儲かった分が農業系に流れて維持されておる」


「そう。効率だけを言えば、全農家が米作りをやめ、他業種へ行き、海外から米を買った方がひどく効率的です。しかしそれはいろんな面で好ましくないんです。かといってすべての農家をなんて甘いことは言いません。この街の海帆の農業だけをしっかり稼げるようにしたい。それが目的です。JAをどうにかしたいとかそういう思いはありません」


 佐藤の放った「全員は救わない」という言葉に、常務は力なく笑った。

「『全員は救わない』か。組織の人間としては聞き捨てならん言葉だが、今の死に体となった海帆の農業には、その冷徹な選別こそが唯一の生存戦略なのかもしれん。佐藤さん、君は毒の中にしか薬がないことを、よく分かっているようだ」


「ほんの少しだけ、ご理解いただけたようでありがたいです。たった数回話して理解してもらえるとは思っていません。これからよろしくお願いいたします、稲葉常務」


「ふん、『よろしく』だと。勘違いするな。私はまだ君を認めたわけではない。だが、死にゆく組織のしがらみよりも、君の言う『稼げる農業』とやらに、こいつを、そして海帆の未来を賭けてみる価値があるかどうか。それを判断する時間だけは、君に預けることにしよう」


 常務の視線は、わずかに期待を秘めた一人の農民のそれへと変わっていた。

「さて、優斗さん、こんなに空気が重くなってしまって申し訳ないが、弊社への入社はどうしますか?」

「お願いします。父の背中越しに見てきた『守るだけの農業』の限界は、僕が一番よく分かっています。佐藤さんの言う、稼いで、笑える農業。それを実現する製造ラインの一員として、僕を鍛えてください」


 優斗は膝の上で拳を握りしめ、力強く宣言した。それを見届けた常務が、背負っていた重荷を吐き出すように短く息をつく。


「月給二十五万、か。うちの若手職員が聞けば卒倒するような数字だな。佐藤さん、君は金という実弾で、こいつに退路を断たせたわけだ。……甘い顔はせん。だが、もしこいつが音を上げたなら、その時は遠慮なく叩き出してくれ。それがこの街の農業を変えるという君の『規律』なのだろう?」


 常務の言葉には、息子を託す父の厳しさと、佐藤のやり方を認めざるを得ない経営者としての敗北感が、奇妙に同居していた。


「いえ稲葉常務、息子さんはあの会社で1年持ったんですよ。新卒がほとんど数日でやめてしまった会社で。それだけでも他の方より十分可能性は高いです。あと今の総支給25万って昔の総支給20万よりある意味低いですからね。しっかり仕事していただければ数年で35万まで引き上げます。農業支援、設備修理、電気系設置、プラント設置、休水田復活作業、などなど多岐にわたった業務があります。はじめ数年は全員いろいろなことをやってもらって見聞を広げてもらおうと思っています」


 佐藤の言葉を聞き、常務はしばらくの間、呆然としたように虚空を見つめた。

「三十五万。この海帆市で、二十代の若者にそれだけの価値を付けるというのか。君の言う『業務』は、本来ならJAが、あるいは行政が技術者を抱えて担うべき領域だ。それを民間の、たった一人の職人がすべて引き受けようとしている。……私が今まで『守ろう』としていたものの小ささを思い知らされるよ。よかろう、こいつを好きに使い倒すといい」


 常務がどこか晴れやかな諦念を滲ませると、優斗もまた、覚悟を決めた面持ちで佐藤を直視した。

「設備修理からプラント設置まで。内地での経験が、まさか故郷の田んぼで生かせるなんて思ってもみませんでした。ただの農作業員ではなく、海帆の農業を支える『エンジニア』として認めていただけるよう、泥にまみれる覚悟はできています。明日から、いえ、今からでも指示をください」


 親子二人の視線が、かつてないほど真っ直ぐに佐藤へと注がれていた。

「一年後には、稲葉常務に自慢できるものを作りましょう。明日から来てくれ。制服は明日渡すのでとりあえず明日は汚れてもいい格好でな。稲葉常務、今日はこれで失礼します。息子さんは、責任を持ってお預かりします」


【前回の資産:6,363,020円】

収入なし:0円】

【支出:217,500円】

 工業用高耐荷重スチールラック(3台):150,000円

 まり海外配送料(45個分):67,500円

【現在の資産(メイン口座):6,145,520円】

【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):11,100,000円】

【牧野氏の債権残高:14,811,800円】

【第75話:完】


【偉人の言葉】 「百の言葉より、一つの行動。そして一つの行動には、一円の狂いもない裏付けが必要だ。」



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