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【第74話前編:静止する現場、潜伏する規律】

【Scene 1:1.2トンの静寂と、6時間のセットアップ】


 土曜日の午前。誰もいない納屋には、外の風がトタンを叩く音だけが響いていた。 佐藤は、中江材木店から運び込んだ1.2トンの端材パレットの前に立ち、含水率計を手に取った。 昨日までに粗カットを終え、乾燥棚に並べられたシナノキの板。その一枚一枚に、佐藤は無言で針を突き立てていく。


「12.1%。少し高いな。ヴェル、こいつはB3の棚へ戻せ」

『了解しましたわ。マスター、そんなにムキになって一分刻みで計らなくても、平均値で十分計算できますのに。非効率極まりないですわね、ぷぷぷ!』


 ヴェルの毒舌を受け流しながら、佐藤は一枚の板の前で足を止めた。 節がなく、木目が真っ直ぐに伸びた極上の「一枚」。 他は一山50円のコストとして冷徹に捌くが、この一枚だけは、今日という静寂の中で仕上げる価値があると判断した。


 佐藤は「Wood & Ravage 99」の試作初号機となるその板を手に、真空含浸装置の重厚なハッチを開いた。 30枚は入るであろうステンレスの冷たい円筒の中に、あえてその一枚だけを贅沢にセットし、密閉ボルトを対角線上に締め上げる。


「ヴェル。プログラム『スロー・パージ』をロード。時間は6時間だ」

『6時間。あはは! 了解しましたわ。マスターの「こだわり」に私の演算リソースを同期させますわね。減圧シーケンス、開始しますわ!』


 佐藤がメインスイッチを入れると、真空ポンプが低い、重厚な唸りを上げ始めた。 デジタルメーターの数値が、ヴェルの精密な制御によってゆっくりと、だが確実に下がっていく。

「6時間か。よし、その間に他の段取りを済ませる」


 佐藤は装置の振動を掌で一度だけ確認し、納屋の奥へと歩き出した。



【Scene 2:遺産の接続、あるいは老兵への謁見】


 佐藤は軽トラを止め、玄関先で待っていた二人の前で帽子を取った。まずは隣に立つ木村へ視線を向け、それからパイプ椅子に座る老人へ深く一礼する。


「お忙しいところ申し訳ありません。佐藤です。木村さん、お時間をいただきありがとうございます」

 老人は深く腰掛けたまま、佐藤を鋭く見つめた。

「孫から聞いたよ。変な若造が、俺たちの昔話を熱心に聞いていたとな」


「ただの昔話として聞いたのではありません。木村さんたちが守ってきた技術こそが、今の海帆に最も欠けている実体だと確信したからです」

 佐藤の言葉に、老人は鼻で笑って視線を外した。

「実体だと。組織に追い出された年寄りの暇潰しを、買い被りすぎだ」


「いいえ。実は、中古の納屋を一軒買い取りました。屋根も抜け、中にはかつての持ち主が諦めた農機具が転がっています。俺はあそこを拠点にして、この街の農業を再起動させるつもりです。管理面積は20ヘクタールを見込んでいます。これを分割して、三つのサイクルに分けて段階的に土をよみがえらせようと考えています」


 老人が少しだけ顔を上げ、佐藤を見た。その目にわずかな疑念と、技術者としての計算が混じる。

「20ヘクタール。この辺りでその広さをまともに回せる人間など、もう残っていないはずだ。誰が土を見る」

「米山さんに、現場の指揮を承諾していただきました」


 その名を聞いた瞬間、老人の眉が微かに動いた。

「米山か。あいつも相当な頑固者だが、まだ引退していなかったか」

「本来は既に退く予定でした。ですが弊社が支援を申し入れ、継続を承諾していただきました。収穫の時期を迎える頃には、米山さんの圃場をこの街で最も近代化された水田へ造り変える計画です」


 老人はしばらく沈黙し、足元の地面を見つめていた。やがて膝に手を置いて、ゆっくりと立ち上がる。 「屋根が抜けた納屋か。死体安置所みたいなもんじゃねえか」

「ええ。だからこそ、命の吹き込み方を知っている方の目が必要なんです」


 老人は傍らに置いてあった小さな道具袋を掴んだ。佐藤は無言で軽トラの助手席のドアを開け、老人を促す。

 目的地へ向かう車内、老人は佐藤がダッシュボードに置いていた含浸工程のシミュレーション図面を手に取った。作業着の胸ポケットから老眼鏡を取り出してかけ、無機質な数字の羅列を食い入るように見つめている。


 やがて、藪の奥に佇む、あの朽ち果てた納屋が見えてきた。佐藤が軽トラを止めると、老人は車を降り、重厚な足取りでその死骸へと近づいていく。錆びついた引き戸の隙間から、埃を被った古いトラクターの排気筒が、沈黙を守ったまま突き出していた。



【Scene 3:死骸の集積、20世紀の再起動】


 佐藤は、引き渡しを受けて2日が経過したばかりの納屋の主扉を、自身の肩を当てて押し開いた。滞留していた重い空気が、埃と共に外へと押し出される。床には、かつての持ち主が放棄した1989年製のトラクターが、前輪をパンクさせたまま傾いていた。

 佐藤は、錆び付いたボンネットの感触を確かめ、正面に立つ木村さんへ向き直った。


「木村さん。見ての通り、ここはまだただの掃き溜めです。直したものは1つもありません。ですが、俺と北脇さんは、電工1種と電験2種の免状を保持しています。2010年以降の、ブラックボックス化された機械を簡単に直せるとは言いません。ですが、2000年より前に作られた設計なら、直せる可能性があると考えています」


 木村さんは、錆びたフレームに節の太い手を触れ、指先に付着した鱗状の鉄屑を見つめた。肺の奥から、重い呼気を吐き出す。


「2000年以前、か。確かにあの頃の設計なら、まだ人間の知恵が入る隙間があったな。だが佐藤、こいつの油はもう蝋のように固まり、ゴムというゴムはひび割れているぞ。直す手間を考えたら、新品を買わせる農協の言い分の方がよっぽど合理的だ」


「組織にとってはそうでしょう。だからこそ、木村さんの力が必要なんです。機械を動かすだけでなく、農家の方々の元を巡回し、修理の顔つなぎをしていただきたい。そして修理の際は、俺がハローワークで募集した若手を使い、技術の継承をお願いしたいんです」


 佐藤は一歩前へ出て、木村さんの体調を慮るように声を落とした。

「当然ながら、全日の勤務を求めるつもりはありません。身体、特に腰への負担も考慮しています。週に3回、1日の稼働は4時間。時給は3000円。という条件でいかがでしょうか。現役の頃に比べれば安価かもしれませんが、俺が提示できる誠実な数字です」


 木村さんは、自身の腰を拳で軽く叩き、パンクしたタイヤのゴムを靴の先で強く押し込んだ。硬化したゴムが、鈍い音を立てて抵抗する。


「週に3回、4時間。時給3000円か。隠居の身には、悪くない数字だな。島田のところへ行く前に、まずはこいつのプラグを抜いてみろ。火花が飛ばなきゃ話にならんぞ。いいだろう。その減らず口が本物か、この掃き溜めで見極めさせてもらうよ」


 佐藤は、工具箱へ伸びそうになった手を一度、自身の膝の上で握り直した。はやる気持ちを規律で抑え込み、まずは木村さんの言葉を重く受け止める。


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