【第72話後編:土の目覚め、鋼の意志】
【Scene 4:米山さんの庭先、司令官への就任依頼】
理事長宅を後にした佐藤の軽トラは、春の夕闇が深まり始めた米山さんの自宅へと滑り込んだ。庭先では、米山さんが古びた納屋の明かりの下で、使い込まれた農具の点検をしていた。
「お疲れ様です、米山さん」
米山さんは腰を上げ、佐藤一人であることを確認すると、少し意外そうに目を細めた。 「佐藤さんか。……ほう、今日は一人かい。例の連中はまだか」
「昨日今日で四名ほど面談しました。一度持ち帰って親御さんと相談するよう伝えてあります。明日には返事が来るでしょう。合流したら、交代でここに一、二名ずつ寄越します」
「ほう。農業の専属か?」
「いえ、専属にはしません。やることが山積みでして。工場の設備作りや発送業務をローテーションで回ってもらいます。その一環として、米山さんに土の読み方を叩き込んでほしいんです」
米山さんは、少し意外そうに眉を上げた。
「専属じゃないのか。それで米が作れるんかい」
「基本、全員がこのインカムを装着し、すべての会話がAIに保存されます」
佐藤は首にかけていたデバイスを指し示した。
「米山さんの指示、現場の音、すべてログ化してシステムが学習します。苗は俺が作るプラントで24時間管理し、工程を徹底的にIT化して省人化する。ですが、その設定値の根拠になるのは、米山さんの50年の経験です」
「……わしの勘を、その機械に覚え込ませるってのか」
「ええ。米山さんには、家の中からモニターで現場を見守る司令官になっていただきたい。あなたの勘をデータ化し、若者たちに継承するのが、このプロジェクトの核心です」
米山さんは、少し照れくさそうに鼻を鳴らしながらも、深く頷いた。
「司令官、ね。分かった。苗が喉が渇いたと言っている時の顔は、わしが教えてやる。その代わり、来る連中には根性があるんだろうな」
「規律のない現場に絶望してきた連中を選びました。ここには、彼らが求めていた真っ当な仕事があります」
佐藤はさらに、今後の拡張計画についても言葉を添えた。
「4月20日に特別肥料を届けます。代金は秋の収穫時に原価で相殺します。米山さんは土作りにだけ集中してください。それと、ここから車で9分の中古納屋の周りに放置畑がありまして」
「ああ、あの辺か。あそこはもう、ただの草むらだぞ」
「理事長に頼んで20ヘクタールほど借りる予定です。1年から2年かけて、すべて水田に戻したい。その再生についても、力を貸してください。この町の農業を、もう一度なりたい職業に戻したいんです」
米山さんは手に持っていた鍬を落としそうになり、そのまま絶句した。20ヘクタールの荒れ地。それを、たった一、二年で。狂気の沙汰だ。米山さんは佐藤の瞳を覗き込み、そこに一ミリの揺らぎもないことを確認すると、喉の奥で絞り出すように笑った。
「20ヘクタール。あんた、正気か。用水路も、畦も、全部死んでるんだぞ。わしが死ぬまでに終わる計算か?」
「ええ。だからこそ最後に一つ。前は25年と言いましたが、訂正です。あと26年。あなたが97歳になるまで、現場の指揮をお願いしますよ。死んでる暇なんてありません」
米山さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、やがて全身で震えるように笑い始めた。
「……ハハッ、26年だと! 97までか! 20ヘクタールの泥を喰らえってのか、この大馬鹿野郎が。いいだろう、そこまで言うなら、わしの骨の髄まで全部持っていけ。その代わり、世界一の米、作らせてもらうぞ」
米山さんの咆哮に近い笑い声が、静かな夕闇を切り裂いた。佐藤は短くクラクションを鳴らし、力強くアクセルを踏んだ。
止まりかけていた老夫婦の時間が、今、佐藤の狂気と、明日やってくるであろう若者たちの鼓動によって、かつてない激流へと変わり始めていた。
【Scene 5:上田倉庫、加速する要塞と二人の司令官】
上田倉庫へ滑り込むと、かつての「魔の倉庫」の面影は消えていた。 受け(200坪)から入り、出し(400坪)から抜ける一筆書きの動線を、ヴェルの指示を受けたフォークリフトが最短の弧を描いて疾走する。
その喧騒の中、タブレットを手に現場を歩く千代子の姿があった。
『千代子さん、左前方。パレットの端が通路のラインを3センチ踏んでいます。あはは! 現場の気が緩んでいますね。指導をお願いします』
「あら、本当ね。おーい、そこのパレット。少し寄せて。躓いたら危ないじゃないの」
千代子の穏やかな、だが現場を知り尽くした一喝に、ベテランの作業員が
「すみません、すぐ直します!」
と慌てて動く。佐藤が求めた、ヴェルと人間の眼による30分間の「散歩」が、システムでは拾いきれない現場の規律を補完していた。
佐藤は事務室のドアを開けた。 室内では、上田がモニターに張り付き、ヴェルの吐き出す「日商66万」という数字を凝視していた。
「佐藤。見てくれ。月換算で2,000万が見えてきた」
上田は顔を上げず、掠れた声で続けた。
「親父の遺産、3,000万。母ちゃんが俺に預けてくれた時、正直、足が震えていたんだ。もし1,500万行かなかったら、お前がここを買い取って責任を取ると言ってくれた。だがな、お前にそんな泥を被らせるわけにいかないと、そればかり考えていたよ。母ちゃんも、現場を歩くのが今は一番楽しいと言ってくれている」
上田が顔を上げると、その目には経営者としての執念が宿っていた。
「さっきも関東便の運転手が事務所に来た。『ここは荷下ろしが速いし、何より千代子さんの目配りが安心する。シャワーも最高だ。会社に、ここを中継地点にするよう進言した』と言っていた。お前の言った通りだ。ここはもう、俺たちの命を懸けた要塞だ」
佐藤は無言でモニターの数値をスキャンした。異常はない。3,300万の投資は、最短期間で回収フェーズに入ろうとしている。
「そうか。お前はただ、この規律を回し続けろ。買い取りの心配は、もう不要だな」
佐藤は事務所を後にする際、棚の肌着が激しく回転しているのを確認し、そのままシャッターを叩いた。
月額90万。その対価を、加速する現場の咆哮が証明していた。
【Scene 6:田中宅の作業小屋、10ヘクタールの解放】
夕闇が迫るなか、佐藤は田中の作業小屋へ入った。 コンバインの整備をしていた田中は、佐藤の姿を見るなり、工具を置いて複雑な表情を浮かべた。
「佐藤、お前、昨日JAの本部に乗り込んだってのは本当か? 理事長や支店長まで連れて、常務を囲んだって話で持ちきりだぞ。だが、本当にお前は、俺の10ヘクタールをあいつらから守りきれるのか?」
佐藤は鼻で短く笑い、首を振った。
「悪いが、10ヘクタール全部は無理だ。さすがに全部を奪えば、JAも死に物狂いで牙を剥いてくる。だが、他の農家からは一律5トンと決めているところを、同級生のお前からは特別に10トン買う。くくっ、これなら文句はあるまい」
田中は呆気に取られた後、佐藤の意図を汲み取って小さく笑った。
「なるほどな。あいつらの顔を立てつつ、俺には倍の枠をくれるってわけか」
「ああ。近日中に水利組合の理事長が正式な契約書を持ってくるはずだ。その契約は、理事長という『外圧』を通した公的なものになる。JAも理事長相手に無茶は言えない。お前はただ、その10トンの枠に、最高級の『おぼろづき』を詰め込め」
佐藤は無造作に、タブレットでキロ580円という買い取り価格を表示し、田中に突きつけた。
「さすがにただじゃできねーけどな。10トンをキロ585円で買うから、少しは余裕が出るだろ? くくっ」
田中は計算機を弾くまでもなく絶句した。JAの概算金とは比較にならない、圧倒的な実弾だ。
「580円? 佐藤、お前、本気か。そんな高値で買って、お前の方は大丈夫なのかよ」
「心配するな。俺の販路ならこの価格でも十分に利益が出る。あと、10トン分の特別肥料を4月の21日に持ってくる。ほぼ儲け無しの原価だ。代金は秋の収穫時に相殺で構わない」
「そこまで至れり尽くせりじゃ、断る理由がねえな。わかった。4月の21日、倉庫を開けて待ってるぜ」
「あ、あとな。米山さんのところの手動水門を全部自動化するんだが、田中のところもやるか?」
田中は一瞬動きを止め、驚きで目を丸くした。
「水門を自動化? おい佐藤、本気か。うちの作付面積でそれをやるとなったら、工事費だけでとんでもない額になるぞ」
「費用なら心配するな。米山さんのところでのデータ取りのついでだ。お前の10ヘクタールのうち、今回契約する10トン分のエリアから手をつける。泥の中に手を突っ込んで、一日に何度も水門を回して歩く時間は、もうお前には必要ないはずだ」
佐藤は不敵に笑い、軽トラのドアを開けた。
「スマホ一つで水位を管理できるようにしてやる。浮いた時間で、お前はもっと米の『質』を上げることに集中しろ。機械でできることは機械にやらせる。それが俺の規律だ。明日、牧野を下見に来させる」
「……参ったな。お前と話してると、今までの苦労が全部、前時代の遺物に見えてくるよ。わかった。お前の言う『自動化』ってやつ、俺の田んぼでも試してくれ」
「決まりだ」
佐藤は短く答えると、軽トラを発進させた。 夕闇が完全に降りた農道。佐藤の車のヘッドライトが、海帆の未来を切り拓くように、真っ直ぐな光を放っていた。
【第72話:収支報告】
【前回の資産:4,613,020円】
【収入:0円】
【支出:290,000円】
爪とぎ「Wood & Ravage 99」専用外装袋(1,000枚):230,000円
毬海外配送料(40個分):60,000円
【現在の資産(メイン口座):4,323,020円】
【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】
【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】
【個人資産(佐藤):11,100,000円】
【牧野氏の債権残高:14,811,800円】
【第72話:完】
【偉人の言葉】 「進歩とは、反省のきびしさに正比例する。」




