【第72話前編:土の目覚め、鋼の意志】
【Scene 1:ハローワーク・規律の「実効機」たち】
ハローワーク海帆の一室。午前中の澄んだ光が、安っぽい会議テーブルの上に置かれた三通の履歴書を白く照らしていた。佐藤の対面には、統括官が特選として呼び集めた三人の若者が座っている。彼らの瞳には、共通して居場所のない苛立ちと、何かに飢えたような鋭さが宿っていた。
佐藤はゆっくりと視線を上げ、一人一人の顔を、壊れた機械の内部を覗き込むような無機質な視線で追った。
「稲葉さん。某・超大手食品メーカーの工場出身。1日20万食を捌く高速ラインで、あなたは1秒の滞留がラインを死なせる現場にいた。製品の味以前に、機械のサイクルと自分の鼓動を同期させ、一分の隙もなく工程を回し続ける。その、淀みのないプロセス管理への執着こそが、私の現場には必要なんだ」
稲葉は眼鏡の奥の瞳を動かさず、感情を排した声で、淡々と、だが澱みなく答えた。
「効率の悪い手順、無駄な動線、さらに何より『なあなあ』で遅れを許容する人間。前の職場は、そういうことを排除しようとすると、私の方が組織の不協和音として扱われました」
佐藤は短く頷き、次に隣の男、森田へ視線を移した。
「森田さん。地元の農家の次男。15歳から親に隠れてトラクターを乗り回していた天才。継ぐべき土地がないあなたの頭の中には、この土地の土質、傾斜、泥の粘度を腰の感覚で捉える物理エンジンが完璧に組み込まれている。あなたなら、目隠ししていても真っ直ぐに畝を引けるはずだ」
森田はガリガリと頭を掻き、不敵な笑みを浮かべた。
「親父の土地は兄貴の。俺は、俺が納得できるシマで、デカい機械をブン回したいだけだ。泥に埋まってようが夜中だろうが、機械が俺の体の一部である以上、ラインを外すなんてあり得ないよ」
最後に、佐藤は一番端に座る小柄な女性、上原を見つめた。
「上原さん。土建屋で冷遇されていた重機使い。大型・特殊免許完備。あなたは、ハードウェアを愛している。機械が悲鳴を上げているのが、自分の痛みのように分かるはずだ」
上原は、泥の汚れが落ちきっていない作業着の袖を握り、真っ直ぐに佐藤を見返した。
「整備不良のボロを根性で動かせって言われるのが耐えられなかった。機械を使い捨ての道具だと思っている連中と、同じ空気を吸いたくないだけです。油の匂いで、その子が今日何をしたいか分かりますから」
佐藤は三人の視線を正面から受け止め、机の上に資料を置いた。
「条件は月給25万、社会保険完備。だが、私のもとで働くということは、単なる労働ではない。あなたたちに求めるのは規律の実行だ。私の設計したシステムを、現場の泥臭さの中で、一分の隙もなく遂行すること。農業、物流、インフラ。すべてをローテーションで経験してもらう」
佐藤の言葉が室内の空気を物理的に押し広げ、三人の若者の鼓動を静かに加速させた。
「25万。この街じゃ破格だが、その代わり、俺たちは何に魂を売ればいい」
森田が身を乗り出す。佐藤は視線を逸らさず、淡々と数字を口にした。
「25万。ただ単に他の案件と比較すると高いかもしれないが。少し前は卵10個で200円。そして初任手取りは15万程度だった。今は卵320円。そして25万の手取りは約20万だ。まぁ、丸ひと月の給料を全部卵買うわけじゃないが、比較として言うと前は約750パック買えた。が、この総支給25万だと約640パックしか買えないんだ。私は、この街の物価と労働の価値を、正しく整合させたいだけだよ」
生々しい数字の提示に、三人は一瞬言葉を失った。佐藤はさらに言葉を重ねる。
「ほかにも提示できるのはまず35万になるまでは半年ごとに昇給考査させてもらう。ボーナスは申し訳ないが年2回各1ヶ月分が基本だ。35万になったときには年2回4か月分にさせてもらう」
「あとは、傷病休暇は年14日までは何も言わない。その際は有給半日、会社半日で負担してもらう。普通に体調悪いと思ったら休んでくれ」
「これは入社すれば詳細説明出すが、結婚後の子供の養育だが3段階ある。基本子供生まれたら1年育児休暇に入ってほしい。その後幼稚園に入るまでは月5時間からで自由に設定してほしい。5時間家から会社の状況を把握し続けて復帰の準備だな。その後幼稚園から小学卒業までは一日4時間からで自由に選んで。中学以降にフルタイムに戻ってもらいたい」
佐藤が提示したのは、単なる賃金設定ではなく、一生をこの街で、この規律の中で生きていくための設計図だった。
「ここまでが今簡単に言える提供できるものかな」
佐藤は一度言葉を区切り、三人の反応を確かめるように見渡した。
「仕事としては、猫のおもちゃの海外販売、米の育成、精米、発送、その他会社の工場設備作りが現在の業務内容になる。基本初めの数年は、様々なことをやってもらう。一つのことをはじめからずっとやり続けるということは無いと思うので、農業だけ、製造だけ、整備だけといったことにはならない」
「例外のない、徹底的な論理の遂行だ。私の指示が、現場で完璧な物理現象として再現されること。それを心地よいと感じられるなら、ここは最高の遊び場になる」
三人の若者は、互いに顔を見合わせることすらしなかった。稲葉が静かに呼吸を整え、森田が拳を握り、上原が深く頷く。
「23歳という大事な時期だ。親御さんとか周りの方と相談したうえで決めてほしい。なおうちの会社が新しくて知らない方もいる。ご希望ならご紹介できるのが、ここの統括官、銀行の支店長、水利組合の理事長、スクラップ場の中村会長って感じかな」
佐藤は椅子から立ち上がり、窓の外の街並みを一瞥して彼らへ向き直った。
「考えに考えて、辞退するのもいい。そして入社するなら俺の目標のお手伝いをしてほしい。農家の様々な仕入れや、出荷の一部をサポートして、この町の農家をなりたい職業TOP10にいれたいんだ」
その瞳には、誰にも理解されなかった自分たちの執着を、正当な対価と確かな未来として受け入れられたことへの、静かな熱が灯っていた。
佐藤は部屋を後にした。背後で、若者たちの震えるような吐息が重なった。
【Scene 2:納屋事務所・鋼のパズルと次の工期】
ハローワークでの面談を終え、佐藤が納屋の事務所に戻ると、そこには埃まみれの作業服を着た牧野が図面を広げて待っていた。
「佐藤さん、おかえり。こっちの納屋の改修、予定通り明日で終わるぞ。床の補強も壁の断熱も、指示通りガチガチに固めておいた」
牧野が安堵の息を漏らす。だが、佐藤が鞄から取り出し、モニターに映し出したリストを見た瞬間、牧野の視線が鋭くなった。
「お疲れ様。だが、一息つく暇はない。明日、改修が終わると同時に、爪とぎ製造用の設備が続々と入り始める。もう注文と支払いは済ませてある」
画面には、いよいよ本格稼働する爪とぎ事業の核となる重厚な機械群のリストが並んでいた。
真空含浸装置
CO2レーザー加工機(3台)
昇降盤(スライド付)
自動一面鉋盤
横軸ルーター(面取り機)
産業用真空包装機
集塵機(サイクロン式)
レーザー用消臭集塵機
「いよいよだな。これだけの面子が揃うと、納屋の空気も変わる。真空含浸にレーザー3台か、本気でラインを組むんだな」
牧野が画面を指差し、身の引き締まるような面持ちで声を出す。
「ああ。これが揃って初めて、ヴェルの設計したロジックが現実の形になる。一秒の無駄も出さない、完璧な自動化ラインだ。明日からこれを速攻で組み立てて、爪とぎの量産体制に入る。ああ、そうだ、忘れないうちに専用の袋も発注しておく」
佐藤はキーボードを叩き、爪とぎ専用パッケージの仕様書を印刷所に送信した。
「素材はマット白アルミフィルム。幅370ミリに長さ750ミリの特大サイズだ。毬の袋をお願いした時と同じ職人へ、シルクスクリーン印刷で『Wood & Ravage 99』のロゴ入れを頼む。1,000枚で約23万。納期は一週間だ。直接引き取りに行く」
マットな質感に厚みのあるインクが乗る、高級感あふれるパッケージ。それが真空包装機で脱気され、製品に密着する様を佐藤は頭の中で描いた。
「さらに、このライン化と並行して次の工程に入る。苗プラントの構築だ。これも4月の作付けに間に合わせる必要がある。そしてプラントが形になった後、ようやく今回買ったあの中古納屋の修繕に取りかかる」
「鬼の工程表だな。納屋を直す暇もなく中身を詰め込んで、即稼働か」
牧野は苦笑しながらも、届く機械の搬入順を頭の中で組み立てているようだった。
「スケジュールは分単位だ。牧野、この鉄の塊たちに、この街を救うための魂を吹き込んでくれ」
佐藤の視線は、既に明日届くであろう機械の搬入経路を見定めていた。
【Scene 3:理事長宅、20ヘクタールの再起動】
ハローワークでの面談と事務所での打ち合わせを終えた佐藤は、そのまま軽トラを走らせ、水利組合の理事長宅へと向かった。重厚な門構えの奥、通された座敷には、既に数枚の書類と、ヴェルの演算による周辺地図が広げられている。
「理事長、お疲れ様です。昨日お話ししたJAとの140トンの件、正式に契約を交わしてきました。これで乾燥から保管までの受け皿は完全に固まりました」
佐藤が差し出した契約書の写しを、理事長は老眼鏡を何度も直しながら食い入るように眺めた。やがて、深く、重い感嘆の息を吐き出す。
「JAの常務に、あの条件を丸呑みさせたか。事務手数料30円、しかも現場への不干渉まで公印で約束させるとは。佐藤さん、あんたがこの数日で整えた外堀は、この街の農業始まって以来の剛腕だよ。これで農協側から余計な横槍を入れられる心配もなくなったな」
佐藤は表情を変えず、本題である地図の一部を指差した。
「外堀は埋まりましたが、本題はここからです。昨日購入した中古納屋の周辺、20ヘクタールほど広がる放置畑についてです。あそこを、一年かけてすべて水田に戻したい。持ち主の方々へ、私の名前で借用の相談を繋いでいただけませんか。当然、地代は相場より色をつけます」
理事長の手が止まった。20ヘクタール。この少子高齢化が進む街で、一度死んだ土地を大規模に蘇らせるという提案は、もはや個人の事業の域を超えている。
「あそこを水田にか。言うは易しだが、並大抵の労力じゃないぞ。用水路は泥で埋まり、畦も崩れている。一度荒れた土地を一年で水田に戻すなんて、普通なら狂気の沙汰だ。何より誰がそこを耕すんだ」
「今日、ハローワークで20代の若手三人を確保しました。彼らを交代で米山さんのところへ預けて教育します。伝統的な米作りの勘は米山さんに叩き込んでもらい、水門や水管理の自動化、そして効率化は私のシステムで行う。伝統とITを融合させた、新しい農業のモデルケースにするつもりです。土地の再生については、牧野さんたちの重機と、私の計算があれば一年で間に合わせます」
佐藤は淡々と続け、懐から新たなスケジュール表を取り出した。
「あともう一点。協力してくれる農家22軒との、各5トンずつの個別契約についてですが。理事長、この契約の取りまとめをお願いできませんか。私はこれからプラントの構築と納屋のライン化で現場を離れられません。契約書はすべて用意してあります。条件として、私が指定する特別配合肥料の導入を必須とさせてください」
「22軒の取りまとめか。分かった、俺が責任を持って判を突かせておこう。だが佐藤さん、その指定肥料はどうする。まさか農家に買いに行かせるわけじゃないだろう」
「肥料は4月20日と21日に、私が直接各農家の現場へトラックで届けます。そして、この肥料代は無償提供にはしません。甘えは規律を濁らせます。肥料は原価そのままの価格で提供し、秋に収穫した玄米を私が買い取る際、その代金から肥料代を相殺させてもらいます。農家の方々は作付け時に現金を用意する必要がなく、私は確実な品質の米を手に入れる。対等な、ビジネスとしての取引です」
理事長は佐藤の提示した、手出しゼロ、収穫後決済という合理的なスキームを反芻した。
「もしも、もしも天候不順で5トンに届かない場合でも、極力協力します。万が一、収穫がゼロになっても私は何も言いません。そのリスクは私が背負います。その代わり、この町の農業を再生させるための規律だけは守ってもらいたい」
理事長は佐藤の言葉の重みを噛みしめるように深く頷いた。
「……分かった。それなら誰も文句は言わん。むしろ資材高騰で苦しんでいる連中なら、喜んで飛びつくだろう。放置畑の連中にも、俺が責任を持って話をつけよう。300万の絶望を救ったあんたの言葉だ。今なら、誰もがその未来に賭けてみたくなるはずだ」
「助かります。明日からの5トン契約取りまとめ、よろしくお願いします」
佐藤は深く一礼し、座敷を後にした。庭先に出ると、春の冷たい夜風が、再起動を待つ広大な大地を静かに撫でていた。




