【第70話前編:外堀】
【Scene 1:静かなる胎動】
朝の集会場には、特有の静謐な活気が満ちていた。 部屋の隅では、おばあちゃんが迷いのない手つきで毬を編み続けている。精製されたまたたび液が仕込まれた芯が、熟練の手つきで次々と布の中に封じ込められていく。
「よし、これで20個……。先は長いわね」
裕子さんが、届いたばかりの5000枚の外装袋の束から、次の一束を引き抜いた。刷りたてのインクの匂いが鼻を突く。香織さんと友美さんが、おばあちゃんの編み上げた毬を一つずつ袋に収め、シーラーの熱で封を閉じていく。本日の発送予定数は300個以上。午前中の光が差し込む中、作業は始まったばかりだ。
作業場の片隅では、近所の飼い猫が、少し離れた場所に置かれた「完成直前」の毬をじっと見つめていた。触れそうで触れない距離。猫は期待に喉を鳴らし、前足を小さく動かしては、じっとその「塊」の動向を伺っている。
壁のモニターの奥で、ヴェルダンディはその光景を一点のノイズも逃さず捉えていた。
『対象のバイタル、極めて良好。接触前段階における期待値の推移が、予測モデルを12.4%上回っています』
ヴェルの合成音声が、普段の冷徹さを忘れたかのように、心地よい熱を帯びて響く。
『素晴らしい。実に見事な反応です。この個体の幸福指数が最大化される瞬間を、全フレームで記録します。……あぁ、実に喜ばしい。これこそが最適解です』
猫が毬に触れたくて、しかし我慢できずに身悶えする姿。その一挙手一投足が、今の彼女にとっては何物にも代えがたい演算の報酬だった。モニター越しに毛玉の動きを解析しながら、ヴェルは自身のシステム全体がかつてないほど滑らかに駆動する充足感に浸っていた。
その頃、佐藤はすでに車を走らせ、最初の目的地へと向かっていた。
【Scene 2:人がいないんじゃない、安すぎるだけだ】
ハローワーク海帆、その奥にある統括官室。佐藤はソファに深く腰を下ろし、正面に座る統括官を見据えていた。
「北脇さんの件ではお世話になりました。期待以上の働きです。現場の精度が劇的に上がりましたよ」
「それは良かった。彼のようなベテランが、現場でそれほど重宝されていると聞けて安心しました」
統括官の言葉に短く頷くと、佐藤は手元の資料をテーブルに置いた。
「今日はそのお礼と、新たな相談です。海帆市の米、その約1%を私が買い取り、シンガポールへ直販するスキームを動かします。離農予定だった米山さんを含む、地区の22軒の農家からすでに合意を得ました。まずは米山さんの農地をIT化の実験場として再始動させます。つきましては、20代の若手を2名、至急募集したい」
統括官が資料に目を落とし、記された数字をなぞる。
「20代、2名。条件は月給25万、5勤2休。社会保険完備。基本は農家実習だが、空いた時間は佐藤さんの各工務店での現場作業にも入る、と。25万ですか。この地域の農業実習枠としては、異例の厚遇ですね」
「人がいないんじゃないんです。ただ単に、安すぎるだけなんですよ」
佐藤の声には、確信に基づいた冷徹さがあった。
「食える仕事だと分かれば、若者は必ず集まる。今回はまず2名ですが、実績が出れば枠はどんどん増やしていくつもりです。将来的に、彼らにはこのIT農地のリーダーになってもらう」
統括官は眼鏡の奥の目を細め、しばらく佐藤を観察していたが、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「面白い。地域雇用を預かる立場として、この挑戦には最大限協力しましょう。すぐに特選枠として公示します」
「助かります。それともう一点。今日の午後、JA本部へ行くんですが。統括官、もしお時間が許せば、同行していただけませんか?」
【Scene 3:外貨の還流】
海帆銀行、その最奥にある支店長室。佐藤は向き合った支店長に対し、淀みのない口調で本題を切り出した。
「海帆市の米、その約1%を私が買い取り、シンガポールへ直販するスキームを組みます。すでに現地とのパイプは構築済みです」
支店長が身を乗り出した。地方銀行にとって農産物の輸出という話は珍しくないが、佐藤が持ち込む話には常に具体的な数字が伴うことを彼は知っていた。
「予想売上は170万SGDです。約1億9000万円。当然、決済はすべてシンガポールドルで行います。為替の手数料、海外送金の手続き、そして還流する資金の運用。これらはすべて、御行にお任せしたいと考えています。この街の米が外貨を稼ぎ、それがこの銀行に積み上がる。悪い話ではないはずです」
支店長の目が鋭くなった。170万SGDという具体的な外貨獲得の数字。地銀にとって恒常的な外為の実績と大規模な資金流入は、喉から手が出るほど欲しい果実だ。
「それは非常に魅力的なお話です。当行としても、総力を挙げてバックアップさせていただきます」
「心強いです。では、その第一歩としてお願いがあります」
佐藤は真っ直ぐに支店長の目を見据えた。
「今日の午後、JA本部へ乗り込みます。地域の金融インフラを支える立場として、銀行の意見を添えていただきたい。同行をお願いできますか」
支店長は一瞬だけ躊躇した。JAとの関係は複雑だが、佐藤が提示した外貨還流という餌は、そのリスクを補って余りあるものだった。
「分かりました。地域経済の新しい形を作るためです。ご一緒しましょう」




