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【第88話前編:孤独な神経網、起動の儀】

【Scene 1:土曜の朝、親子の対話】


 土曜日の午前。 春の柔らかな日差しが、森田家の広い居間に差し込んでいた。 農家の朝は早いが、リパルテンツァの正社員となった森田にとっては、今日が待ちに待った完全な休日だ。


 父は湯呑みを片手に、縁側近くの座卓で新聞を広げていた。 そこに、昨夜まで泥と油にまみれていた息子が、少し遅い朝食を終えて座った。

「どうだ、入社して2週間。佐藤さんのところでの仕事は慣れたか」


 父の問いに、森田は伸びをしながら不敵に笑った。

「慣れたっていうか、毎日が別の世界にいるみたいだよ。親父のところでやってた農業とは、根本的な道理が違うんだ」

「道理、か」


「ああ。まず、仕事中に『次は何をしようかな』と考える時間が1秒もない。耳元のインカムから、AIが次にやるべきことを最短距離で教えてくれる。迷う余裕がない分、情報の密度がすごくて、50分やると脳みそが沸騰しそうになるんだ」


 森田は手元の茶を一口飲み、昨日の作業を思い出すように続けた。

「でも、50分やったら強制的に10分休まされるんだ。休まないと怒られる現場なんて、初めてだよ。お昼も12時30分からって決まってて、午前と午後で働く時間を正確に合わせている。最初は変だと思ったけど、夕方の疲れが全然残らないんだよね」


 父は新聞を置き、息子の顔をじっと見つめた。

「佐藤という男は、俺たち農家が『根性』とか『勘』で片付けてきたことを、全部数字にして並べちまうんだな。この間、俺もあのプラントを見せてもらったが、あんな光景は初めてだ」


「親父もあの30粒の苗、見たろ? 驚いただろ。光の量も水の中の酸素も、全部機械が管理してる。俺が泥だらけになってバックホーを回してる横で、佐藤さんはそのシステムの全体図を描いてるんだ。あそこに無駄なものは一つもない」


「お前が重機を回す姿、あの日、現場の端から見ていたよ。佐藤さんに『息子さんの重機操作には助けられている』と言われて、少し驚いた。あの方は、お前をただの作業員じゃなく、技術者として見ているようだな」


 父の言葉に、森田は照れくさそうに頭を掻いた。

「俺はただ、あそこに引かれたラインを外さないように動いてるだけだよ。でも、佐藤さんはそれを『専門的な仕事だ』って認めてくれる。給料も25万円から始まって、しっかり結果を出せば数年で35万円まで引き上げるって約束してくれた」


 森田は背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。

「親父。俺、あそこなら自分の場所を作れる気がする。兄貴に土地を譲ることに腐ってた自分が、今は馬鹿らしく見えるよ」


 父は小さく頷き、再び湯呑みを手に取った。

「あの方は、この町の農業をなりたい職業の10位以内に入れると言っていた。お前のような若者がそう思えるようになったのなら、その計画はもう半分成功しているようなもんだな」


「ああ。来月からはもっと忙しくなる。米山さんの田んぼを、海帆市で一番近代的な水田に変えるんだ。見ててくれよ、親父」 静かな森田家の居間に、新しい時代の足音が確かに響いていた。



【Scene 2:二四ボルトの咆哮と、軸の意志】


『マスター、土曜日なのにお仕事ですか?』

「いいんだ、こういう作業は苦にならない。みんなには悪いが一人で作業できるほうが、捗る」


 納屋の作業灯の下、佐藤は大型DCウォームギヤモータを治具に固定した。 その出力軸へ、強化型リジッドカップリングを叩き込む。 起動時の巨大なトルクを受け止めるための、遊びを排した直結構造だ。


 佐藤は産業用スイッチング電源を立ち上げ、テスターで24Vの安定出力を確認した。 「ヴェル。負荷試験を開始する。まずは定格の三割からだ」


『モータドライバ、通電。10Aの連続駆動に耐えうるか、そのウォームギヤの唸りを数値化してあげる。期待を裏切らないで頂戴ね』


 佐藤がダイヤルを回すと、モータが重厚な低音を響かせながら回転を始めた。 セルフロック機能の確認。電流値の監視。 240Wの出力が、シャフトを通じて架空のゲートを押し上げる。 佐藤はモータの筐体に手を当て、内部で噛み合う金属の鼓動を自身の神経へと同期させていった。


「これは、なかなか時間かかりそうだな。二台目以降は北脇さんにお任せしたい。ヴェル作業全部保存しておいてくれ」


『承知しましたわ。って初めから動画撮影してますわよ。猫動画の編集ついでですが』


【Scene 3:鋼の苗と慈愛の対話】


 外の冷風を厚い断熱壁で遮断した苗プラントの中には、湿り気を帯びた穏やかな熱気が満ちていた。

 米山はいつものように自分の折り畳み椅子を広げ、実験苗が並ぶトレイの前に腰を下ろした。 今日は他の農家仲間の姿はない。


 聞こえるのは微かな水の循環音と、高圧酸素が弾けるシュボボボという不気味なほど規則正しい音だけだ。 米山は眼鏡を外し、2.0センチメートルまで育った若緑の刃をじっと凝視した。


 種を置いてから10日目。 通常のハウスなら光を求めてひょろひょろと背を伸ばし始める頃だが、目の前の苗たちは違う。

 背丈を競うことをやめたかのように地面に低く、そして驚くほど太く、力強く直立している。


「フレイヤさん、いるかい」

 米山が誰に言うでもなく空中に声をかけると、即座に気品に満ちた柔らかな声がプラント内に響いた。


『はい、米山様。お呼びでしょうか。今日もこの子たちの様子を見に来てくださったのですね』

「ああ。どうもこいつらの顔つきが気になってな。普通の苗はもっとこう、繊細で折れそうなもんだ。だがこいつらはなんだ。まるで小さな電柱が並んでいるみたいだな」


 米山は分厚い指先でそっと一株に触れようとして、その弾力に手を止めた。 繊維の密度が、自分の知る苗とは根本的に違っていた。


『ふふっ。素敵な表現ですね。この子たちが小さな電柱のように見えるのは、佐藤様が意図した結果です。光という名のブレーキをかけ、根に酸素という名の活力を送り込むことで、細胞一つ一つの壁を厚く鍛え上げているのです』


 フレイヤの声には、生命の力強さを誇るような慈愛に満ちた響きがあった。


『上に伸びるエネルギーを、今はすべて体幹と根の構築に回させています。目に見える背丈は今の数字に過ぎませんが、その地下にはすでにマットをがっしりと掴む、鋼のように屈強な根が広がっていますわ』


「鋼の根、か。確かにこの腰の据わり方は尋常じゃないな。海帆の5月の冷たい水に放り込まれても、こいつらなら平気で笑っていそうだ」

 米山は深く頷き、再び眼鏡をかけた。


「わしらが今までやってきたのは、ただ苗を死なせないための守りの農業だったのかもしれない。だが佐藤さんがやっとるのは、厳しい環境へ送り出すための訓練だな」


『佐藤様の志は、この小さな命を環境に依存させないことにあります。自らの力で大地に根を張り、どんな逆境も糧にする。そんな強さをこの25坪の要塞で育んでいるのです』


 米山は椅子に深く腰掛け、LEDの柔らかな光に照らされる小さな緑の軍団を見つめ続けた。 自分が50年かけて築き上げた経験則が、最新の論理によって丁寧に、そして鮮やかに上書きされていく。


 その感覚は不思議と不快ではなかった。 むしろこの新しい仕組みの先にある、まだ誰も見たことのない黄金の秋への期待に、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


「フレイヤさん。4月15日の本番、わしも精一杯やらせてもらうよ。この30粒が見せてくれた可能性を、2ヘクタール全部で証明してやろうじゃないか」


『心強いお言葉、ありがとうございます。米山様の熟練の眼差しこそが、このプラントの精度を完成させる最後のピース。本番もどうぞよろしくお願いいたしますね』


 静まり返ったプラントの中で、老人とAIの静かな対話が、新しい農業の胎動を確かなものにしていた。



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