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【第88話後編:孤独な神経網、起動の儀】

【Scene 4 :学習の苗床】


 誰もいない事務所。 壁に据えられた大型モニターには、5人の顔写真とその略歴が並んで表示されていた。

 稲葉、森田、大橋、木村、上原。 佐藤は椅子に深く腰掛け、21歳から23歳という彼らの年齢を頭の中で反芻した。


 この年齢の数年間が、その後の人生を決定付けることを佐藤は知っている。 出来立ての会社で人手が欲しいのは事実だ。 だが、彼らをただの作業員として使い潰せば、数年後に組織としての成長は止まる。


「使い潰すわけにはいかないな」

 独り言のように漏らした言葉に、ヴェルが静かに反応した。


『あら、随分と感傷的ね。労働力として限界まで稼働させるのが、最も効率的だと思っていたけれど』

 ヴェルの言葉が、静まり返った部屋に響く。 佐藤は視線をモニターから外さず、淡々と答えた。


「効率を求めるなら、目先の作業ではなく、数年後の判断力に投資すべきだ。藤田が2級建築士の勉強を始める。それに合わせて、彼らにも明確な研鑽の時間を確保する」


『素晴らしいご決断です。若いうちに良質な情報を仕組みとして取り入れることは、彼らにとって何よりの盾となります』

 フレイヤが慈愛に満ちた声で、佐藤の意向を肯定した。


「15時から17時半。この時間は現場から完全に切り離す。電話も、急ぎの資材搬入も一切なしだ。これを2年間継続させる。ここは会社としての不可侵の時間にする」


『150分もの空白を毎日作るわけね。巷の企業がやるような、お辞儀の角度を教える無意味なマナー研修でもさせるつもり?』


「そんなものは不要だ。まずQC4級。これは社内で俺たちが全員合格ラインまで引き上げる。そのあと、6月を目処にQC3級を本気で取りにいかせる。長谷川さんをメイン講師に据え、俺たちも交代で教壇に立つ」


 佐藤はホワイトボードに向かい、マジックで品質管理と太く書き込んだ。

 事実を正しく把握し、データの偏りから異常を察知する力。 それこそが、海帆市の再起動を支える確かな武器となる。


「問題は場所だ。事務所が完成するまで、5人が集中できる拠点が今の納屋にはない」

『コミュニティセンターはいかがでしょう。利用料も安く、公共の場としての緊張感も保てます』


 フレイヤの提案に、佐藤は頷きながらも実務的な懸念を口にした。

「占有ができないのがネックだな。毎日予約状況が変わる。だが、それも利用させてもらうか。4月だけはこちらで手配するが、5月以降は新人5名に持ち回りで場所の予約と確保を任せる」


『予約を忘れたら、その日の勉強時間が消える。自分の学ぶ場所すら確保できない人間に、現場の管理は任せられない。いい篩になるわね』


「失敗してもいい。勉強時間が一日分なくなるだけの話だ。その損失を身をもって体験させるのも、立派な教育だろう」


 佐藤は窓の外を見つめた。

 この海帆市の泥臭い現実を、自らの知識と技術でシステムへと変えていく。 そのための最初の苗床は、コミュニティセンターの冷たいパイプ椅子から始まる。


「進捗を見て、その後の計画はまた練り直す。まずはこの150分の習慣を、彼らの体に刻み込むことからだ」


 ヴェルの論理的な鋭さと、フレイヤの温かな伴走。 そして、佐藤の冷徹なまでの現実主義。 それらが混ざり合い、海帆市の新しい背骨が形成されようとしていた。



【Scene 5:親方の憂鬱と紙の束】


 土曜日の午後。

 健治の工務店の事務所には、普段の木の香りに代わって、埃っぽい紙とインクの匂いが充満していた。 デスクの上には、この5日間の苦闘を象徴する決算書類と請求書の山が、無造作に積まれている。


 健治は手元の電卓を乱暴に放り投げ、パイプ椅子に深く体を沈めて、長く重い溜息をついた。 誰とも喋らず、ただ数字と向き合い続けたせいで、喉の奥がカラカラに乾いている。


「終わった。全部終わった。なんだこのクソみてえな紙の束は」


 誰に言うでもない恨み節が、静かな事務所に虚しく響いた。 佐藤の現場から完全に隔離され、カミさんと二人でプレハブにこもってこなした年度末の事務作業。 それは、丸鋸を握ってミリ単位の寸法を出すのとは全く違う、ひたすらに神経をすり減らす苦行だった。


「なんで現場で汗かいてる工務店が、この領収書一枚の裏付けで何時間も頭を抱えなきゃならねえんだ。こんなもん、現場の腕前となんの関係があるっていうんだよ」


 健治はデスクに散らばったボールペンを手に取り、苛立ち紛れに指先で回した。

「野郎どもは今頃、佐藤のところでアトラスを転がしたり、550坪の現場で重機振り回してんだろうな。いいな、土の匂い。こっちはカミさんの淹れた渋いお茶と、気が狂いそうなエクセルの画面しか見てねえぞ」


 健治は冷え切ったお茶を一気に飲み干し、湯呑みをガツンと置いた。

 佐藤が用意してくれた前払いの136万。


 そのおかげで月末のリース代も職人の給料もすべて綺麗に片付き、資金繰りの地獄からは完全に解放された。 その恩は痛いほど分かっている。分かっているからこそ、この5日間は逃げ出すわけにはいかなかったのだ。


「『逃げてくるな』って、誰が逃げるかよ。佐藤の言う通り、忌々しい書類は全部、1円のズレもなく片付けてやったぜ。これで文句はねえだろ」


 健治は立ち上がり、分厚いファイルを棚へ乱暴に押し込んだ。 書類仕事から解放された瞬間、彼の体はすぐに「現場の親方」としての熱を取り戻し始めていた。


「佐藤の頭の中は冷たい数字ばっかりだ。でも、その数字が俺たちを救った。俺の勘と根性じゃ、このマンション計画の白紙撤回は乗り越えられなかった。それを認めるのは、すげえ悔しいけどな」


 健治は事務所の窓を開け、春の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 木の匂い、サンダーの火花、重機の振動。 それらが今、無性に愛おしく、恋しい。


「よし、事務仕事はこれで終わりだ。野郎ども、来週からは俺がまた現場で先頭に立ってやる。佐藤が描いたデタラメな設計図を、俺たちの手で現実の形に叩き直してやるからな」


 健治は使い込まれた作業帽子を深く被り直し、デスクの上の消しゴムのカスを力強く払い落とした。 埃っぽい紙の匂いが、確かな現場の熱量へと変わる瞬間が、もうすぐそこまで来ていた。



【第88話:収支報告】

【前回の資産:3,347,520円】

収入なし:0円】

【支出:67,500円】 毬「Silk & Ravage 99」海外発送送料(45個×1,500円):67,500円

【現在の資産(メイン口座):3,280,020円】

【納税・社保引等金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):6,100,000円】(役員借入金として500万を貸付済)

【役員借入金残高(佐藤への債務):5,000,000円】

【第88話:完】

【偉人の言葉】 「教育とは、単に知識を授けることではない。自ら考え、規律を守り、未来を切り拓くための『軸』を育てることである。」


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