第三章 騎士とお嬢様 1
ウォルターからの許しを得たアデリードの、その後の行動は実に積極的で判りやすいものだった。
一時は貴族のご令嬢が、これまでとは毛色の少し違う異性に対して多少の興味を持った程度だろう、世辞や美辞麗句も口に出来ず、愛想を振りまくことも出来ない男の事などすぐに飽きて、見向きもしなくなるだろう。
そんな風に考えていたウォルターが、早々に自分のそうした考えを、もしかしたら改めなくてはならないのかもしれないと、危機感めいた感情を抱くようになるくらいに。
本来、令嬢とは貴族同士の社交や特別な理由が無ければ、自由気ままに外出することは殆ど無いと聞いていたが、アデリードに関して言えばそうした世間一般的な話は当てはまらないようで、僅か十日の間で殆ど毎日のように顔を出す。
現れない日があったとしても、二日と間を置くことは無く、駐屯所では瞬く間に彼女の存在が知れ渡り、今や騎士達の間でも格好の噂の的になっていた。
それで無くても彼女は格別見目麗しい、若い娘だ。立ち居振る舞いも平民出身の者が多いウォルターの隊の騎士達には、華やかに見えるらしく、彼女が訪れると否が応でも皆が浮き足立つ。
それをいささか渋い気分で眺めながらも、彼女の訪問を認めたのは他の誰でも無いウォルター本人であったので、表だって強くいさめることも出来ず……平たく言えば、現在のウォルターはいささか後悔していた。
とは言え彼を困らせているのは、彼女の身分と自分の立場、そして周囲の状況と言った物であって、ウォルター個人の感情で言うなら正直、アデリードのようにはっきりとした判りやすい女性は嫌いでは無い。
何につけても奥歯に物を挟めたような、持って回った遠回しな言動を良しとする貴族の姿を多く目にしていると、彼女のような言動はいっそ潔くさえ思える。
特に女性であればなおのこと、自分からあれこれと行動する事は眉を潜められることが多い中で、良くもまああれだけ素直にのびのびと育った物だと、ある意味感心するくらいである。
しかし個人の好悪は別としても、やはり身分という物がある。
娘をあれほど自由にさせている家なのだから、それほど高い爵位の貴族家ではないのかもしれないと思いつつも…もし自分との噂が駐屯所から越えて広まるような事になれば、彼女の経歴に傷が付くかも知れない。
そうなれば彼女の今後の縁談にも影響が出る可能性もある。
あれほどの華やかな娘だから、多少の傷など目をつぶる男もいるかもしれないが……格式や噂を何より気にする貴族の中では、不都合が出ないとは言い切れないのだ。
出来るならば、自分の予想など外れて、早々に飽きてくれれば良いと思うが、ウォルターの期待はまだアデリードに届くことはないようで、この日も彼女は休憩時間に合わせて屯所へとその姿を見せるのだった。
ウォルターが駐屯所へ戻ったのは、予定していた休憩時間より多少遅れての事だ。街中での民同士の諍いがあり、その仲裁を終えて戻って来たときには、アデリードは既に顔見知りとなった駐屯所の騎士達に案内されて、食堂にいた。
あろうことか、丁度ウォルターがその食堂を覗き込んだとき、アデリードはハンデルと呼ばれる炙った肉を削り取ったものを、レタスやトマトと共にパンで挟み込んだものに、騎士達に薦められるがまま、彼らの食事作法を見よう見まねでナイフやフォークも使わずにかぶりついたところだった。
花も恥じらうはずの貴族のご令嬢が、大口を開けて食べ物にかぶりつく…それも多くの異性の目の前で。
それは貴族のしきたりなど良く知らないウォルターでも、嘆かわしい事なのは理解出来た。その証拠のように、彼女の隣では、いつもピタリと付いてくる侍女のセリアという娘が、実に苦々しい表情で、アデリードにハンデルを薦めた騎士の一人を睨みつけている。
セリアに睨まれているのは、ウォルターの副官である赤毛の騎士ジェイドだ。侍女の瞳に宿っているのは不満だけでは無く、明確な怒りもはっきりと感じ取れて、微妙にジェイドが視線を宙に泳がせているのはまあ、自業自得と言うべきだろう。
そしてアデリード本人はと言えば。
美味しそうに噛みちぎったハンデルを小さな口の中にほおばっていたが、遅れて食堂に現れたウォルターの姿を認めると、途端にその身を固まらせる。さすがに彼女も、自分のこの食事作法が、淑女として恥ずかしい物であると言う自覚はあるらしい。
すぐに気を取り直したように口の中のものを飲み込んで、ハンカチで口元を押さえ…それからお上品に、おほほほ、と笑って見せるも、いささか彼女の行動は遅かった。
「………」
まあ別に、ウォルターにはご令嬢はこうあるべき、などという持論があるわけでもなし、他人に迷惑を掛けるようなことで無い限りは、好きなように過ごせば良いと思う。
ただ、それにしてもやはり不思議には思うのだ。
彼女の家は、娘のこうした行動を咎めはしないのだろうかと。侍女のセリアの様子を見れば決してこの状況が喜ばしい事だとは考えていないだろうと判るのに。
ウォルターに会いに来たからと言って、アデリードは彼にあれをしろ、これをしろと何かを要求してくる訳ではない。
ただ顔を見に来て、少し言葉を交わし、それだけで充分嬉しそうに笑って満足したように帰って行く。
滞在時間も決してこちらを困らせるほど長い物ではなく、ここに来るまでに掛かる時間の方が遙かに長く掛かるだろうに、そんなことを気にした様子も無い。
むさ苦しい男たちに囲まれても気にした様子も無く、むしろ変に気を遣い距離を置いていたのは騎士達の方で、その騎士達も繰り返し顔を合わせる内に打ち解けてきたのか、アデリードと親しく言葉を交わす者も増えてきた。
彼女も多くの人と言葉を交わすことに物怖じした様子も無い。恐らく元々、他者と話すことに抵抗を感じない性格なのだろう。逆に侍女の方が主の分まで警戒して、周囲に目を配らせていると言った印象だ。
顔を合わせても、ウォルターは特別気の利いたことを話せる訳ではないし、彼女に対しても決して愛想が良い方だとは言えないだろう。それなのに、彼女は何が楽しくて通ってくるのか。
さすがに、いつかは飽きるだろうと捨て置く気にはなれず、ウォルターが偶然騎士団棟で顔を合わせたレイドリックを捕まえて、彼に問いかけたのは既にアデリードの訪問が二週間を越えた頃だった。
「少しお前に聞きたいことがある」
呼びかけた言葉はたったそれだけだったのに、レイドリックは恐らくいつかはウォルターがこんな風に自分を呼び止めてくると確信していたらしく、いとも容易く応じた。
貴族達の社交シーズンは今が盛りで、ほぼ連日のように、今夜はどこそこの伯爵家で夜会、明日はあちらの侯爵家で舞踏会、等々駆り出されてさすがに疲れているらしく、人前で慎むべきはずの大あくびを隠すこと無くしてみせるレイドリックの顔には、相応の疲労が見て取れる。
折角の娘達に人気の甘いマスクも、濃い隈を浮かべていたら台無しだ。いざとなれば騎士としての役目を最優先にするレイドリックも、社交シーズンは次期エイベリー子爵として他の貴族達と交流は持っておかなければならず、ある程度の誘いには応じなくてはならないと言うからご苦労なことだ。
この分では彼の愛妻や愛娘との交流時間も泣く泣く削られているだろう。その貴重な時間を自分に応じて作ってくれただけでも、本来は感謝しなければならないのかも知れない。
社交シーズンの終わりまであと一ヶ月余り…きっとそれまで、こんな状態は続くのでは無いだろうか。
「それで? 俺に話って?」
そんな風に疲れている彼にあれこれ聞くのはどうなのか、といささか申し訳なく思ってしまうのはウォルターの性格だ。決して謙虚な性格をしている訳ではないのだが、ついつい相手の立場を考えてしまう。
そんなウォルターをレイドリックが義理と人情に厚い男だなと笑ったのはいつだったか…まあ、それはともかくとして。
「お前に聞きたいのは、アデリード嬢の事だ」
時間もあまりないし、持って回った言い方も得手では無いので、単刀直入にそう言った。
レイドリックもある程度は察していたのか、ああ、と頷いてその直後にどこか意味深な笑みを浮かべて寄越す。
「可愛い子だろう? 自分の感情や欲求に素直というか、正直というか。まあ可愛さで言えば、俺にはローズの方が上だけどね」
そんなことは聞いていない。
油断するとすぐに奥方自慢という名目ののろけを始めるレイドリックを、物言いたげな眼差しでじろりと睨む。すると彼は小さく肩を竦めて、その青い瞳を細めて寄越した。
「言いたいことは判っている。彼女につきまとわれて、迷惑しているって事だろう」
「……別にそこまでは、言っていない」
つきまとわれているだとかそこまで酷い状況では無いと思う。それに酷く迷惑しているという訳ではない。
ただ、強いて言うなら戸惑ってはいる。
彼女の好意はストレートに伝わってくるが、自分がそれに答えられる立場ではないからだ。
「そうまで難しく考える必要はないだろう。無理強いは良くないが、相手がそのつもりなら一時の恋のお相手として、付き合ってやることは何も悪い事じゃ無い」
「本気で言っているのか」
「半分は本気。半分は、まあ君ならそんなことは出来ないだろうなと思うからこその冗談かな」
それでも半分は本気なのか。じろりと睨むも、レイドリックが堪えた様子は無い。自分自身が最愛の妻と恋愛結婚をしているくせに、随分と冷たいことを言うではないかと、そんな眼差しを向けると、彼は心得たように答えた。
「君も知っているとおり、貴族の結婚は家のため、男も女もその殆どが家同士で決めるものだ。俺は幸いそれだけでは無い相手と縁を持つ事が出来たけど、殆どは親の指示で否応なく決められる場合が多い。それこそ、今日初めて顔を合わせた相手と結婚すると言う事も少なくない…恋らしい恋も知らずにね」
「………」
「だけど、恋に憧れるのは男女共に当たり前の感情。一番良いのは結婚相手と恋愛が出来る事だけれど、残念ながらそんなことは希だ。ならせめて結婚前に恋の一つも経験させてやりたいと思うのは、酷く責められることかな」
「それでは俺は、一時の遊び相手と言う事か」
いささかの不愉快さを滲み出してみせれば、レイドリックは苦笑したように首を小さく左右に振ってみせる。
「彼女にそんな意思はないだろう。きっとそんなこと、考えてもいないんじゃ無いか? さっきも言った通り、素直で正直な性格だから。これはあくまで、俺の一意見」
確かにアデリードの様子を見る限り、彼女がそんなことを考えていないだろうことは、ウォルターにも判る。反面、これから先の事を考えていないとも言える。それともあえて、考えないようにしているのだろうか。
アデリードは決して愚かな娘では無い。だと言うのに……
「そんなことを言って、もし俺が彼女を傷物にするような真似をしたらどうするつもりだ」
「賭けてもいい、君にそんな真似は出来ない。見かけによらず優しい男だからね。どうしたって彼女のこの先を考えてしまうだろう?」
「………」
「それでも君が突っ走るのだとしたら、それは本気で彼女に惚れて、この先をどうにかしようと覚悟した時だけだ。そんなウォルターの姿も是非見てみたいけど。今の君にはなかなか難しいことだろう」
「お前…」
まるで獰猛な犬が唸るような声を上げながら、それ以上は何も言えずに黙り込んだウォルターの肩を、レイドリックが軽く叩く。そして囁くように言った。
「迷惑なら迷惑と、はっきり告げて貰って良い。その方が彼女も早くに諦めが付く。だけど…君に少しでも付き合ってやっても良いと思う気があるなら、一時だけで良い。思い出を作ってやってくれ」
「………お前は随分、彼女の事を理解しているようだな」
「理解は…どうかな。ただ、多少の事は知っているよ。俺にとっては、妹のような子だから」
話はここまでとばかりに、それじゃあと一声掛けて、レイドリックは歩き去って行った。その後ろ姿を見送って、知らず知らずのうちに深いため息が出る。
レイドリックに話をして問題を解決しようとまで期待したわけではなかったが、話をする以前よりいささか自分の責任が重くなったような気がする。
ウォルターにはレイドリックの期待に応える義務も、アデリードの期待に付き合う義務も無い。はっきり言ってしまえば、それこそウォルターには迷惑な話だ。
それでも…あの自由に振る舞い、今を生き生きと笑っている令嬢らしくない令嬢が、そう遠くない未来で籠の鳥となる結婚生活を送るのかと思うと、あまりにも彼女らしくない気がして、それがますますため息を深くさせるのだった。