37 河川敷にて 4
カメラのシャッターを切っては、モニターで写った物を確認して、その度ボタンを弄り、またシャッターを切る。
光史燈弥はそんな作業を繰り返している。
刀川美空にはその作業に意味があるのかわからない。
もしかしたら、居た堪れないのをごまかしているのかもしれない。
あるいは、単に手持ち無沙汰なのかもしれない。
二人は相変わらず、河川敷のベンチに並んで座っている。
光史の話を聞いてから、沈黙が続いていた。
「ね、光史。」と彼女が呼ぶと、「なんだ?」と彼はカメラを弄りながら答える。
「昨晩、遠吠えを聞いた?」
「だいぶ騒いでたな。」
たぶん彼は、犬が町中で遠吠えをしていたことの話をしている。
それしか聞こえていなかったのだろうかと、彼女は不安に思う。
「ね、光史。」と彼女がもう一度呼ぶと「なんだよ?」と、彼は同じ調子で返す。
相変わらず、カメラをいじって彼女に視線を向けない。
「黒い犬が、ウチの前で叫んでたんだ。」
「黒い犬?」と光史は呟くように復唱した。
ようやくカメラをいじる手を止めて、彼は刀川の方を向く。
彼の視線は彼女に説明を求めていた。
彼女は少したじろぐ。
話て良いものか、未だ迷いがある様だった。
そして、それの名を、口にすることを恐れている様だった。
迷った末、刀川はベンチの上に「童」と一文字だけ綴る。
雨垂れの水を指先で広げたその文字は、やがて点々と並ぶただの雨粒に変ずる。
それでも文字を見て、「ああ」と光史はうなづく。
彼女が何を呼ばんとしているかを察したのだろう。
彼は納得した様子で、またカメラのモニターに視線を戻した。
「母さんは、雷の音だって……。」と、刀川。
「そう聞こえる人もいるだろうな。」と、光史。
彼の声は、彼女にはどこか素っ気なく聞こえた。
「でも私は、黒い犬を見たんだ。アレが叫ぶのを聞いたんだ。」
「わかってるよ。」と光史。「さっき聞いた。」
彼女の顔は、どこか不満げだった。
光史は、刀川の見たもの、聞いたものを否定しなかった。
しかしまた、彼女の母の言葉も否定しなかった。
そこに、不安を感じたのかもしれない。
どこか突き放されているような、不安。
そしてそれが、彼に寄り掛かかる気を失くさせたようだった。
失望した様に、彼女は視線をそらした。
「あの黒い犬は、何を怒ってたんだろう?」
口にしたのは設問であったが、彼女は回答を期待していたわけではなかった。
独り言のようなものだ。
彼はきっと無視する。
あるいは、適当な空返事をする。
そう思っていた。
だからとても意外だった。
「怒ってるわけじゃないよ。」
彼から返ってきたのは明確な否定だった。
「怒っていない?」
少し驚いた様子で、彼女は光史の顔をみる。
彼はカメラをいじりながら、彼女の言葉に「うん」と小さくうなづく。
「あれは牽制だ。」
カメラから視線を外し、彼は河の方を見やる。
ごうごうと唸る水の音は今も聞こえている。
「牽制? 何を牽制してるのさ?」
「お前を追いかけた様な連中だよ。」
その回答もまた、彼女にとって意外な物だった。
あの黒い獣が、彼女を追ってきた物を殺すのを見た。
あの黒い獣が、清水春香の「友達」を食い殺したと聞いた。
しかし彼女は、それは狩猟の様なものだと思っていた。
あの獣が、その狩猟対象に、示威を必要とするとは思えなかった。
狩猟対象に萎縮する様に、その動きを封じる様に、牽制を加える必要があるとは思えなかった。
「どうして牽制なんてするのさ?」
「放っておくと、溢れて来るんだよ。」
実に、不愉快そうな顔をして、彼は続ける。
「とてもたくさん、湧いてくるんだ。止めどなく、這いずり出てくるんだ。」
そういって、彼は肩をすくめた。
「だから、牽制するのさ。」
あの獣は、それを防ごうとしている。
彼はそう言っている。
「前、住んでたところでは、そんなのいなかった……。」
訥々とした調子で、彼女は呟く様に言う。
「化け物じみた何かが、化け物じみた何かを潰して回らないといけないなんて話、聞いた事ないよ。」
「そうだろうね。」と、光史の返答はまたどこか素っ気ない調子に戻っていた。
そして溜息を吐くと、「この街も昔はそういうことはなかったらしい」と続けた。
「昔?」と刀川が訊くと、「ああ」と光史が応じる。
「神様がいた頃の話だけど。」
「神様?」
突然出てきた「神様」という単語に、彼女は面食らった様子である。
「山の上の神社の話?」
「いんや。中洲の街に昔いた神様の話。」
「神社があったの?」
「ああ。龍を祀っていたそうだ。」
「いなくなったの?」
「死んでしまったんだと。」
神とは死ぬものなのだろうか?
彼の言わんとする事を図りかねて、彼女は首をひねる。
初詣や七五三、夏や秋にあるお祭り、そういった時に神社に詣でた事はある。
しかしながらそれは、そう言う場所と施設を訪れるというだけで、実体としての神様を感じたことなどない。
神前で祈ったこともあるし、かしわ手を打って願い事をしたこともある。
だが神様の存在を実感したことなどない。
だから、普通の生物の様に、「神様が死んだ」と言われても、彼女はすぐさま理解することができなかった。
おそらく、何かの比喩なのだろうと、彼女は彼の顔をまじまじ眺めて考える。
「……神社がなくなったって話?」
「そうだね。神社も無くなった。ご神体は粉々になった。」
「建て直さないの?」
「いろいろ条件がややこしいんだと。他から神様は来てくれないという話だし。」
「そうなんだ。」
「まあ、再来年くらいには、再建できそうだって聞いたけど。」
「へぇー。」
たぶん、詳しく聴いても自分には理解できないと判断をつけたのか、彼女の返事はいくらか興味なさげであった。
彼女はそれ以上何か訊こうとは考えなかった。
彼も、それ以上何かを付け足す様子もなかった。
「しかし、『黒い犬』か……。」
しばらくして、そう呟くと、くつくつと光史は笑う。
「可笑しい?」と彼女。
バカにされた気がしたのか、声が少し苛立たしげだ。
「いや、言い得て妙だと思ってね。」
「どういうこと?」
「ブラック・ドッグって知ってるか?」
「英語で黒い犬ね。それが?」
「まあ、妖怪の類だよ。」
ブラック・ドッグとは、妖異である。
主に欧州の、イギリスの全土で伝承される。
文字通り、黒い犬の姿をした物である。
しかしながらそれは黒い犬の姿をした妖異の総称のようなもので、実際の呼び名は様々なようだ。
そしてその呼び名が様々であるように、その性質も様々である。
所により人に禍なす存在であり、所により人を守護する存在である。
共通しているのは、巨大な黒い犬の様なその姿と、そして幽明の境をさまよう、特に「死」と関わり深い妖異であるということだ。
十字路の黒犬は悪魔の使いと言われたり、あるいは悪魔そのものと言われる。
出会った者、襲われた者、噛まれた者は時として病に倒れ、あるいは死んでしまうという。
また別の話もある。
森で道に迷った時に現れて、森の出口まで案内してくれるという。
あるいは戯れる子供を見守るという。
「特にまあ、墓守犬と呼ばれる手合が近いかね。」
教会を建てる時、最初に置かれる石の下、黒い犬を生きたまま埋めると言う。
やがて死ぬその犬は、教会の守り手となるそうな。
墓盗人、墓荒らし、そういう輩から墓場を守るという。
また墓参りに訪れる者を守り導くと言う。
「アレは、墓守なの?」
「似たようなモノだよ。」
「墓場に現れてよ、それなら。」
「似た様なものさ、どこだって。」
それもまた何かの比喩だろうか?
刀川は彼の言葉を頭の中で反芻する。
「まあ、アレは犬じゃなくて、狼の頭らしいけど。」
「狼?」
聞き返した言葉に返事はなかった。
彼は立ち上がっり、どこか遠くに向かって手を振る。
彼の視線の先を追うと、彼女の目に二つの人影が見えた。
街と河川敷を分かつ土手の上から、階段を降りてこちらに歩いて来る様子である。
葉沼千秋と、塚森仄香だった。