38 焼香の帰り
ポツリポツリと降り出した雨が住宅街の屋根を濡らす。
雨野寧音が手をかざすと、雨粒が落ちる感触がてのひらに一つ、二つ。
彼女は手にした傘を開く。
瀬石庵と程々に世間話などして道場を辞し、今は帰宅の途。
瀬石の道場から彼女の家までは、四辻を三つ四つ曲がる程度。
中洲の街の中程の、河からいくらか離れた辺りである。
傘の生地を打つ雨粒の音を聞きながら、彼女は人通りのない道を行く。
三つ目の四辻で、柄杓で道に水をまく男に行き合った。
手桶を片手に、着流し姿。
雨に濡れる路面に、さらに水を撒いて濡らしている。
パシャリ、パシャリと繰り返し、執拗に濡らしていく。
塚森樹である。
ここは中洲の街の真ん中で、河向こうの塚森の家とはそれなりに距離がある。
そんな住宅街の、取り立てて特徴のない住宅街の十字路で、彼は濡れた道に水を撒いている。
「あら、樹さん。」と、気軽な調子で雨野は声をかけた。
「ああ、雨野さん。」と、水を撒く手を止めて、塚森は彼女の方を向く。
途端に、彼はウッと眉間にしわを寄せ、不快そうに顔を歪めて目を閉じた。
「…焼香の帰りか?」
眉間を抑えながら彼は尋ねた。
声は、平静な調子だった。
「あら、わかるんですね。」
「……線香の匂いがするからね。」
目を開けた彼は、彼女から目を逸らしてそう言った。
袖の端を摘んで、その匂いを嗅いでみる。
線香の匂いなどするだろうか?
彼女にはよくわからなかった。
「匂い、染み付いちゃってますか?」
「気にするほどではないよ。」
そう言って、また水を撒く。
相変わらず、彼は彼女の方を見ようとしない。
「私の格好、どこかおかしいですか?」
言いながら、どこかで泥でも跳ねたかと矯めつ眇めつ自分の服を確かめる。
汚れている様子もなく、濡れ鼠というわけでもなく、目を逸らされる要素は見当たらない。
「いや、そんなことはないよ。」
彼はそっぽを向いたまま否定する。
「…顔に何かついてるとか?」
言ってみたものの、目を逸らされる様な酷い顔とは一体どんな状態だという話だ。
「キレイな顔だよ。」
幾分、適当な調子で彼は彼女の懸念を否定する。
「……せめて見て言っていただけますか?」
彼女にそう言われても、彼は視線を向けようとはしない。
彼は「気にしないでくれ」といいながら、明後日の方向をむいている。
「樹さんは焼香に行かれないのですか?」
「四十九日が終わったら行くよ。それまでは、止めておく。」
「何かこだわりでもあるのですか?」
「死穢を被るわけにいかないのでな。」
「シエ、ですか?」
うむ、と小さく彼は頷く。
「死の穢れと書く。意味は文字の通りさ。」
その穢れは、染まる者にやがて死をもたらすと言う。
死に行く者の内に溜まり、増殖し、次第に深くを侵し、その肉体を満たす時、やがてその人を死体に変える。
そして死体の内に溜まった死穢は外へ滲み出し、空気の内に漂い、触れる者を染める。
祭祀者は、この穢れを殊に厭う。
「だから、なるだけそういった場には近づかない事にしている。まあ、迷信じみた話かもしれんが、立場上な。」
「そういえば、昨日、座波さんの葬儀にもいらしてませんでしたね。仄香さんは見かけましたけど。」
「そうだな。」
彼は柄杓を片付けて、何やら指で虚空に模様を描く。
何を意図してそうするのか、彼女はわからない。
「受験の方、いかがですか?」
「まあ、ボチボチというところだ。」
「志望校、どこでしたっけ?」
「國學院と、皇學館だよ。」
「他は受けないんですか?」
「ああ。滑り止めはなし。落ちたら、浪人だな。」
相変わらず、塚森樹は雨野寧音の方を向こうとしない。
彼女は諦めた様子でため息を一つ。
「昨晩、童子様をお見かけしましたよ。」
「……そうか。」
「その話をしにきたのですね?」
彼女がそういうと、彼はまた眉間にシワを寄せる。
とても不本意そうな表情を彼女に一瞬向けたかと思うと、また外方を向く。
「待ち伏せていたわけではない。」
「そうなのですか?」
「確かに、その話を聴こうとは思っていたよ。たが、それは明日学校ですればいい話だ。今日、無理矢理に聴く話ではない。だいたい、君の今日の予定なんて、僕は知らない。」
少し早口で、まくし立てる様に彼は言う。
彼女には、彼の言葉が本当かどうかはわからなかった。
しかし彼女は、ただ「そうですか」とだけ、彼に返す。
きっと、どちらであっても構わなかったのだろう。
だから気にせず話を戻した。
「金色の牙と金色の隻眼、人の四肢を持った黒い獣……。それが、童子様のお姿でしたよね。」
塚森は黙ったまま、ただ頷いて彼女の言葉を肯定する。
それを見て、彼女も小さく頷く。
視線は虚空をさまよい、記憶の中の過去に目を向けている様だった。
そして、一つ、深く息をしたかと思うと、意を決した様に話し始める。
「黒い影が、迫ってきたのです。」
腕を搔き抱いて、彼女は泡立つ肌を抑える。
動悸が早くなる様だった。
額から汗が吹き出る様だった。
「葬儀の帰り、たまたま夜道で一人になって、……そして影が遠くから、歩いてきたのです。」
訥々とした調子で、ゆっくり、記憶を反芻する様に彼女は話す。
「目前まで近づいてきても、私は動けませんでした。私に手を伸ばしてきても、動けませんでした。」
影が発する死臭を思い出しながら彼女は語る。
「真っ黒な手でした。その手が私に届くかと思ったのです。」
顔にかかる息に混じる腐臭を思い出しながら彼女は語る。
「その時、童子様がお出でになりました。」
カッと目を見開いて、鬼気迫る面持ち。
「影を追い払ったようでした。杖で、何度も殴打して……。そして、影は、どこかへ逃げたのでしょうか、童子様はそれを追いかけて消えて行った様でした。」
語り終えた彼女に、「そうか」と、塚森は短く応じる。
かけてやるべき言葉が思い浮かばないのか、いかなる言葉も無意味と考えているのか。
彼女の言葉の一つ一つに、呼吸に、耳をそばだてている。
「仄香さんにも話しておいたほうが良かったですか?」
「それは、好きにすると良い。」
「そうですか。」
彼女は俯いて、また記憶の沼に沈んでいく様子だった。
呆けた様に半開きになった唇。
見開かれた目。
揺れる視線。
「あの影はなんだったのでしょうか。」
しばらくして彼女はつぶやいた。
「私は何に出会ったのでしょうか。」
当て所なく視界をさまよわせ、うわごとの様に彼女はつぶやく。
「あの、影の、向こうに、見えた気がするのです。」
吐き気を抑える様に、彼女は口を覆う。
「何か……、何か……、私は見たはずなのです……。見た、はずなのです……。」
絞り出す様にそう言うと、彼女は沈黙した。
うつむいたまま、微動だにしない。
電池の切れたおもちゃの様に、凍りついて動かない。
沈黙を破って塚森が言葉をかける。
「君がその記憶を厭い、畏れるなら……。」
「いいえ。」
塚森の言葉を遮って彼女は首を降る。
「いいえ、塚森様。私は大丈夫です。」
彼女の声には明確な拒絶が響いていた。
彼は、「そうか」とだけ応えて、それ以上、何も言わなかった。




