36 橋の上
土色の水が、絡み合いうねり暴れる幾百の大蛇がごとく、激流をなす河。
その上に掛かった橋の上で、葉沼千秋はその水流を見下ろしていた。
揺れる水面に浮かぶ白波が、時折人の顔の様に見えることがある。
その顔に見覚えがある様な気がして、誰だったか思い出そうとするうちに、顔の様に見えたものはもう水の中に消えて跡形もなくなっている。
自分の記憶を頼りに、今見た顔を思い出そうと試みるも、所詮は波間の幻、もとより曖昧模糊としたその像、胡乱な記憶の中で明確な形で思い出されるはずもなく、結局いま見えている風景に埋没して消えて行くのである。
彼女の横にはセントバーナードが大人しく座っている。
鬼平である。
いつまた雨が降り出してもいいように、雨具の備えは万全。
規則正しい息遣いで舌を揺らす。
車が滅多に走らない車道を眺めながら、ジッと主人がまた散歩を再開するのを待っている。
濁流はとめどなく流れゆく。
土色の水が泡立ちながらごうごうと、波打ち流れるのである。
時たま流れてゆく枯れ枝が、波間でくるくると回りながら過ぎ去って行く。
葉沼千秋はその激流に惹かれる自分を感じている。
ジッと見ていると飲み込まれてしまいそうなそれを、怖れながらも、目が離せない。
ふと、「落ちますよ、また」と声がかかる。
葉沼は「何年前の話よ」と応じながら、もたれ掛かっていた欄干から身を離して声のした方を向く。
塚森仄香だった。
「ホノちゃん、こんにちは。」
「ええ、こんにちは葉沼さん。散歩ですか?」
「うん。」
言いながら、葉沼が鬼平を撫でると、「わふっ!」と、挨拶するように彼は吠えた。
塚森は控えめに手を振って、それに応じる。
「ホノちゃんもお散歩?」
「ええ、そんなようなものです。」
すました様子で答える塚森仄香。
めかし込んで、いくらか浮き足立っている彼女の様子は、明らかに「単なる散歩」という様子ではなかった。繁華街の方へ行くならともかく、人気もまばらな住宅街をそんな調子で散歩する人はそうはいない。
しかし当の彼女が散歩だと言うのだ。
だから、ただの散歩ということにしておこう。
ここで根掘り葉掘り訊くのは野暮。
それが友情ってもんだ。
などと葉沼千秋は考えている。
そもそも日曜日に遭遇した塚森仄香がめかし込んで浮き足立っているのは毎週のこと。
もう何年も続いていることである。
なので今更からかってもなんの面白みもない。
ゆえに若干めんどくさくなっているという可能性も無きにしも非ず。
そわそわと自分の格好を気にしては、チラチラ葉沼の顔色を伺う彼女に、「大丈夫だよぉ〜」とか「可愛いよ〜」とか言って聞かせる葉沼の声はややおざなり。
これも恒例行事のようなものだ。
毎週やるので些か食傷気味である。
「河を覗いたりして、どうしたんですか? 何か落し物でも?」
恒例行事がひと段落したところで塚森が尋ねる。
「なんでもないよ。ただ見てただけ。」
気のない調子で葉沼は返す。実際、何かがあったわけではなかった。
「そうですか。」
塚森も、それほど気にかかることがあったわけではなかったらしく、それ以上は特に何をいうでもない。
そして鬼平をわしゃわしゃ撫で回す。
撫でられるのが常のことなのか、彼は塚森に身を任せている。
恍惚という様子でもなく、苦痛という雰囲気でもなく、なんだか悟ったような調子でなされるがままである。
「いつもの夢、まだ見ますか?」と鬼平を撫で回す手を止めずに塚森が尋ねる。
「うん」と、少し遠慮がちに葉沼は応じる。
話して良いものか、少し迷っている様子だった。
塚森のいう“いつもの夢”とは、葉沼が頻繁にみる“仮面の人”の夢のことである。
夢のことは別に秘密にしていないし、周知のことだった。
葉沼自身、何度もその話を友人にしたことがある。
だから夢の話自体は今更だったし、別に遠慮することもなかったのだが、彼女には少々気がかりがあった。
「実はね、昨日も見たんだぁ。ここのところさ、二、三日おきに見るの。」
「多いですね。」
「そだね。一度みると、いつもはひと月くらい見ないんだけど……。」
「そういう季節なんですかね」と、本気なんだか冗談なんだかわからない調子で塚森が言うと、
「え〜? そうかなぁ?」と、葉沼。
その声に、塚森はクスクスと笑みを漏らしながら、やはりわしゃわしゃ鬼平を撫で回している。
鬼平は微動だにせず、なされるがままで醒悟の面持ち。
夢の話はそれで終わってしまった。
葉沼としてはもう少し、塚森から助言なりをもらいたかったが、彼女がそれで話を切り上げてしまったのだから、何か助言を要するような話でもないのかもしれない。
しかしながら、薪が焼け残ったまま火が消されたような、そんな消化不良な感触が彼女に残った。
「あ、そういえば昨日、ホノちゃんのお母さんに変なこと言われたんだった。」
ふと思い出して水を向けてみる。
「あの人の言うことは大抵変ですよ。……なんて言われたんです?」
「『今日は忘れてませんね』とか、『あまり忘れて出歩いてはいけませんよ』とか……。」
思い出すように語る葉沼の言葉に、「ああ」と塚森は得心いった風に声を漏らす。
「夢の話ですね。」
「夢の?」
「はい。」
鬼平を撫で回すことに満足したのか、塚森はスクと立ち上がると中洲の街の方へ歩き出す。
葉沼は何を言うでもなく、彼女について歩き出した。
鬼平も主人の足取りに続く。
「夢に誰かが現れた時、昔はその人が夜、夢の中で会いに来たなんて言ったじゃないですか。」
「そうだね。」
古典の授業でそんな話があった気がする、と葉沼。
「つまり、葉沼さんは体を忘れて、魂だけ抜け出して“仮面の人”に会いに行っている、と言う事なんですよ。」
「そうなの?」
「本当かどうかは知りません。」と塚森は肩をすくめて見せた。「でも、言わんとすることはそういうことだと思います。」
橋の途中、昨日の老人が釣り糸を垂らしている所に通りかかる。
よくこんな荒れた河に釣り糸を垂らす気になるなと思いながら、軽く会釈だけして通り過ぎる。
二人の会釈に老人は手で軽く応じた。
今日も釣果はない様子。
「じゃあ、危ないのかな……」と、葉沼は不安げな声を漏らす。
これに塚森はまた肩を竦める。
「そうかもしれません。けれど、夢に見ることをどうしろという話ですよ。」
「…そうだよね。」
そう言ったものの、どうしようもないからと言って開き直れるわけでもなく、彼女の不安は少しも解消されない。
「まったく…。中途半端に忠告だけしたって、不安を煽るだけだってわかってるでしょうに、ほんと、あの人は……。」
塚森はブチブチと小声で悪態をついている。
「帰ったら、もう少しまともな助言なりなんなり訊いて来ますから、葉沼さんはあんまり思い詰めないでくださいね?」
「うん、ありがとう、ホノちゃん。」
そんな話をしているうちに、二人は橋を渡りきった。
土手道の向こうに中洲の街が見える。
葉沼が「それじゃここで」と口にしようとしたところ、塚森が「あ」と声を漏らす。
何事かと彼女を見やると、見たことのない表情をしている。
「どうしたの?」と訊ねても、彼女は「いえ」としか返さない。
その表情は不安げで、寂しげで、痛みに耐えるようだった。
彼女の目線の先を追ってみると、広がる河川敷のグラウンド。
人影が二つ見えた。
「ああ」と葉沼、何が塚森を震わせたかを悟った様子。
塚森は、そこから一歩も動けなくなっている様子だった。
普段は、一人凛と立つような彼女。
その彼女が、時折とても脆い。
彼に関わることでだけ、とても。
葉沼はそっと塚森の手を取る。
「……行こ?」
葉沼千秋は塚森仄香の手を引いて、土手の道を歩き出した。




