第7話 毒を入れた少女
セレス王国の王都を出たのは、翌朝のことだった。まだ朝市の店が開き始めたばかりの通りを抜け、私たちを乗せた馬車は北へ向かった。窓の外には次第に畑が増え、遠くの丘には小さな家々が見えるようになった。
向かいに座るノア様は、膝の上に置いた書類を読んでいた。昨日、裁判所でマルタさんから渡されたものだ。私の手元にも同じ書類があり、ユイという少女がどうして罪を認めたのか、何度読み直してもわからなかった。
「エマ嬢。昨夜は眠れましたか?」
「はい。少し緊張はしていますけれど、ちゃんと休めました」
「それならよかった。私も気になって、今朝はいつもより早く目が覚めてしまいました」
ノア様が少し照れたように笑うので、私も肩の力が抜けた。王弟殿下でも、慣れない仕事の前には緊張するらしい。
けれど、村が近づくと、自然と書類に目が戻った。
問題の診療所では、薬を飲んだ人たちが相次いで体調を崩したという。村で診療所の手伝いをしていたユイさんが毒を入れたと疑われ、本人も罪を認めている。一方で、村人たちは彼女を助けてほしいと何通も手紙を送っていた。
「村の診療所は、一か所だけなのですよね」
「ええ。大きな町まで行けば別の医者もいますが、病気の人が気軽に通える距離ではありません。長く村に住んでいる先生が、一人で診療所を任されているそうです」
「では、村の人たちにとっては大切な場所ですね」
「そう思います。だからこそ、この事件は早く確かめたいのです。薬が危険だという話が広まってから、診療所へ行くのをためらう人もいるようですから」
私はうなずいた。毒が入っていたのなら、もちろん使わせてはいけない。でも、病気になっても診てもらえる場所がなくなるのは、それもまた困ることだろう。
午後になって、馬車は小さな村に着いた。石畳の道の両側には低い家が並び、広場の井戸では女性たちが水をくんでいる。見知らぬ馬車が入ってきたせいか、何人かが手を止めてこちらを見た。
役所は広場の奥にある二階建ての建物だった。入り口には年配の男性が立っていて、ノア様の姿を見つけると深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。村の役所で仕事をしております、トムと申します」
「出迎えをありがとうございます。こちらがエマ・ローラン嬢です。裁判所の許可を受けて、事件について調べていただくことになりました」
「お話はうかがっております。どうぞ、中へ」
トムさんは穏やかに案内してくれたけれど、どこか疲れた顔をしていた。机の上には書類が積まれ、その横には封筒がいくつも置かれている。
「こちらは、例の手紙でしょうか?」
私が尋ねると、トムさんは困ったようにうなずいた。
「はい。ユイを助けてくれという手紙です。今日も朝から三人、届けに来ました。ですが、皆さん、なぜ助けてほしいのかと聞くと、同じことしかおっしゃらないんです」
「同じこと?」
「『あの子は悪い子じゃない』と。もちろん、そう思う気持ちはわかります。でも、それだけでは何があったのかわかりません」
手紙に並んだ名前を眺めた。文字の大きさも形もばらばらで、中には誰かに代わりに書いてもらったらしいものもあった。きっと、それぞれの人が自分なりにユイさんを助けようとしているのだろう。
「ユイさんには、今日お会いできますか?」
「はい。今は奥の部屋で休ませています。担当の職員を同席させますので、こちらでお話を聞いてください」
トムさんが用意してくれた部屋には、机と椅子が三つずつ置かれていた。窓の外には小さな庭があり、木の枝が風に揺れている。私は机の上に手帳を置き、同席する女性職員に、話を記録してもよいか確認した。
「本人にも説明してから始めてくださいね。話したくないことを無理に聞き出すのは、認められていませんから」
「はい。わかりました」
マルタさんに教わったことを思い出す。私がするのは、罪を認めさせることではない。何が起きたのかを、できるだけ正しく確かめることだ。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、私が思っていたよりも小柄な少女だった。茶色い髪を後ろで一つに結び、着古した服の袖を何度も引っ張っている。手は赤く荒れていて、指先には細かい傷があった。
「ユイさん、ですね?」
「……はい」
「初めまして。私はエマ・ローランといいます。今日は、あなたに少しお話を聞かせてもらいに来ました」
少女は椅子に座っても顔を上げなかった。何か言われるのを待っているように、背中を丸めている。
「先にお伝えしますね。私は裁判官ではありません。あなたが有罪かどうかを決めるために来たのでもありません。事件について、まだわかっていないことを確かめに来たんです」
「……もう、わかってます」
「何がですか?」
「私がやったんです。毒を入れたのは、私です」
言い終えると、ユイさんはぎゅっと手を握った。声は小さかったけれど、その言葉だけは何度も練習したようにはっきりしていた。
「そうですか。では、少しずつ教えてもらってもいいでしょうか。私がわからないことばかりで、申し訳ないのですけれど」
ユイさんは不思議そうに顔を上げた。
「……怒らないんですか?」
「お話を聞く前から怒ってしまったら、何があったのかわからなくなってしまいますから」
「でも、みんな、私がやったって言うと……」
そこで言葉が止まった。私は続きを急がせず、机の上の水差しからコップに水を注いだ。
「よかったら、飲んでください。急いで話さなくても大丈夫です」
ユイさんは少しためらってからコップを受け取った。両手で包むように持ち、一口だけ飲む。その様子を見ていると、十五歳の子が大勢の大人に囲まれていることが、急に重く感じられた。
「診療所では、どんなお手伝いをしていたんですか?」
「床を掃いたり、お湯を運んだり……。薬を包むのを手伝うことも、ありました」
「薬を作ることも?」
「作るのは先生です。私は、先生に言われたものを並べたり、包んだりするだけでした」
「そうでしたか。お仕事は大変でした?」
ユイさんは、ほんの少しだけうなずいた。
「忙しかったです。でも、薬をもらって帰る人が元気になるのを見るのは、好きでした」
初めて、彼女自身の気持ちが聞けた気がした。私はその言葉を手帳に書いた。
「それでは、事件の日のことを聞いてもいいですか?」
ユイさんの指が、再びコップを強く握った。
「……私がやりました」
「はい。そうおっしゃったことは、記録に残します。でも、何をしたのかも確かめなくてはいけません。薬に何を入れたのか、教えてもらえますか?」
「それは……」
ユイさんは口を開いたものの、すぐに閉じてしまった。水面を見つめたまま、何も言わない。
「今は答えたくなければ、そう言ってくださいね。別のことを聞いてもいいです」
彼女は小さくうなずいた。
「ユイさん。最初に役所の人へお話ししたとき、『私がやったことにしてください』とおっしゃったそうですね」
少女の肩が震えた。
「どうして、そう言ったんですか?」
「……覚えてません」
「わかりました。では、今は聞きません」
私は手帳を閉じかけて、少し考え直した。言いたくないことを聞き続ければ、彼女はますます口を閉ざしてしまうだろう。けれど、ここで終わる前に、一つだけ確かめたいことがあった。
「村の人たちが、あなたを助けてほしいと手紙を出していることは知っていますか?」
ユイさんは驚いたように私を見た。
「……手紙?」
「ええ。たくさん届いています。薬を飲んで具合が悪くなった方も、あなたのことを心配しています」
「そんな……。どうして……」
ユイさんはうつむき、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。
「私のせいで、迷惑をかけたのに」
「そう思っているんですね」
「はい。あの人たちには、いつも助けてもらってたから……。もう、私のことなんか放っておいてくれればいいのに」
言葉とは反対に、彼女の目には涙がたまっていた。助けてほしくない人の顔には見えなかったけれど、それを私が決めつけるわけにはいかない。
「お手紙を読むことはできますよ。今すぐでなくても、読みたくなったら職員の方に伝えてください」
「……はい」
ユイさんは袖で目元を拭った。
それから、思い出したように顔を上げた。
「あの……おじいちゃんは、どうしていますか?」
「おじいさん?」
「家に、一人でいるんです。足が悪くて、遠くまで歩けないから……。誰か、様子を見に行ってくれているでしょうか」
私は同席していた職員に目を向けた。職員は、家には近所の人が食事を届けていると教えてくれたが、体の具合については詳しく知らないそうだ。
「食事は届けてもらっているそうですよ。体のことは、私たちも確認してみますね」
「ありがとうございます……」
ユイさんは深く頭を下げた。事件の話をしている間はほとんど表情が変わらなかったのに、おじいさんのことになると、言葉が少し早くなる。
「今日はここまでにしましょうか。長い時間、ありがとう」
立ち上がろうとすると、ユイさんが小さな声で呼び止めた。
「エマさん」
「はい?」
「……私が悪いことをしたのは、本当です。それは、嘘じゃありません」
私は彼女の方へ向き直った。
「そうなんですね。でしたら、あなたが何をしたのか、きちんと確かめたいです。そのうえで、間違って伝わっていることがあれば、直さなくてはいけませんから」
ユイさんはしばらく私を見ていた。それから、何かを飲み込むように唇を結んだ。
「……あの薬、もう使ってませんよね?」
「それは、まだ確認できていません」
「そう、ですか……」
その声を聞いて、私は思わず聞き返しそうになった。毒を入れたと認めている少女が、どうして薬の使われ方を気にするのだろう。
けれど、今ここで問い詰めても、答えは得られない気がした。
「診療所の薬については、すぐに役所の方にも確認してもらいます。あなたにも、わかったことをお伝えしますね」
ユイさんは、ようやく少しだけ安心した顔になった。
部屋を出ると、廊下で待っていたノア様が立ち上がった。面会の間、王族である自分が同席するとユイさんが緊張するかもしれないと、外で待ってくださっていたのだ。
「どうでしたか?」
「まだ、わからないことばかりです。ユイさんは罪を認めています。でも、何をしたのかについては、ほとんど話してくれませんでした」
「では、明日は村の人たちにも話を聞きましょう」
「はい。それから、お願いがあります。ユイさんのおじいさんの様子も、確かめさせてください」
「わかりました。役所の方に相談して、訪ねてもよいか確認しましょう」
「それと、問題の薬が今も使われていないか、急いで確認をお願いできますか?」
「もちろんです。担当の職員に伝えましょう」
私はうなずいた。今の私には、ユイさんが本当のことを話しているのかも、何を隠しているのかもわからない。ただ一つ、彼女が何より気にしていたのは、自分の裁判ではなかった。
あの薬は、もう使われていないのか。
どうして最後に、そんなことを尋ねたのだろう。
答えを出すには、まだ早い。私は手帳にその言葉を書き留め、明日確かめることを一つ増やした。




