第6話 裁判官ではない私
セレス王国で迎えた最初の朝、私は少し早く目を覚ました。王宮の客室は広く、寝台もふかふかで、窓からは王都の屋根が見える。旅の疲れは残っていたけれど、昨日まで馬車に揺られていたことを思うと、床が動かないだけでもありがたかった。
朝食を運んできてくれた侍女に礼を言い、温かいパンを食べながら、父への手紙を一枚書いた。無事に着いたこと、食事がおいしいこと、それから、持たせてくれたお菓子が旅の途中で役に立ったこと。最後に、今日から仕事の相談を始めると書き添えた。
手紙をたたんだところで、扉が控えめにたたかれた。
「おはようございます、エマ嬢。お支度はできていますか?」
「はい、ノア様。ちょうど終わったところです」
扉を開けると、ノア様は昨日より少しきちんとした服を着ていた。胸元には王家の印が付いている。馬車の中でお菓子の話をしていた人と同じなのに、こうして見ると、やはり王弟殿下なのだと感じる。
「今日は裁判所へご案内します。少々厳しい方に会っていただくことになりますが、怖がらなくても大丈夫ですよ」
「厳しい方、ですか?」
「ええ。私も子供の頃から、何度も叱られました」
「それを聞くと、ますます緊張してしまいます」
「ご安心を。叱られるときは、大抵私に原因がありましたから」
そう言って笑うノア様を見て、私も少し気が楽になった。
王宮から裁判所までは馬車で十分ほどだった。立派な門を通り抜けると、道には荷車や買い物客が行き交い、店先から焼きたてのパンの香りが漂ってくる。ノア様の話していた菓子店も、きっとこの近くにあるのだろう。
裁判所は、王宮に比べればずいぶん質素な建物だった。石造りの壁には長い年月を感じさせる傷があり、入り口では年配の男性が何かの書類を握りしめて順番を待っている。中に入ると、机を並べた職員たちが忙しそうに働いていた。
「ここには、毎日たくさんの人が来るのですね」
「土地のこと、お金のこと、家族のこと。大きな事件だけではありません。人が暮らしていれば、困りごとも生まれますから」
ノア様が答えた。その言葉を聞きながら廊下を進むと、奥の部屋から女性の声がした。
「ノア殿下。今日は時間どおりですね」
「マルタさん。そんなに意外そうな顔をしないでください」
「以前、約束の時間を間違えて一時間遅れた方とは思えないもので」
「それはもう何年も前の話でしょう」
思わず笑いそうになるのをこらえた。机の向こうに立っていたのは、五十歳くらいの女性だった。暗い髪には白いものが混じり、服装は飾り気がない。けれど、こちらを見る目には、少しも隙がなかった。
「あなたがエマ・ローラン嬢ですね。裁判官のマルタです。遠いところを、よく来てくださいました」
「初めまして、マルタ様。お会いできて光栄です」
「ここではマルタで結構。今日はお客様としてではなく、仕事をする方としてお話ししたいので」
私はうなずいて椅子に座った。机の上には書類が何冊も積まれている。マルタさんはそのうちの一冊を開き、私の前に置いた。
「まず、はっきりさせておきましょう。あなたは裁判官ではありません」
「はい」
「ノア殿下のお知り合いだからといって、誰かを捕まえたり、罪を決めたりできるわけでもありません。それでよろしいですね?」
「もちろんです。むしろ、そこを最初に確認したいと思っておりました」
そう答えると、マルタさんは少しだけ表情をやわらげた。
「それなら話が早いですね。お願いしたいのは、特別調査官補佐という仕事です。名前は大げさですが、やることは難しくありません。事件について話を聞き、記録を調べ、わかったことを報告する。それが基本です」
「調査官の方を、お手伝いするのですね」
「ええ。ただし、話したくないという人に無理に答えさせたり、勝手に家へ入って物を調べたりしてはいけません。調べる必要があれば、担当の職員を通して許可を取ってください」
私は説明を聞きながら、渡された紙に目を通した。そこには、見てよい記録の種類や、聞き取った話の残し方も書かれていた。
「私が何かを見つけても、それだけで犯人が決まるわけではないのですね」
「そのとおりです。調べる側が思い込んでしまえば、都合のいい話だけ集めてしまうことがあります。だから、別の人が確かめられるように記録を残すのです」
「……よくわかります」
前の国での裁判を思い出した。レオン殿下は私が悪いと決めつけ、その考えに合う証拠ばかりを集めていた。もし私まで同じことをすれば、今度は私が誰かを苦しめるかもしれない。
「もう一つ、覚えておいてください。あなたが集めた証拠を使って裁判を行うのは、別の裁判官です。私は今回、調査の手続きを教える役ですが、ユイという少女の判決には関わりません」
「公平に裁くため、でしょうか」
「ええ。調べる人と裁く人が同じ考えに固まらないようにするためです。人は誰でも間違えますからね。私も、もちろんあなたも」
「はい。気をつけます」
マルタさんは満足そうにうなずき、今度はノア様に顔を向けた。
「殿下にも申し上げておきます。この方が集めた証拠を、王族の命令で有利に扱うことはできませんよ」
「わかっています。私がお願いしたのは、エマ嬢に真実を調べてほしいからです」
「それなら結構です。殿下は時々、人を助けたい気持ちが先に走りますから」
「……その点は、気をつけます」
ノア様が素直に頭を下げるので、私はまた笑いそうになった。厳しい方だと聞いていたけれど、マルタさんは誰に対しても同じように話す人らしい。
説明が一段落すると、マルタさんは別の薄い書類を差し出した。
「では、最初の仕事について話しましょう。村の診療所で起きた、毒の事件です」
そこには、ユイさんという十五歳の少女の名前が書かれていた。診療所で出された薬を飲んだ人たちが体調を崩し、少女が毒を入れたと疑われている。本人も罪を認めたと記されていた。
「ノア様から、村の人たちが彼女をかばっているとうかがいました」
「ええ。嘆願の手紙が何通も届いています。中には、具合が悪くなった本人が書いたものもあるそうです」
「……被害を受けた人まで、ですか」
「そうです。ただ、それだけで彼女が無実だとは言えません。村の中で何が起きたのか、私たちにもまだよくわからないのです」
私は書類を読み進め、あるところで手を止めた。少女の自白として、短い文章が書かれている。
『私がやりました』
けれど、ノア様から先に見せていただいた報告書には、別の言葉が載っていたはずだ。
『私がやったことにしてください。そうすれば、もう誰も困らないでしょう?』
「マルタさん。二つの報告書で、少女の言葉が違います」
私が指さすと、マルタさんは書類をのぞき込んだ。
「確かに。こちらは取り調べの内容を短くまとめた記録です。殿下がお持ちだったものは、立ち会った職員の報告でしょう」
「どちらが正しいのか、確かめられますか?」
「最初に書き取った記録が残っているはずです。取り寄せましょう。ただし、言葉が違うからといって、すぐに嘘だと決めないように」
「はい。本人が何を言ったのか、まず確認したいだけです」
似たような言葉でも、意味は少し違う。「やりました」と「やったことにしてください」では、後者には誰かをかばおうとする気持ちがあるようにも聞こえる。もちろん、本人に聞かないうちから理由を決めるつもりはなかった。
「ユイさんとは、いつお会いできるのでしょうか」
「明日、村へ向かう手配をしています。今は村の役所で身柄を預かっていますが、食事や休息は取れるようにしてあります。あなたが話を聞くときは、正式な許可を受けた職員も同席します」
「ありがとうございます。それから、村の人たちにも話を聞かせていただきたいです。できれば、診療所で働いていた方にも」
「いいでしょう。もっとも、皆がすぐに話してくれるとは限りませんよ」
「それは、そうだと思います」
私はうなずいた。人は、怖いときや誰かを守りたいとき、知っていることを全部話せるとは限らない。リリーがそうだったように、答えにくい理由があるのかもしれない。
その後も、私は必要な手続きについて教わった。話を聞いた日時と相手の名前を記録すること。書類を持ち出すときは、どれを誰が預かったのかわかるようにすること。わからないことを、わかったふりで報告しないこと。どれも当たり前に思えるけれど、当たり前だからこそ忘れないようにしたかった。
最後に、マルタさんが一枚の任命書を机に置いた。
「当面は今回の事件に限ったお仕事です。調査が終わったら、今後について改めて相談しましょう。無理に引き受け続ける必要はありません」
私は紙を手に取った。そこに書かれているのは、王太子の婚約者でも、公爵家の娘でもない、私自身の名前だった。
「……エマ・ローラン。特別調査官補佐」
小さく読み上げると、何だかくすぐったい気持ちになった。
「どうです。やってみますか?」
マルタさんに聞かれ、私はまっすぐ顔を上げた。
「はい。私にできることを、一つずつやってみたいです」
任命書に署名すると、マルタさんは私の手元を確かめてから、その紙を大切そうにしまった。
「では、よろしくお願いします。エマさん」
初めて名前だけで呼ばれたことが、少しうれしかった。
裁判所を出た頃には、もう昼を過ぎていた。朝は緊張していたのに、今は早く村へ行きたい気持ちと、本当に役に立てるだろうかという不安が半分ずつある。
「お疲れさまでした。マルタさん、怖かったでしょう?」
隣を歩くノア様が尋ねた。
「少しだけ。でも、いい方ですね。きちんとわからないことを教えてくださいますし、殿下にも遠慮なく注意なさるので」
「そこは私としては、あまりありがたくありませんが」
「ふふ。きっと大切に思っていらっしゃるからですよ」
ノア様は困ったように笑い、それから通りの向こうを指さした。
「それでは、昼食にしましょうか。お仕事を始める前には、食べておいた方がいいのでしょう?」
「ノア様、まだ覚えていらっしゃるんですね」
「もちろんです。実はこの近くに、おいしい焼き菓子の店がありまして」
「……そちらが本当の目的ではありませんか?」
「半分くらいは」
正直なお返事に、私は笑ってしまった。
明日には、ユイさんに会う。彼女が何をしたのか、誰を守ろうとしているのか、まだ何もわからない。それでも、今日教わったことだけは忘れずにいようと思う。
私は裁判官ではない。誰かの罪を決めることも、許すこともできない。
けれど、本人の言葉を聞き、見落とされたことを確かめることならできる。誰かが一方的に悪いと決めつけられる前に、立ち止まって考えることも。
それが、私の新しい仕事だった。




