第5話 王弟殿下と馬車の旅
ノア様から旅の日程を知らせる返事が届いたのは、私が招待を受けると伝えてから二日後のことだった。セレス王国の王都までは馬車で四日ほど。道中は王家の護衛が付き、宿泊先もすでに手配されているという。
父はその手紙を端から端まで読み、さらにもう一度読み直した。ようやく安心したかと思えば、今度は私の荷物を心配し始めた。
「寒くなったときの上着は入れたか。薬も持っていきなさい。向こうの食事が合わないかもしれないから、日持ちする菓子も用意した方がいい」
「お父様、そんなに詰めたら、私の服を入れる場所がなくなってしまいます」
「服なら向こうでも買えるだろう」
「それでは、何のための荷造りかわかりませんよ」
私が笑うと、父も困ったように笑った。結局、上着と薬とお菓子を少しずつ入れることで話がまとまった。父が心配してくれるのはうれしい。けれど、私はもう二十歳だし、これからは自分のことを自分で決めていかなければならない。
出発の朝は、よく晴れていた。屋敷の前にはノア様の馬車が止まり、その後ろには荷物を運ぶ馬車が続いている。護衛の人たちが出発の準備を進める間、私は父と最後の挨拶をした。
「着いたら手紙を書くんだぞ。何か困ったことがあれば、遠慮せず知らせなさい」
「はい。お父様も、あまり無理をなさらないでくださいね」
「娘にそんなことを言われるようになったか」
父は少し寂しそうに笑い、それから私の肩に手を置いた。
「エマ。お前はもう、誰かの期待に合わせて生きる必要はない。向こうでも嫌なことは嫌だと言いなさい。相手が王弟殿下でも、それは同じだ」
「……はい。ありがとうございます」
そう答えると、父は満足したようにうなずいた。つい先日まで婚約者だったレオン殿下のことを、父が口にすることはなかった。きっと私が思う以上に腹を立てていたのだろう。それでも最後まで私の気持ちを優先してくれたことが、ありがたかった。
馬車の扉を開けてくれたノア様は、いつもの穏やかな顔で私を迎えた。
「おはようございます、エマ嬢。朝食は食べてきましたか?」
「はい。今日はちゃんといただきました」
「それはよかった。先日の裁判のように、お腹を空かせたままでは大変ですからね」
「……あのお話、覚えていらしたんですか」
「もちろん。大事な仕事の前には食事を取るべきだと、教えていただきましたから」
真面目な顔でそう言われ、私は思わず笑ってしまった。ノア様は王弟という立場の方なのに、こういうときは少しも気取ったところがない。
見送りに来てくれた父にもう一度手を振ると、馬車がゆっくり動き出した。見慣れた屋敷が遠ざかり、王都の通りを抜ける。いつも通っていた店も、学園へ続く道も、今日は違って見えた。
もう、あの学園へ王太子の婚約者として通うことはない。そう思うと胸が少し痛んだけれど、不思議と戻りたい気持ちはなかった。
「少し、寂しいですか?」
向かいに座るノア様が尋ねた。
「……少しだけ。長く暮らしてきた国ですから。でも、自分で行くと決めたので、後悔はしていません」
「それを聞いて安心しました。私の頼みで無理をさせているのではないかと、少し気になっていたんです」
「無理をしていたら、父が馬車の前に立って止めていたと思います」
「ああ、それはありそうですね。今朝も、私が何か失礼をしたらすぐに手紙を送るようにと、念を押されました」
「お父様ったら……」
顔が熱くなった。ノア様は楽しそうに笑っていたので、ひとまず気を悪くしてはいないらしい。
王都を離れると、窓の外には畑と小さな森が広がった。道はよく整えられていたけれど、時折石に乗り上げて馬車が揺れる。最初のうちは外の景色ばかり見ていた私も、昼を過ぎる頃には持ってきた書類を開いていた。
「さっそくお仕事ですか?」
「まだ仕事ではありませんよ。ユイさんの事件で、気になったところを書き出しているだけです」
私は膝の上の紙を見せた。薬はどこから届いたのか、具合が悪くなった人はいつ薬を飲んだのか、ユイさんは診療所でどんな仕事をしていたのか。今の報告書には、まだ答えのないことが多かった。
「そこまで読んでいただけるとは思いませんでした」
「誰かを疑うにしても、疑いを晴らすにしても、まず何が起きたのかを知らなくては始まりませんから。もっとも、書類を読んでいるだけではわからないこともあります」
「村の人に直接聞く、ということですね」
「はい。でも、いきなり質問ばかりしても、話してもらえるかわかりません。皆さん、何かを怖がっているのかもしれませんし」
ノア様はうなずいたあと、少し考える顔になった。
「実は、私は最初、村人たちがユイさんをかばっていると聞いて、少女は無実なのだろうと思いました。けれど、あなたはそう決めつけませんでしたね」
「村の人たちが守りたいと思っているのは本当でしょう。でも、それだけでユイさんが何もしていないとは言えません。私が聞きたいのは、どうしてそこまでして守ろうとするのか、ということなんです」
「なるほど。では私も、先に答えを決めないように気をつけます」
王族の方に教えるつもりなどなかったので、少し慌てた。
「そんな、私も間違えることはありますよ。今回のことだって、現地へ行けば考えが変わるかもしれません」
「そのときは、私にも教えてください。一緒に考えたいので」
私は書類から顔を上げた。ノア様は、何でも知っている人に答えを求めるような顔をしていなかった。わからないことを、わからないまま話せる相手なのだと思うと、少し肩の力が抜けた。
その日の午後、馬車は予定より長く道の途中で止まることになった。前を進んでいた荷馬車が、道の端のぬかるみにはまっていたのだ。荷台には野菜が積まれ、困り果てた様子の男性と小さな男の子が、車輪のそばに立っている。
「どうしたんですか?」
私が窓からのぞくと、護衛の一人が事情を教えてくれた。車輪そのものは壊れていないが、荷物が重く、二人では動かせないらしい。
「少し手を貸してきます。エマ嬢は中で待っていてください」
ノア様はそう言って馬車を降りた。護衛の人たちと一緒に荷物をいくつか下ろし、車輪の後ろに板を差し込んでから、皆で荷馬車を押す。私も外へ出て、男の子と並んで道の脇に下ろされた野菜を見守った。
「お姉ちゃん、あの人、偉い人?」
男の子がノア様を指さして尋ねた。
「ええ、そうよ。でも、今は荷馬車を押す人ね」
「ふうん。偉い人も押すんだ」
「そうみたいね」
しばらくして荷馬車が道へ戻ると、男性は何度も頭を下げた。ノア様の上着の裾には泥がついていたけれど、本人は気にしていない様子だった。
「助かりました。本当にありがとうございます」
「お気をつけて。荷物を戻すのも手伝いますよ」
そう言うノア様の横で、男の子が私に小声で聞いた。
「偉い人って、みんなああなの?」
「……どうかしら。少なくとも、あの人はそうみたい」
男の子は納得したようにうなずいた。私も、少しだけうれしくなった。
再び馬車に乗ると、ノア様が自分の袖を見てため息をついた。
「あとで洗わないといけませんね。いつも世話をしてくれる者に怒られそうです」
「お父様が見たら、きっと驚きます。王弟殿下が泥だらけになっていらっしゃるなんて」
「では、内緒にしていただけますか?」
「どうしましょう。帰ったら手紙に書きたいことが、もう一つ増えてしまいました」
「困りましたね」
困ったと言いながら、ノア様は笑っていた。私もつられて笑った。今朝までどこか緊張していたのに、こうして話していると、相手の身分を気にせずにいられる時間が少しずつ増えていく。
翌日の夕方、私たちは国境を越えた。手続きには少し時間がかかったが、事前に用意された書類のおかげで問題なく通ることができた。国境の向こうにも畑や森が続いていて、景色が急に変わるわけではない。それでも、道に立つ案内板の文字や、宿の人たちの話し方が少し違っていた。
夜、宿で出された温かいスープを飲みながら、私は思わず息をついた。見知らぬ土地に来たことを、ようやく実感したのだ。
「お口に合いませんか?」
「いいえ、とてもおいしいです。ただ、いつもの家の味とは違うので、少し不思議な気持ちになりました」
「私も初めてリアン王国へ行ったときは、同じことを思いました。隣の国なのに、パンの焼き方一つでも違いますから」
「それなら、明日の朝食も楽しみです」
「エマ嬢は、思っていたより食べることがお好きなんですね」
「食事は大切だとおっしゃったのは、ノア様ですよ」
「そうでした。これは一本取られましたね」
そんな話をしてから部屋へ戻ると、少しだけ疲れが出た。長い馬車の旅も初めてではなかったけれど、知らない国で眠る夜はやはり落ち着かない。
寝る前に、父から持たされた小さなお菓子の包みを開いた。こんなにたくさん要らないと思っていたのに、一つ食べると、家の食卓を思い出してほっとした。今度手紙を書くときは、お菓子を入れてくれてありがとう、と伝えよう。
残りの旅では、ノア様からセレス王国の話を聞いた。王都には古い市場があり、朝になると焼きたてのパンの香りが通りいっぱいに広がるそうだ。裁判所の近くには小さな菓子店もあるらしく、ノア様はそこで売られている焼き菓子が好きだという。
「お仕事の話より、お菓子のお話の方が長くなっていませんか?」
そう尋ねると、ノア様は少しだけ目をそらした。
「長い道中ですから、楽しい話も必要でしょう?」
「ええ。それには賛成です」
私たちは笑い合った。事件のことを忘れたわけではない。それでも、裁判の書類ばかり見つめていた数日間とは違い、何でもない会話を楽しむ余裕が戻ってきたことがうれしかった。
四日目の午後、遠くにセレス王国の王都が見え始めた。高い城壁の向こうにはたくさんの屋根が並び、丘の上には王宮が見える。
「ようこそ、セレスへ」
ノア様が窓の外を示した。
「まずは王宮の客室で休んでいただきます。明日、裁判所の方にも会っていただく予定です。エマ嬢にどこまで調査をお願いできるのか、きちんと相談しましょう」
「わかりました。私にできることと、できないことを最初にはっきりさせておきたいです」
「私も同じ考えです。あなたに無理な責任を負わせるつもりはありません」
私はうなずいて、もう一度窓の外を見た。知らない通り、知らない人たち、これから出会う少女。何が待っているのか、まだわからない。
それでも、旅に出てよかったと思えた。少なくとも今は、自分で選んだ道の先を見てみたい。
「ノア様」
「はい?」
「お誘いいただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、来ていただけてうれしいです。これからよろしくお願いします、エマ嬢」
馬車は城門をくぐり、にぎやかな通りへと進んでいった。
明日から何を任されるのかは、まだ決まっていない。けれど、私はもう、誰かの婚約者としてではなく、エマ・ローランとしてここにいる。
そのことが、今は何よりもうれしかった。




