第4話 隣国からの招待状
「突然お声がけしてしまい、申し訳ありません。少しだけ、お時間をいただけますか」
青年はそう言って、もう一度丁寧に頭を下げた。明るい茶色の髪に青い目をした、私より少し年上に見える人だった。
「お話の前に、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」
「もちろんです。私はノアと申します。セレス王国の国王の弟です」
あまりに自然な口調だったので、一瞬聞き流しそうになった。
「……国王陛下の、弟君ですか?」
「はい。こちらには王家の使者として来ています。身分を隠しているつもりはないのですが、いきなり名乗ると皆さん驚かれるので、つい後回しになってしまって」
十分驚いています、とは言えなかった。私と父が礼をすると、ノア様は少し困ったように笑った。
「どうか顔を上げてください。今日は王族として命令をしに来たわけではありません。エマ嬢に、個人的に相談したいことがあるのです」
「娘に、ですか?」
父が聞き返した。その声には、さっきまでなかった警戒が混じっている。昨日は王太子に罪人だと決めつけられ、今日はやっと婚約が解消されたところだ。もう一人の王族に近づかれれば、父が心配するのも無理はない。
「ここでは落ち着いて話せませんね。よろしければ、控えの部屋をご用意します。もちろん、ローラン公爵にも同席していただきたい」
ノア様は父の顔を見て、そう付け足した。
父は私に目を向ける。どうするかは、自分で決めていいということだろう。
「お父様。お話だけでも聞いてみたいです」
「……そうか。なら、私も一緒に行こう」
私たちは案内された小さな客間へ向かった。午後の日差しが差し込む部屋で、温かい紅茶が用意された。椅子に座ると、急に疲れを感じた。
「今日の裁判は、最初から拝見していました」
向かいに座ったノア様が話し始めた。
「エマ嬢は、ずいぶん落ち着いていらっしゃいましたね。証拠を一つずつ確かめて、相手の話も最後まで聞いていた」
「落ち着いて見えたのなら、よかったです。実際は、かなり緊張しておりました」
「そうだったのですか?」
「はい。書類を渡す順番を間違えそうになりましたし、朝からろくに食べていなかったので、お腹も鳴りそうでした」
父が小さく笑った。ノア様も目を丸くしたあと、肩の力を抜いたように笑う。
「それは気づきませんでした。次に大事な話をする前には、食事を取るべきですね」
「私もそう思います」
思っていたより親しみやすい方だった。こちらの言葉をきちんと聞いてくださるので、少し安心した。
「ただ、私が一番感心したのは、証拠の出し方ではありません」
ノア様は紅茶のカップを置いた。
「侍女のリリーさんに、弟さんのことを尋ねていましたね。彼女が嘘をついたとわかっても、責め立てなかった。どうしてですか?」
「……弟さんを助けたくて、怖い思いをしていたからです」
「けれど、嘘の証言であなたを罪人にしようとしたことも事実でしょう」
「ええ。それは、なかったことにはできません。リリーにも、自分がしたことと向き合ってもらわなくてはいけません」
私は一度、言葉を選んだ。
「でも、嘘をついた理由を聞く前に、悪い人だと決めてしまいたくなかったんです。私も昨日、それをされて、とても嫌な思いをしましたから」
ノア様はすぐには答えなかった。窓の外へ目を向け、それから静かにうなずいた。
「なるほど。やはり、あなたにお願いしたい」
「私にできることでしょうか?」
「まずは、こちらを読んでください」
ノア様が差し出したのは、薄い封筒だった。中には数枚の紙が入っている。最初の一枚には、セレス王国の北にある小さな村の名前と、事件のあらましが書かれていた。
村の診療所で使われていた薬に、毒が混ぜられたという。何人もの村人が体調を崩し、診療所で手伝いをしていた十五歳の少女が捕まった。少女の名前はユイ。彼女は、取り調べに対して自分がやったと認めているらしい。
「毒を入れたことを、本人が認めているのですか?」
「報告書には、そう書かれています。診療所から問題の薬も見つかっています。ただ、それがいつ、誰の手で用意されたものなのかは、まだ十分に調べられていません」
「それなら、少女が犯人だとは決められませんね」
「そうです。裁判はまだ先ですが、村ではすでに犯人だと考える人もいます」
私は次の紙をめくった。そこには、村人たちの名前がずらりと並んでいた。字が上手な人もいれば、やっと書いたような名前もある。最後には、同じ願いが記されていた。
『どうか、ユイを助けてください』
「……これは?」
「村人たちが出した手紙です。薬を使って具合が悪くなった人や、その家族も署名しています」
私はもう一度、名前を見た。
「被害に遭った方まで、ユイさんを助けたいと?」
「ええ。しかも、誰も詳しい理由を話そうとしない。何かを恐れているのか、それとも少女に特別な事情があるのか。今のところ、わかっていません」
少し考えてから、私はノア様に尋ねた。
「現地の役人の方は、調べていらっしゃるのでしょうか」
「もちろんです。ただ、診療所は村で唯一の医者がいる場所で、村の役人とも長い付き合いがあります。調べる側も、村人からなかなか話を聞けないようです。だから、村にしがらみのない人にも話を聞いてもらいたい」
「それで、私に?」
「今日の裁判を見て、そう考えました。あなたなら、少女の話も村人の話も、最初から決めつけずに聞いてくれると思ったのです」
私は封筒を閉じた。十五歳といえば、まだ学園で勉強している年頃だ。大勢の大人に責められながら、自分が毒を入れたと話すのは、どれほど怖いことだろう。
けれど、自白をしたからといって、すべてが真実とは限らない。誰かを守るために嘘をつく人もいるし、本当に罪を犯した可能性だってある。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でもどうぞ」
「もし私が伺って、ユイさんが本当に毒を入れていたとわかったら、どうなさいますか?」
ノア様は少しもためらわなかった。
「その事実を、裁判に伝えます。反対に、無実だとわかれば、その証拠を提出します。私が望んでいるのは、少女を必ず助けることではなく、正しく調べてもらうことです」
「……それを聞いて、安心しました」
私が微笑むと、ノア様もほっとしたような顔になった。
「ただし、私は裁判官でも、調査の専門家でもありません。お役に立てるかどうか……」
「だからこそ、まずは私の客人として来ていただきたいのです。現地の調査官や裁判官にも協力をお願いします。正式に何を任せるかは、あなたの希望を聞いてから決めます」
自分で考える時間をもらえるのは、ありがたかった。
けれど、父はすぐにはうなずかなかった。
「ノア殿下。娘は昨日まで王太子の婚約者でした。今日はその婚約が解消されたばかりです。外国へ向かうとなれば、家族として心配もあります」
「もっともなことです。今日中にお返事をいただこうとは思っていません。移動中の安全や滞在先は、こちらで責任を持って用意します。公爵にも内容を確認していただいたうえで、お決めください」
ノア様は正式な招待状を机に置いた。同行者や滞在先、費用はセレス王国側が負担することも書かれていた。
私はその書類を受け取り、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
昨日まで、私の将来は決まっていた。王太子妃になるために学び、殿下の隣に立つ。嫌だったわけではないし、一生懸命やってきたつもりだ。
でも、その道は今日なくなった。
何も決まっていないのは怖い。でも、知らない場所へ行けると思うと、少し楽しみでもあった。
「少し、家族と相談するお時間をいただけますか?」
「もちろんです。お返事は数日後で構いません」
ノア様は立ち上がり、最後に一つだけ尋ねた。
「エマ嬢。もし村人たちが、少女について何も話してくれなかったら、どうしますか?」
「そうですね……。まずは、一緒にお茶でも飲んでみると思います」
「お茶、ですか?」
「はい。私も今日、法廷ではずいぶん緊張していましたから。怖い顔で質問されるより、温かいお茶を飲んでいる方が話しやすいこともありますよね」
ノア様は声を上げて笑った。
「それはいい。村へ行くときは、上等な茶葉も持っていきましょう」
「そんなに高価なものでなくても大丈夫です。私も好きなお菓子を用意しますから」
久しぶりに、仕事とは関係のないことで笑えた気がした。
ノア様を見送ったあと、父と私は屋敷へ戻った。馬車が動き出してしばらくすると、父が窓の外を見ながら口を開いた。
「エマ。あの話を受けたいと思っているのか」
「……はい。でも、お父様にはご心配をおかけしますよね」
「心配はするさ。たとえお前が隣町へ買い物に行くと言っても、少しは心配するだろう」
「それでは、いつまでたっても家から出られませんね」
「まったくだな」
私もつられて笑った。
「お前がずっと努力してきたことは、知っている。王太子妃になれなかったからといって、その努力まで消えるわけじゃない。自分でやってみたいと思ったことがあるなら、よく考えて決めなさい」
「……ありがとうございます、お父様」
「ただし、旅の護衛と滞在先については、私からも確認する。それくらいは許してくれ」
「もちろんです」
屋敷では、リリーの弟を診てくれる医者が見つかったと報告があった。まずは診てもらえると聞いて、ほっとした。
夕食のあと、私は自分の部屋でもう一度、ノア様から受け取った書類を読んだ。
そこに書かれていたのは、知らない国の、知らない少女の話だった。彼女が何をしたのかも、村人がなぜ守ろうとしているのかも、まだ何もわからない。
けれど、一つだけ気になることがある。
報告書の最後には、取り調べの際に少女が口にしたという言葉が記されていた。
『私がやったことにしてください。そうすれば、もう誰も困らないでしょう?』
私はその一文を、何度も読み返した。
罪を認める言葉としては、少し奇妙な気がした。けれど、この一文だけで何かを決めつけることもできない。だからこそ、本人に会って話を聞いてみたい。
翌朝、私はノア様へ返事を書いた。父とも相談し、滞在中の身の安全や、私が調査にどこまで関わるのかを確認したうえで、招待をお受けしたいと伝える手紙だ。
封をする前に、窓の外を見た。庭には朝の光が差していた。
こんなに早く人生が変わるとは、思ってもいなかった。
「……まずは、会ってみなくちゃね」
ユイという少女が、どんな顔でその言葉を口にしたのか。何を守ろうとしているのか。
確かめるために、私は初めて自分の意志で国境を越えようとしていた。




