第3話 金貨三百枚の行方
裁判官は私から封筒を受け取ると、中の書類を一枚ずつ机に並べた。レオン殿下は落ち着かない様子で、その手元を見つめていた。
「エマ嬢。こちらは王立銀行の送金記録ですね」
「はい。孤児院への寄付金が、いつ、どこへ送られたのかを確認したものです」
「お前が盗んだ金の記録を、自分から持ってくるとはな」
私は言い返さず、裁判官が書類を読み終えるのを待った。
「金貨三百枚。送金先は……オルド商会、王都宝石店?」
裁判官の声に、会場がざわついた。
オルド商会は、王都で高価な宝石を扱う店だ。孤児院の冬支度とは関係がない。
「何かの間違いだ!」
レオン殿下が叫んだ。
「孤児院への寄付金が、どうして宝石店へ送られる! その記録こそ偽物ではないのか!」
「殿下のおっしゃるとおり、書類が本物かどうかは大切です。ですから、銀行の方にも来ていただきました」
入ってきたのは、王立銀行で送金記録を管理している役人だった。昨日の夜、父を通じて王宮に確認をお願いしていた相手だ。
「この記録は、当行に保管されている原本と一致しております。今朝、国王陛下の許可を受けて確認いたしました」
役人は銀行の印が押された控えを渡した。
「それでは、この金は本当に宝石店へ送られたのですね」
「はい。送り先の変更も、記録に残っております」
裁判官が次の紙を手に取る。
「変更を認めたのは……レオン王太子殿下」
ざわめきが広がった。
「なっ……!」
殿下の顔から血の気が引いた。
「殿下は、王立孤児院への援助を任されていらっしゃいましたね。私はそのお手伝いとして、寄付金を送るための申請書を書きました。昨日お見せになったのは、その書類です」
「けれど、実際に送る相手を変えたのは、私ではありません。殿下の承認で、孤児院から宝石店へ変更されていたのです」
「ま、待て。私がそんなことを命じたという証拠はあるのか!」
「変更の書類には、殿下の署名と王太子の印があります。銀行の方にも確かめていただきました」
「そんなものは誰かが勝手に……!」
「では、殿下はこの変更をなさっていないのですね?」
殿下は何かを言おうとして、口を閉じた。
「裁判官様。もう一人、お話を聞いていただけますか」
今度は宝石店の店主オルドが入ってきた。
「先月、レオン殿下から宝石の首飾りをご注文いただきました。代金は金貨三百枚で、王立銀行から振り込まれております」
「首飾り……?」
裁判官が聞き返す。
「はい。大きな青い宝石を使った品でございます。お届け先は王宮で、受け取りの記録も残っております」
私はそっとミア様に目を向けた。
彼女の首元には、昨日の祝賀会でも身につけていた青い宝石の首飾りがあった。
「ミア様。その首飾りは、殿下から贈られたものですか?」
「え……ええ。そうだけれど……」
「店主の方に確かめていただいてもよろしいでしょうか」
ミア様は殿下を見上げたが、返事はなかった。震える手で首飾りを外し、係の人に渡す。
オルドは宝石の裏側を確認し、持参した控えと見比べた。
「間違いございません。当店でお売りした品です。裏に刻んだ番号も、記録と一致しております」
「そんな……」
ミア様は青ざめ、椅子の背に手をついた。
「私、このお金が孤児院のものだなんて、知りませんでした……!」
「その点について、あなたが知っていたという証拠はまだありません」
私がそう伝えると、ミア様は驚いたように顔を上げた。
「ただ、階段の件でお話しになったことまで、なかったことにはできません。それぞれ、きちんと確かめていただきましょう」
腹が立たないわけではない。けれど、確かめずに責めてしまったら、昨日の殿下と同じだ。
裁判官は書類を重ね、レオン殿下を見た。
「殿下。送金先を変更したことはお認めになりますか」
「……私が、命じた」
その声は驚くほど小さかった。
「だが、横領するつもりではなかった! あとで自分の金を入れて、戻すつもりだったんだ!」
殿下は一気に言葉を続けた。
「ミアがあの首飾りを気に入っていて……ちょうど手元にまとまった金がなかっただけだ。少し借りただけで、子供たちから奪おうとしたわけではない!」
「殿下」
私はゆっくり口を開いた。
「そのお金を借りることは、誰かに相談なさったのですか?」
「……いや」
「孤児院の院長先生には?」
「していない」
「いつ返すかは、お決めになっていたのですか?」
殿下は答えなかった。
私は膝の上で手を握った。
「殿下。孤児院では、冬になると暖炉の火を絶やさないようにしています。建物が古くて、夜はとても冷えるからです。あのお金が届けば、壊れた暖炉を直して、新しい毛布も買えるはずでした」
「……」
「殿下にとっては、あとで返せば済むお金だったのかもしれません。でも、子供たちはその『あとで』を、ずっと待っていたのです」
広間は静まり返った。
「私は、殿下がどなたを好きになろうと、それを罪だとは思いません。ですが、子供たちのためのお金を勝手に使い、さらに私が盗んだとおっしゃったことは、別のお話です」
「エマ……」
「私は、その責任を殿下の代わりに引き受けることはできません」
言い終えると、肩の力が少し抜けた。十年間、楽しかったことも、優しくしていただいたこともあった。それでも、今の殿下のしたことを見過ごすわけにはいかない。
「……もうよい」
それまで黙っていた国王陛下が、低い声でおっしゃった。
陛下は立ち上がり、レオン殿下を見た。怒鳴り声ではなかったけれど、その言葉は広間の隅までよく聞こえた。
「お前には、王太子として孤児院の援助を任せていた。国の金を預かる者が、その金を私的な買い物に使い、発覚すれば他人の罪にする。どうしてそんなことができた」
「父上、私は……!」
「言い訳は、もう聞いた」
陛下は裁判官へ向き直った。
「寄付金の件は、必要な調査を続け、法に従って裁いてほしい。私の息子だからという理由で、軽く扱うことは許さない」
「承知いたしました」
「また、レオンの王太子としての地位は、本日をもって解く。今後の王位継承については、改めて決める」
「そんな……父上!」
殿下の声が広間に響いた。
昨日まで、私が一生支えるはずだった人。もう、私にできることはない。
陛下は次に、私へ目を向けた。
「エマ嬢。お前にも、つらい思いをさせたな」
「いいえ、陛下。裁判を開いていただき、ありがとうございました」
「婚約については、改めて両家の考えを聞こう」
「でしたら、一つだけお願いがございます」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「レオン殿下との婚約は、正式に解消していただきたく存じます」
「エマ!」
殿下が顔を上げる。
「待ってくれ。婚約破棄は取り消す! 私が悪かった。もう一度、やり直そう。お前なら、私を支えてくれるだろう?」
十年間、殿下の隣にいる未来を当たり前だと思ってきた。そこから離れるには勇気がいる。それでも、答えは決まっていた。
「申し訳ありません。私は、殿下のそばには戻れません」
「どうしてだ!」
「私が何を言っても、殿下は最後まで聞いてくださいませんでした。もう一度やり直すには、失った信頼が大きすぎます」
殿下は口を開きかけ、何も言わずにうつむいた。
隣にいた父が立ち上がる。
「ローラン家も、婚約解消を望みます。娘が罪人に仕立てられようとした以上、以前のようなお約束を続けることはできません」
国王陛下は重くうなずいた。
「わかった。両家の婚約は、この場で解消する。王家からローラン家へは、正式に謝罪する」
私は深く礼をした。胸にかかっていた重いものが、ようやく下りた気がした。
その後、裁判官から、二つの告発について説明があった。階段の件では、私がミア様を突き落としたと認められる証拠はない。寄付金についても、私が金を受け取った事実はなく、横領したという告発は認められないという。
ミア様による嘘の証言と、レオン殿下による寄付金の流用については、引き続き調査が行われることになった。リリーが弟の治療費を理由に脅されていた件も、別に調べられるそうだ。
「孤児院に必要な金貨三百枚は、王家が責任を持って、すぐに届けよう」
最後に陛下がそう約束してくださったとき、私は思わず顔を上げた。
「……ありがとうございます」
今度のお礼は、心からのものだった。
子供たちは、もうお金の行方を心配しなくていい。暖炉が直れば、あの小さな食堂も、少しは暖かくなるだろう。
裁判が終わり、広間の扉が開かれた。人々が席を立つ中、私は父と並んで廊下へ出た。
「よく頑張ったな、エマ」
「お父様にも、ずいぶんご心配をおかけしました」
「親というのは、子供のことを心配するのが仕事みたいなものだ。気にしなくていい」
父はそう言って、少し笑った。
「これからどうするつもりだ?」
「まだ、わかりません。でも……できれば、もう少し自分で選んでみたいです」
「そうか。なら、好きなだけ考えるといい」
「それと、リリーの弟さんのことも、相談してよろしいですか?」
「ああ。まずは医者に診てもらおう。あの子にも、そう伝えてやりなさい」
父の返事にほっとした。
窓の外には青空が広がっていた。昨日は重く感じたドレスも、今日は不思議と気にならない。
王太子妃になる道がなくなったのは、やっぱり少し寂しい。けれど、何もかも失ったわけではない。
孤児院の仕事を手伝ってもいいし、行ったことのない町を訪ねてもいい。
そんなことを考えていると、廊下の先から声が聞こえた。
「失礼。エマ・ローラン嬢でいらっしゃいますか?」
顔を上げると、見知らぬ青年が立っていた。王宮の人とは少し違う衣装を身につけ、穏やかな表情でこちらを見ている。
「はい。私がエマですけれど……」
青年は丁寧に頭を下げた。
「今日の裁判を拝見していました。少し、お話をうかがってもよろしいでしょうか」
私は父と顔を見合わせた。
昨日までなら、王太子の婚約者としてどう振る舞うべきか、先に考えていただろう。でも、今は違う。
「ええ。どのようなお話でしょう?」
そう答えると、青年はほっとしたように笑った。
青年が何を話そうとしているのか、見当もつかなかった。ただ、ようやく自分で選べるようになったのだから、まずは聞いてみようと思った。




