第2話 階段から落ちた令嬢
翌朝、私は父と一緒に王宮へ向かった。
馬車の中で父は、昨夜から何度も読み返している書類を膝に置いていた。私が事情を話すとすぐに動いてくれたおかげで、必要な人たちにも連絡を取ることができた。急なお願いだったのに、今朝早くから王宮へ来てくださるという。
「エマ、本当に大丈夫か。無理をして平気な顔をする必要はないんだぞ」
「ありがとうございます、お父様。でも、私は自分のしたことと、していないことを、きちんと分けてお話ししたいのです」
「そうか。ならば、父さんはお前が話し終わるまで見守ろう」
父はそう言って、私の手を一度だけ握った。昔から口数の多い人ではないけれど、こういうとき、父の言葉は不思議と心を落ち着かせてくれる。
王宮の大広間には、すでに大勢の人が集まっていた。昨日の祝賀会にいた貴族だけではなく、王宮で働く役人や、裁判を見届けるために呼ばれた人たちの姿もある。正面には裁判官が座り、その少し奥に国王陛下がいらっしゃった。
レオン殿下は私を見つけると、勝ち誇ったように笑った。隣のミア様は、昨日と同じように右手首へ白い包帯を巻いている。
「エマ。今からでも罪を認めれば、父上に寛大な処分をお願いしてやってもいいんだぞ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、裁判をお願いしたのは私です。最後までお話しさせてくださいませ」
「強情な女だな。後悔するぞ」
殿下はそれ以上何も言わず、ミア様を連れて席についた。
間もなく、裁判官が立ち上がった。
「本日の審理は、エマ・ローラン嬢に対する二件の告発について行います。第一に、ミア嬢を階段から突き落としたという件。第二に、王立孤児院への寄付金を横領したという件です」
会場が静まり返る。
「告発する方には、事実をありのままに述べるという誓いを書面にしていただきます。故意に嘘の告発をした場合は、告発した側も裁かれます。おわかりですね」
「当然だ!」
レオン殿下は差し出された書面に、ためらいなく署名した。ミア様は一度だけ手を止めたものの、殿下に促されて自分の名前を書いた。
私はその様子を見ていた。昨日、あれほどはっきりと言い切ったのだから、今日も同じことを話してくれるだろう。
「それでは、最初の件から始めます。ミア嬢、何があったのか説明してください」
ミア様は小さくうなずき、立ち上がった。
「昨日の午後三時頃です。西階段を下りようとしたところ、後ろからエマ様に呼び止められました。それで振り返ったら、いきなり両手で押されて……。階段を踏み外して、手首をけがしたんです」
「間違いありませんか」
「はい。あのとき三時の鐘が鳴っていましたから、時間も覚えています」
裁判官は記録係に書き留めさせてから、私へ向き直った。
「エマ嬢。今の証言に対して何かありますか」
「はい。まず、昨日の午後三時に私がどこにいたのか、確かめていただきたいのです」
私は父に目を向けた。父が小さくうなずいたのを見て、用意しておいた記録帳を裁判官へ渡す。
「こちらは王立孤児院の訪問記録です。昨日、私は午後二時から四時まで孤児院におりました」
「ほう。確かに名前と時刻が書かれていますね」
「そんなもの、あとから書き足せるではないか!」
レオン殿下が立ち上がった。
「おっしゃるとおりです、殿下」
私は素直にうなずいた。
「記録帳だけで信じていただこうとは思っておりません。実際に私と会った方のお話も聞いてください」
扉が開き、白髪の女性が入ってきた。王立孤児院の院長先生だった。
「エマ様は昨日、午後二時より少し前にいらっしゃいました。冬支度のお金について相談し、子供たちとも一緒に過ごしてくださいました。お帰りになったのは四時を過ぎてからです」
「三時頃も一緒にいたのですか」
「はい。三時の鐘が鳴ったとき、ちょうど食堂でお茶を飲んでいました。小さな子がエマ様の膝に乗りたがって、なかなか離れなかったものですから、よく覚えています」
あの子のことを思い出し、私は少し笑いそうになった。お菓子を一つ多く食べたいと言いながら、私のドレスを離さなかったのだ。
「院長とエマが口裏を合わせているかもしれないだろう!」
殿下はまだ納得していなかった。それも、わからなくはない。私が院長先生と親しくしているのは事実だった。
「もう一人、証人がいらっしゃいます」
今度は王立孤児院へ食料を届けている商人が呼ばれた。昨日の午後三時を少し過ぎた頃、パンと小麦粉を運び込んだ人だ。
「納品書に受け取りの確認をいただいたとき、エマ様も食堂におられました。子供たちと話しておいででしたよ」
商人が差し出した納品書には、昨日の日付と時刻が残っていた。孤児院側が保管している控えとも内容が一致しているという。
「学園から孤児院までは、馬車でも一時間ほどかかります」
私は裁判官へ向き直った。
「昨日の午後三時、私が西階段にいることはできません」
しばらく沈黙が続いた。裁判官は記録帳と納品書を見比べ、院長先生にもいくつか質問をした。それから、ミア様の方を見た。
「ミア嬢。先ほど、三時の鐘を聞いたとはっきりおっしゃいましたね」
「そ、それは……私、けがをして混乱していたので……。時間を間違えたのかもしれません」
「でしたら、何時頃だったのでしょう」
「それは、よく覚えていなくて……」
ミア様はうつむいた。さっきまであんなに確かだと言っていたのに、声がすっかり小さくなっている。
私は責める代わりに、一つ質問した。
「ミア様。私が押したところを、ほかに誰か見ていたのですか?」
「見ていた人はいないわ。でも、エマ様のハンカチが落ちていたのよ!」
「ハンカチ、ですか」
「そうよ。リリーが拾ってくれたの。名前も縫ってあったわ!」
呼ばれて入ってきたのは、学園でミア様の世話をしていた侍女だった。まだ若い女の子で、顔を上げられないほど緊張している。
レオン殿下が声を張った。
「リリー。エマのハンカチを見つけたのはお前だな?」
「……はい」
「ほら見ろ! エマが階段にいた証拠だ!」
「殿下。ハンカチがあったことと、私がそこにいたことは同じではありません」
私はリリーを見る。彼女は両手を握りしめ、じっと床を見つめていた。
「リリー。怖がらせてしまったらごめんなさい。あなたは、私がミア様を押すところを見たの?」
「……いいえ」
「では、ハンカチはどこで見つけたの?」
リリーの唇が動いたけれど、声にはならなかった。
「何をためらっているの。早く答えなさい!」
ミア様が言うと、リリーの肩がびくりと跳ねた。
私は裁判官にお願いして、リリーのそばに立たせてもらった。あまり近づくと、かえって怖がらせてしまうかもしれない。少し離れたところから、ゆっくり声をかける。
「リリー。あなたが本当のことを話せば、困る人がいるのかしら」
その瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。
「……弟が、いるんです」
「弟さん?」
「ずっと病気で……。治療のお金を、ミア様のお家から出していただく約束だったんです。でも、言われたとおりにしなかったら、もう助けないって……」
「リリー!」
ミア様が叫んだ。
裁判官がすぐに注意すると、広間はまた静かになった。
「ハンカチは、私が置きました」
リリーは泣きながら続けた。
「昨日、ミア様に渡されて、階段に置いておくようにと言われたんです。誰かが拾ったら、エマ様のものだと話すようにって……。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……!」
私は胸の奥が痛くなった。リリーはよくないことをした。それでも、弟を助けたいという気持ちまで責めることはできなかった。
「リリー。話してくれてありがとう。弟さんのことは、私もできることを考えます。だから今は、あなたの知っていることを、そのまま話してくれる?」
「……はい」
「待ってください! この子は嘘をついています!」
ミア様は真っ青な顔で叫んだ。
「私はそんなこと、頼んでいません! きっとエマ様に言わされたんです!」
「ミア様」
私はなるべく穏やかに呼びかけた。
「でしたら、そのことも調べていただきましょう。リリーが誰からハンカチを受け取ったのか、弟さんの治療費についてどんな話があったのか。確かめればわかることです」
「……っ」
ミア様はそれ以上、何も言わなかった。
裁判官はリリーの話を記録させ、弟の治療費についても調べるよう命じた。ハンカチの件はさらに確認が必要だという。ただ、私が階段にいたことを示す証拠にはならないと説明された。
「エマ嬢が午後三時に孤児院にいたという点は、複数の記録と証言によって裏付けられています。現時点で、ミア嬢の告発を認めることはできません」
ようやく、息が少し楽になった。
けれど、これで終わりではない。殿下が私にかけた罪は、もう一つ残っている。
「ま、まだだ!」
レオン殿下が立ち上がった。
「階段の件は勘違いだったとしても、寄付金の横領はどう説明する! お前の署名があるんだぞ!」
「ええ、殿下。そちらの件も、きちんとお話ししたいと思っておりました」
私は用意していた封筒を、机の上に置いた。
金貨三百枚は、子供たちが冬を越すためのお金だった。誰かが勝手に使っていいものではないし、行方がわからないままにしておくわけにもいかない。
「裁判官様。次は、この書類をご確認いただけますか」
封筒の中には、王立銀行の印が押された記録が入っている。
そこには、お金を受け取った人の名前も、はっきりと残されていた。




