第1話 婚約破棄は突然に
「エマ・ローラン。お前との婚約を、今日この場で破棄する」
卒業祝賀会の音楽が止まったのは、レオン殿下がそう告げた直後だった。
先ほどまで楽しそうに踊っていた人たちが足を止め、一斉にこちらを見る。私も、手にしていた果実水のグラスを置いた。驚かなかったと言えば嘘になるけれど、こういうときにグラスを落とさなかったのは、十年にわたる王太子妃教育のおかげかもしれない。
「……婚約破棄、ですか?」
「聞こえなかったのか。お前のような女を、これ以上そばに置くつもりはない」
レオン殿下の隣には、淡い桃色のドレスを着たミア様が立っていた。学園で知り合った男爵家の令嬢で、最近は殿下と一緒にいるところをよく見かける。今夜も殿下の腕に寄り添い、私を不安そうに見つめていた。
私、エマ・ローランは公爵家の娘で、十歳の頃からリアン王国の王太子であるレオン殿下の婚約者だった。勉強も礼儀作法も、いつか王妃になる日のために続けてきた。その十年間が、卒業を祝う夜に終わるらしい。
「理由をうかがってもよろしいでしょうか。両家で交わした婚約ですから、私にも説明をいただく必要があると思います」
「説明だと? よくもそんなことが言えるな。お前がミアに何をしたのか、忘れたとは言わせないぞ」
殿下の声は広間の端まで届いた。周りの生徒たちが顔を見合わせ、何人かがひそひそと話し始める。卒業の日にこんな騒ぎを起こせば、明日の王都ではずいぶんな噂になるだろう。
けれど、今は噂よりも気になることがあった。
「ミア様に、何かあったのですか?」
「エマ様……どうして、そんなふうに何も知らない顔をなさるんですか?」
ミア様が殿下の袖を握りしめた。その右手首には白い包帯が巻かれている。
「今日の午後三時頃、学園の西階段で私を突き落としたではありませんか。足を滑らせて、もう少しで大けがをするところだったんですよ」
私は思わず包帯を見た。けがをしているのなら、まずはお大事にと言うべきなのだろう。ただ、今の話には、どうしても聞き逃せないところがある。
「今日の午後三時、ですか?」
「そうです。周りに誰もいないと思って、私を階段から突き落としたんです」
「その時間に、私が西階段にいたとおっしゃるのですね」
「ええ。間違いありません!」
ミア様はきっぱりとうなずいた。
私はそれ以上、時間については尋ねなかった。今ここで何を話しても、きっと殿下は耳を貸さない。それより、彼女が自分の口で何と言ったのか、覚えておく方が大切だと思った。
「エマ、お前は以前からミアを見下していた。身分の低い者をいじめるなど、王太子妃となる者のすることではない!」
「そのようなことをした覚えはありません。私がミア様に注意をしたことはありますが、それは授業中にほかの生徒の邪魔をしていらっしゃったときだけです」
「ほら! やっぱり私のことが嫌いだったんですね!」
ミア様が声を上げる。どうやら、注意をしたこと自体は覚えているらしい。
あの日、授業中に殿下と楽しそうにおしゃべりをしていた二人に、先生の話を聞くようお願いしただけだった。もちろん、私の言い方が厳しかった可能性はある。けれど、それと階段から突き落としたという話は、別のことだ。
「それだけではない」
殿下は胸元から一枚の書類を取り出した。
「お前は王立孤児院に送るはずだった寄付金、金貨三百枚を横領した。こちらにはお前の署名が残っている!」
広間が一段と騒がしくなった。誰かが「三百枚も」とつぶやく声が聞こえる。
私の胸が、嫌な音を立てた気がした。
王立孤児院は、身寄りのない子供たちが暮らす場所だ。古い建物では冬になると風が入り込み、暖炉を直すためのお金が必要だった。私は先月、院長先生からその話を聞いている。
金貨三百枚は、子供たちの冬支度のために用意されたものだった。
「殿下。その書類を、見せていただけますか?」
「今さら確かめたところで同じだ。これはお前の字だろう?」
殿下は少し離れたところから書類を広げた。確かに、そこには見覚えのある署名がある。
「はい。私の署名に間違いありません」
「聞いたか! 本人が認めたぞ!」
殿下の後ろにいた友人たちが声を上げた。私は困ってしまった。まだ何の書類かも確かめていないのに、話がずいぶん先へ進んでいる。
「ただ、署名をしたことと、お金を受け取ったことは同じではありません。何のための書類なのか、確かめさせていただきたいのです」
「言い訳はもういい!」
殿下は書類を折りたたみ、私に背を向けた。
その姿を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
幼い頃の殿下は、こんな方ではなかった。私が庭で転んだとき、汚れた手を気にせず起こしてくださったことを、今でも覚えている。お互いに不得意な科目を教え合ったこともあった。
いつから、私の話を最後まで聞いてくださらなくなったのだろう。
「エマ。二つの罪は明らかだ。ミアに謝罪し、すべてを認めろ。そうすれば国外追放で済ませてやる」
「殿下、私の話を聞いていただけませんか。少なくとも、孤児院のお金については確認すべきことがございます」
「まだわからないのか。お前には、もう誰も味方しないんだぞ!」
会場にいた人たちの視線が、一層冷たくなった気がした。私は顔を上げたまま、ゆっくり息を吸った。
怖くないわけではない。ここで罪人にされれば、公爵家にも迷惑がかかる。何より、私は何もしていないのに、子供たちのためのお金を盗んだことにされてしまう。
それだけは、受け入れられなかった。
「では、殿下。一つお願いがございます」
「何だ。ようやく謝る気になったか?」
「いいえ。正式な裁判を開いていただきたいのです」
殿下の眉が動いた。
「……裁判?」
「はい。階段での出来事も、寄付金の行方も、証人と書類を確かめていただきたいのです。王族の方からの告発ですからこそ、間違いがないようにしなければなりません」
「私がお前に嘘をついているとでも言うのか!」
「そうは申し上げておりません。殿下が正しいとお考えなら、裁判で明らかにすればよろしいのです」
殿下はしばらく私を睨んでいたが、やがて鼻で笑った。
「いいだろう。明日、父上に頼んで裁判を開かせてやる。大勢の前でお前の罪を明らかにしてやろう!」
「ありがとうございます。私からも正式に申し立てます」
そのとき、ミア様が殿下の袖を引いた。
「レオン様、本当に裁判までしなくても……。エマ様が謝ってくだされば、私はそれでいいんです」
「ミア、お前は優しすぎる。これ以上この女をかばう必要はない」
殿下は彼女の肩を抱き、私に向き直った。
「明日までに、せいぜい言い訳でも考えておくんだな」
私は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
リアン王国では、正式な裁判で誰かを告発する人は、自分の言葉に責任を持たなければならない。わざと嘘をついて人を罪に陥れようとすれば、告発した側も裁かれる。それは王族でも変わらないと、私たちは学園で教わっている。
もっとも、殿下は法律の授業があまりお好きではなかった。明日の裁判では、まずその決まりから確認した方がいいのかもしれない。
私は広間の出口へ向かった。背後では音楽が再び流れ始め、誰かが気まずそうに笑っている。楽しいはずの卒業祝賀会を騒がせてしまったことは、少し申し訳なかった。
廊下に出ると、窓の向こうに王都の明かりが見えた。
家に帰ったら、父に事情を説明しなければならない。それから孤児院の院長先生にも連絡を取ろう。確かめたいことは、いくつもあった。
私はずっと、殿下の婚約者として生きてきた。その務めを果たせなくなるのは悲しい。けれど、何もしていない人を罪人にすることまで、見過ごすつもりはなかった。
「……明日は、忙しくなりそうね」
誰もいない廊下でそうつぶやき、私はもう一度だけ広間を振り返った。
殿下は、きっと私が許しを請うと思っていらっしゃるのだろう。
残念だけれど、そのつもりはない。
私は自分のためだけでなく、今も寒い部屋で暮らしている子供たちのためにも、確かめなくてはならないのだから。
どうか、明日は清く正しい裁判になりますように。
そう願いながら、私は家へ帰る馬車に乗り込んだ。




