第11話 毒が入る前の病人
翌朝、私は朝食を終えるとすぐに役所へ向かった。昨日は診療所の記録帳を調べ、薬を渡した日と、実際に飲んだ日が違うことに気づいた。けれど、肝心の体調が悪くなった日については、まだ本人たちの話を十分に聞けていない。
手帳には、三つの項目を書いてある。薬を受け取った日、飲んだ日、具合が悪くなった日。たったそれだけのことなのに、いざ調べようとすると、なかなか難しかった。
「おはようございます、エマ嬢。今日は村の方々から、もう一度お話を聞くのでしたね」
役所の前で待っていたノア様が、私の手にある手帳を見て笑った。
「はい。昨日は日付を並べてみましたけれど、記録に書かれていることだけでは足りないと思いまして」
「トムさんには伝えてあります。昨日お話を聞いた方のうち、お会いできそうな方へ声をかけてくださったそうです」
「ありがとうございます。でも、皆さんにもお仕事がありますよね。無理に来ていただくのは申し訳ないです」
「そこは大丈夫ですよ。今日は私たちの方から訪ねられるようにしてあります」
ノア様はそう言って、折りたたんだ紙を差し出した。誰がどこに住んでいるか、トムさんが簡単にまとめてくださったらしい。王弟殿下にこんな仕事までしていただいていいのだろうかと思ったけれど、本人は少し楽しそうだった。
「今日は馬車でなく、歩いて回れそうですね」
「そうですね。お天気もいいですし」
私が答えると、ノア様は小さくうなずいた。二人で役所に入り、トムさんと調査に同席する職員に挨拶してから、最初の家へ向かった。
訪ねたのは、以前にも話を聞かせてくれたハナさんだった。家の前では洗濯物が風に揺れ、窓からは煮込み料理の匂いが漂ってくる。扉をたたくと、ハナさんが少し驚いた顔で出迎えてくれた。
「まあ、エマ様。わざわざ来てくださったんですか。昨日はちゃんとお話しできたと思っていたんですけど……」
「何度も申し訳ありません。前にうかがったことを、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。覚えていないことは、覚えていないとおっしゃってくださいね」
「ええ、もちろんです。どうぞ入ってください」
居間に通されると、小さな女の子が机で絵を描いていた。私たちを見るなり、母親の後ろに隠れてしまう。ノア様が少し離れたところから手を振ると、女の子もおずおずと手を振り返した。
「今日は、薬を飲んでから具合が悪くなるまでのお話を聞きたいのです。ハナさんは今月十四日に診療所へ行かれたそうですね」
「はい。前の日まで寝ていたんですけど、どうにも気持ち悪さが取れなくて。先生に診てもらおうと思ったんです」
「では、具合が悪くなったのは、十四日よりも前だったのですね」
「ええ。確か、十一日だったと思います。薬を飲んで、お昼の支度をしているうちに急に気持ちが悪くなって……。でも、こういう日付って、あとから聞かれると自信がなくなりますね」
ハナさんは困ったように笑った。私は、無理に日にちを決めなくてもよいと伝えたうえで、どうして十一日だと思うのか尋ねた。
「その日は、パン屋のベンさんが少し早く配達に来たんです。いつもならお昼前なのに、朝のうちに持ってきてくれて。娘が喜んで、昼まで待てずに食べたがったのを覚えています」
「パンの配達ですか」
「ええ。私が寝込んでしまったので、夕飯もそのパンで済ませたんですよ。娘にはかわいそうなことをしました」
机の女の子が顔を上げた。
「かわいそうじゃなかったよ。あのパン、おいしかったもん」
ハナさんは目を丸くしたあと、照れたように笑った。
「そう? ならよかった。あんた、いつもは煮込んだ野菜を残すくせにね」
女の子は口をとがらせ、また絵に戻っていった。私は思わず笑みをこぼした。ハナさんにとってはつらい日だったけれど、娘さんは思いがけない夕飯をよく覚えているらしい。
「ベンさんに配達の日を確かめてもよろしいですか?」
「もちろんです。あの人なら、お店の帳面もつけていると思いますよ」
「ありがとうございます。もう一つだけ。薬を飲んでから具合が悪くなるまで、ほかに変わったことはありませんでしたか?」
ハナさんはしばらく考えたものの、首を横に振った。薬が原因だとわかったわけではない。熱を出していたのだから、もともとの病気で具合が悪くなった可能性もある。
私はそのことも手帳に書き添えた。
家を出ると、ノア様が静かに口を開いた。
「十一日に具合が悪くなっていたとすれば、村で薬の騒ぎが大きくなるより前ですね」
「はい。でも、ハナさんのお話だけで日付を決めるのは早いです。ベンさんの記録も見せていただきましょう。それに、薬が原因だったかどうかも、まだわかりませんから」
「そうですね。では、次はパン屋へ?」
「ええ。ちょうど、お礼も申し上げたいですし」
パン屋に着くと、店の奥からベンさんの大きな声が聞こえてきた。
「おお、エマ様。今日は何をお探しですか。焼きたてなら、ちょうどありますよ」
「こんにちは。おいしそうですね。実は、パンを買う前に一つ、お尋ねしたいことがあるんです」
事情を説明すると、ベンさんは作業台の下から小さな帳面を取り出した。配達した先と、代金を受け取った日が書かれている。
「ハナさんのところですか。確か十一日ですね。ほら、ここに書いてあります」
指さされた欄には、確かにハナさんの名前があった。隣には『朝配達』とある。
「あの日は息子が午後から用事だったものでね。いつもより早く店を回ったんです。ハナさんの娘さんが、焼きたてのパンを二つ欲しいとせがんでいたのも覚えていますよ」
「ありがとうございます。後で確認できるように、ここを写してもよろしいですか?」
「もちろんです。こんな帳面が役に立つなら、いくらでも見てください」
職員の立ち会いのもとで記録を写し、ベンさんにも話した内容を確かめてもらった。ハナさんの記憶と、店の記録は一致している。だからといって全部が確かになったわけではないけれど、十一日という日付には、理由ができた。
「ところで、パンはいくつにします?」
ベンさんがにやりと笑った。
「……調査に来たつもりだったのですが」
「調査をする人だって、お腹はすきますよ」
隣でノア様が真面目な顔をしてうなずくので、私はつい笑ってしまった。結局、昼食用にパンを四つ買うことになった。
次に訪ねたのは、畑仕事をしている男性の家だった。男性は十三日に役所へ相談に来ていたが、診療所の記録では十一日に薬を受け取っていたという。
「具合が悪くなったのは、いつだったでしょうか?」
私の質問に、男性は腕を組んで考え込んだ。
「十二日だったはずです。朝から畑に出て、昼過ぎにめまいがしてね。もう少し働くつもりだったけど、家に帰りました」
「十一日に薬を受け取ったあと、いつ飲まれましたか?」
「その日の夜と、次の朝です。ただ、めまいの原因が薬かどうかはわかりません。あの日は日差しも強かったですから」
「そうですね。では、お仕事を早く切り上げたことを、覚えていらっしゃる方はいますか?」
「妻なら知っていますよ。昼間に帰ってきたから、ずいぶん驚かれました」
同席していた奥さんも、十二日の昼過ぎに夫が帰ってきたことを覚えていた。畑で一緒に働いていた人にも、あとで確かめてもらえるそうだ。私は聞いた内容をそれぞれの言葉として書き留め、まだ確認していない部分には印をつけた。
こうして話を聞いて回るうちに、もう昼を過ぎていた。私たちは広場の長椅子で、買ったパンを分けて食べることにした。焼きたてのパンは中が柔らかく、少し冷めても十分おいしかった。
「それにしても、皆さん日付だけはなかなか覚えていないものですね」
ノア様が言った。
「私だって、三日前のお昼に何を食べたか聞かれたら、少し考えてしまいます。だから、配達や畑仕事のように、普段と違った出来事を手がかりにするのがよいのかもしれません」
「なるほど。毎日の暮らしの中に、記録には残っていない手がかりがあるわけですね」
「はい。ただ、人の記憶は間違うこともありますから、一つずつ確かめていきたいです」
そう話していると、広場の向こうをマーク先生が歩いていくのが見えた。診療所の薬はまだ使えないためか、手には薬箱ではなく、小さな買い物袋を持っている。先生はこちらに気づいて会釈をし、そのまま通り過ぎていった。
「先生にも、今日わかったことを伝えますか?」
ノア様が尋ねた。
「いずれはお話を聞く必要があります。でも、今はまだ確かなことが少ないですし、まず町から来るお医者様に薬を調べていただきたいです」
「わかりました。先ほどトムさんから、明日には到着する見込みだと聞きました」
「それはよかったです」
私は少し安心した。具合が悪くなった日を整理することはできても、その原因を調べるのは私の仕事ではない。薬が危険なのかどうかは、詳しい人に確かめてもらわなくてはならない。
午後は役所に戻り、聞いた話を昨日の表に書き加えた。ハナさんは十日に薬を受け取り、十一日に体調を崩したという。畑仕事の男性は十一日に受け取り、十二日にめまいがした。そしてカズさんの家には、十一日に薬を飲んだあとの不調が書かれた紙が残っていた。
最初に役所へ知らせが集まったのは十三日だった。けれど、少なくともそれより前から、何人かの人が具合の悪さを感じていたことになる。
「……変ですね」
私がつぶやくと、向かいで書類を整理していたトムさんが顔を上げた。
「どうされました?」
「いいえ。私たちは、十三日に薬の事件が起きたと思っていました。でも、その日に突然、皆さんが具合を悪くしたわけではなかったんですね」
「そう言われると、確かに……。役所には十三日に相談が一度に増えたものですから、その頃から問題が起きたと思い込んでいました」
「私も同じです。ただ、前から体調の悪い人がいたとしても、ユイさんがいつ何をしたのかはわかりません。そこは分けて考えたいです」
トムさんは深くうなずいた。ノア様も隣に来て、表をのぞき込んだ。
「だとすると、ユイさんが薬を心配していた理由も、少し見えてきますね。おじいさんだけでなく、村のほかの人たちも具合を悪くしていたのなら」
「ええ。けれど、それならどうして先生に相談せず、自分が毒を入れたと言ったのでしょう。そこが、まだわからないんです」
私は手帳に残していた、ユイさんの言葉を読み返した。
『私がやったことにしてください。そうすれば、もう誰も困らないでしょう?』
誰も困らない。何度読んでも、その部分が気になった。誰かに罪を押し付けたい人が言う言葉には、どうしても思えなかった。もちろん、言葉だけでユイさんを信じることも、疑うこともできないのだけれど。
ちょうどそのとき、役所の扉が控えめにたたかれた。
入ってきたのは、昼に話を聞いた畑仕事の男性の奥さんだった。手には小さな布袋を持っている。
「すみません。さっきはお話ししなかったんですけど、家へ戻ってから、これを見つけまして」
彼女が袋から取り出したのは、薬の包み紙だった。
「夫が具合を悪くしたときのものです。捨てたと思っていたけど、引き出しに残っていました。役に立つでしょうか?」
「ありがとうございます。よろしければ、職員の方に確認していただいてもいいですか?」
奥さんがうなずいたので、トムさんは包みの状態と受け取った日時を記録した。私は触れずに、職員が広げてくれた紙を見た。
端に、青い丸印があった。
「……この印」
カズさんの家で見た薬の包みにも、同じ印が付いていた。マーク先生は、足の痛みに使う薬だと説明していたはずだ。
「この薬は、どんなときにもらったのですか?」
「夫が肩を痛めて、先生に相談したんです。熱の薬じゃありません。畑仕事で重い物を持つことが多いので」
私は昨日写してもらった記録帳を開いた。男性が十一日に受け取った薬の欄にも、確かに肩の痛みと書かれている。
「同じ印でも、中身が同じとは限りませんね」
ノア様が小声で言った。
「はい。それでも、気になります。ハナさんは熱の薬でしたが、こちらのお二人は痛みの薬です。飲んだ薬が違うのに、似た症状が出ているとしたら……」
そこまで言って、私は口を閉じた。薬のせいかどうかさえ、まだ決まっていない。考えられる理由はいくつもあるだろう。
ただ、今まで別々だと思っていた人たちの話が、少しずつつながり始めていた。
「トムさん。明日来られるお医者様に、この包みも見ていただけますか。それから、診療所にある同じ印の薬と比べていただきたいんです」
「もちろんです。カズさんの包みと一緒に、確認できるよう手配します」
私は礼を言って、手帳を閉じた。今日は、ユイさんの罪が晴れたわけではない。誰が薬に何をしたのかも、まだわからない。
それでも、一つだけ確かなことがある。事件が騒ぎになった日より前から、村には体調を崩していた人たちがいた。そして、その人たちは、それぞれ違う理由で診療所を訪ねていた。
なぜ、そんな人たちが続けて具合を悪くしたのだろう。
私は窓の外を見た。夕暮れの村では、仕事を終えた人たちが家路についている。あの中には、診療所を頼りにしている人が何人もいるはずだ。
明日は、町から来るお医者様が薬を調べてくださる。その前に、私はユイさんの最初の自白をもう一度読んでおくことにした。短い記録には、彼女が何を入れたのかも、いつ薬に手を加えたのかも書かれていない。何をしたのかがわからないまま、みんなが「毒を入れた少女」と呼んでいる。
私は手帳を開き、新しい質問を一つ書き加えた。
『最初に、薬に毒が入っていると言い出したのは誰なのか』
考えてみれば、そのことを私はまだ、誰にも尋ねていなかった。




