第10話 診療所の記録帳
翌朝、宿を出る頃には雨が上がっていた。道の端にはまだ水たまりが残っていたけれど、雲の切れ間から日が差している。私は役所へ向かいながら、昨日カズさんの家で預かった木箱のことを考えていた。
箱に入っていたのは、薬の包みと、ユイさんが日にちを書いた紙だった。大切にしまってあったものだけれど、それが何を示しているのかは、まだわからない。今日、診療所の記録と比べれば、少しは手がかりが見つかるだろうか。
「エマ嬢、朝から難しい顔をしていますね」
隣を歩くノア様が、少し心配そうに声をかけてくださった。
「そうでしたか。昨日の紙のことが気になってしまって。薬のことは詳しくないので、記録を見てもわからないことばかりかもしれません」
「わからなければ、わかる方に教えてもらいましょう。全部を一人で調べる必要はありませんよ」
「……そうですね。ありがとうございます」
私は笑って答えた。ノア様は王弟という立場にありながら、こうして私と一緒に村の道を歩いてくださる。慣れない仕事で気持ちが落ち着かないとき、その何気ない言葉に何度も助けられていた。
役所では、トムさんがすでに準備を整えて待っていた。診療所の記録帳を見る許可が下り、担当の職員も一人、同行してくれるそうだ。
「それと、カズさんのお宅からお預かりした薬の包みですが、こちらで一つずつ数えて、預かったときの状態を書き留めました。まだ中身は開けていません」
「ありがとうございます。勝手に開けてしまうと、あとから確かめにくくなりますものね」
「ええ。薬そのものは、町から来る医者に調べてもらう予定です。今日は外側の紙だけなら、私たちの立ち会いのもとで見られます」
私はうなずいた。薬の中身が危険なものかどうかは、私には判断できない。けれど、いつ誰が受け取った薬なのかなら、記録を比べることができるはずだった。
診療所に着くと、マーク先生は昨日と同じ部屋で待っていた。薬棚には引き続き役所の札が付けられている。先生はその前に立ち、私たちを見て小さく息をついた。
「ようこそ。記録帳はこちらに用意してあります。古いものですから、汚れたところもありますが」
「お手数をおかけします。今日は薬を渡した日と、具合が悪くなった方が診療所に来た日を確かめたいのです」
「わかりました。ただ、村の皆さんは忙しい方ばかりでね。体調が悪くなっても、すぐには来ないことがあります。診療所に来た日が、具合の悪くなった日とは限りませんよ」
「はい。その違いにも気をつけたいと思います」
マーク先生は机の上に大きな記録帳を置いた。長く使われてきたらしく、表紙の角がすり減っている。中には患者の名前と、診てもらいに来た日、渡した薬などが細かく書かれていた。
私はまず、帳面の書き方を先生に教えていただいた。日付の横にある丸印は、薬を渡したことを示す印。空欄の日は診察だけで、薬を渡していない。薬の名前の隣に書かれた数字は、包みの数だという。
「一度に何日分か渡すこともあるのですか?」
「ええ。毎日来るのが難しい方もいますからね。特にカズさんのように足の悪い方には、まとめてお渡しすることがあります」
それなら、飲んだ日と渡した日が違っていても不思議ではない。私はそのことを手帳の端に書き、トムさんに頼んで、帳面の該当するページを写してもらった。
最初に調べたのは、昨日話を聞いたハナさんの記録だった。
「ハナさんは、薬を飲んで二日ほど寝込んだとおっしゃっていました」
「ええ。こちらにも書いてあります。今月十四日に来られて、吐き気がすると訴えられました」
私は記録を指で追った。確かに十四日の欄に、ハナさんの名前がある。けれど、同じページを少し戻ると、十日の欄にも名前があった。
「十日にも、薬を受け取っていらっしゃいますね」
「熱が出たので来られたんです。十四日のときは、その薬が合わなかったのかもしれないとおっしゃっていました」
「先生は、そのとき薬を調べられましたか?」
「同じ薬を出した方が皆、具合を悪くしたわけではありませんでしたからね。すぐに薬が原因とは言えませんでした。ご本人には使用をやめるよう伝えましたよ」
その説明だけなら、おかしなところはないように思えた。薬以外の原因で具合が悪くなる人もいるだろう。だから私は、先生の話をそのまま記録し、次の名前を探した。
カズさんの名前は、少し後のページにあった。
「十二日。足の痛みを訴え、薬を四包……」
私は声に出して読んだ。先生は横からうなずく。
「そうです。いつもの薬をお渡ししました。ユイが家に持って帰ったはずです」
「それより前にも、同じ薬を渡されたことは?」
「もちろんありますよ。ずっと診ている方ですから。ただ、今月に入ってからは、その十二日が最初だったと思います」
私は前のページをもう一度見た。確かに、今月の初めから十一日までの間、カズさんの名前はなかった。
そこでトムさんにお願いして、昨日の木箱を持ってきてもらった。担当の職員に確認していただきながら、一つだけ外側の紙を見せてもらう。中身には触れず、包みを折り返したところに書かれた文字を確かめた。
『九日 おじいちゃん 昼』
ユイさんの字だった。隣には小さな丸が付いている。同じ字は、箱の中にあった紙にも書かれていた。
「……九日?」
私は記録帳に目を戻した。十二日に渡したと書かれた薬と、九日に飲むために用意されたらしい薬の包み。同じものだと決まったわけではない。カズさんが前の月にもらった薬を、残していたのかもしれないからだ。
「先生。この包みを見ていただいてもよろしいですか? 薬の種類は、外側だけでわかるものでしょうか」
マーク先生は身を乗り出したが、職員が見やすいように持った包みには触れなかった。
「この青い丸印なら、足の痛みに使う薬ですね。間違いありません。ただし、薬そのものを調べていないので、中に同じものが入っているかは何とも言えません」
「ありがとうございます。では、この九日という字は、先生が書いたものではないのですね」
「ええ。ユイでしょう。あの子はカズさんが飲み忘れないよう、よく日にちを書いていましたから」
私はほっとしたような、ますますわからなくなったような気持ちになった。少なくとも、日付はユイさんが後から家で書いた可能性がある。記録の違いを見つけても、それだけで先生が嘘をついたとは言えない。
「では、カズさんが九日に飲んだ薬は、それ以前に渡されたものだったのかもしれませんね」
「そうでしょう。古い薬を取っておく方は珍しくありません。ただ、飲み方については私も注意していたのですが……」
マーク先生は困った顔をした。私はその言葉を手帳に書いてから、別の包みも確認させてもらった。
十日、十一日、十二日。ユイさんは毎日のように、おじいさんが薬を飲んだことを記録していた。十一日の横には、ほかより小さな字が付け足されている。
『飲んだあと、気持ち悪い』
その文字を見たとき、昨日のカズさんの声がよみがえった。
『最近は薬を飲むのが怖くなったんです』
私は静かに息を吐いた。何が原因かはまだわからないけれど、ユイさんがおじいさんの体調を気にしていたことだけは、確かに伝わってくる。
「エマ嬢。何か気になることがありましたか?」
ノア様が小声で尋ねてくださった。
「はい。記録帳には診療所へ来た日が書いてあります。でも、実際に薬を飲んだ日や、具合が悪くなった日は、別のようです」
「なるほど。私たちは今まで、診療所の記録に書かれた日を、事件が起きた日だと思っていたかもしれませんね」
「ええ。まずそこを整理したいです」
私は先生に、ほかの患者の記録も確認してよいか尋ねた。先生は承知してくださったが、そのとき初めて少し困ったように言った。
「ただ、これをいつまでも続けられると、村の方々が困ってしまいます。私を疑うために調べていらっしゃるのですか?」
「いいえ。今は、何が起きたのかを確かめています。先生のお話も、大切な手がかりです」
「……そうですか」
「もし薬に問題がなければ、そのこともきちんと報告します。ですが、危険な薬があったなら、誰かがまた具合を悪くする前に見つけなければなりません」
マーク先生はしばらく黙ってから、ゆっくりとうなずいた。
「それは、そうですね。私だって患者を苦しめたいわけではありませんから」
その返事に、嘘があるのかどうかはわからなかった。ただ、先生も診療所を閉めたままにしておけないという気持ちは本当なのだろう。
午後になると、トムさんが患者の名前を読み上げ、私が日付を書き出す作業を手伝ってくださった。ハナさん、カズさん、それから体調を崩したと役所に相談していた人たち。診療所の記録帳にある日と、本人たちが話した日を、二つの列に分けて並べていく。
そこで、私は一つ気がついた。
「トムさん。こちらの方は、十三日に初めて具合が悪くなったと届け出ていますね」
「はい。役所へ来られたのが十三日ですから」
「でも診療所の記録では、十一日に薬を受け取っていらっしゃいます。いつから具合が悪かったのかは、まだ聞いていませんよね?」
「ああ……そうですね。届け出をした日と、具合が悪くなった日は違うかもしれません」
トムさんは記録に印を付けた。私はほかの人の名前も見直した。薬を渡した日、飲んだ日、具合が悪くなった日、そして役所に知らせた日。その四つが、どの人についても同じとは限らない。
午後の仕事を終え、役所へ戻った私たちは、広い机の上に写した記録を並べた。窓から差し込む夕方の光が、紙の端を照らしている。
「最初に騒ぎになったのは、十三日でしたね」
ノア様の言葉に、私はうなずいた。十三日に診療所の薬を疑う声が大きくなり、そのあとユイさんが役所に連れてこられた。けれど、カズさんの手元にある紙には、それより前の十一日、薬を飲んだあとの不調が書かれていた。
「ユイさんが薬に何かをしたのは、いつだったのでしょう」
「それも、まだ本人からは聞けていません」
「……はい。だから、今すぐ答えを出すことはできません。でも、調べる順番はわかってきました」
私は手帳の新しいページを開いた。
『薬を受け取った日』『実際に飲んだ日』『具合が悪くなった日』
三つの項目を書いてから、最後にもう一つ付け足す。
『ユイさんが薬を止めようとした日』
あの少女は、自分が悪いことをしたのは本当だと言っていた。そして何度も、薬がまだ使われていないかを心配していた。
もし、何かをした理由が、薬を使わせないためだったとしたら。
そこまで考えて、私は手帳を閉じた。まだ、そうだと決めるには早い。明日は体調を崩した人たちに、もう一度、最初に異変を感じた日を聞いてみよう。診療所の記録ではなく、本人たちの記憶から確かめたい。
役所を出ると、夕方の風が少し冷たかった。ノア様が「今日はずいぶん頑張りましたね」と声をかけてくださる。
「まだ日付を並べただけですけれどね」
「その日付が、大切なのだと思います。私には、記録帳に同じ名前がいくつも並んでいるようにしか見えませんでしたから」
「私も、初めはそうでしたよ。でも、カズさんの家にあった紙と並べたら、少し違って見えてきたんです」
そう答えると、ノア様は静かに笑った。
「では、明日も一緒に考えましょう」
「はい。よろしくお願いいたします」
記録帳には、確かに日付が書かれていた。けれど、そこに書かれていない時間にも、人々の暮らしは続いている。薬を飲んで不安になった人もいれば、誰かのために必死になった人もいる。
その小さな出来事を見落とさないようにしたい。私は胸の中でそう思いながら、宿へ続く道を歩いた。




