第6話
厚い石壁を震わせる風の唸りは、時間が経つごとに鋭さを増していた。
工房の作業机いっぱいに広げられた羊皮紙の上で、指針の赤い墨が不吉な放物線を描いている。外気温度の推移と、北の山脈から南下してくる魔力密度の異常な高まりを示した記録だ。
「観測班の報告によれば、あと半日も保たずに過去最大の寒気団がこの尾根を直撃する。気温は例年にない冷え込みまで落ち込み、哨戒線一帯は視界数歩の猛吹雪に閉ざされる見込みだ」
眉根を寄せ、図面を睨みつけるのは砦を預かる指揮官――ルーファス様だった。普段は感情を削ぎ落とした氷のような表情を崩さない彼が、今は隠しきれない焦燥を滲ませている。
「その極寒の中、明朝には第一陣の哨戒部隊を出さねばならん。近隣の魔獣の動きが急激に活性化している。大嵐の前に群れの動向を掴めなければ、砦は背後から雪崩のように押し寄せる獣の波に呑まれる」
「ですが、そんな寒さの中に人を送るなんて……」
私が言葉を詰まらせた瞬間、工房の重い扉が勢いよく開け放たれた。
「し、師匠! 大変っす! 倉庫にあった予備の通信機、全部ダメになってます!」
飛び込んできたのは、跳ねた髪に大きな丸眼鏡を乗せた少年技師、ニコラスだった。砦の工房で働く見習い技師で、私の修理の様子を見て勝手に弟子入りを志願してきた少年だ。彼の抱える革袋から、鈍い鉄の音を立てて転がり出たのは、外殻が白く粉を吹いた旧式の魔導通信機と、各所に微小な亀裂が走った哨戒用の革胸当てだった。
「冷気で導線が完全に凍りついて、魔力を通した瞬間に火花を散らして回路が焼き切れちまうんです。それにこの胸当ての加温金具も、芯材の魔導線が寒さに耐えきれずボロボロで……。砦にある予備の資材じゃ、溶接の熱すら冷気に奪われて直しようがありません!」
青ざめた顔で息を切らすニコラスの指先は、絶望に震えていた。荷物持ちから独学で道具を触ってきた彼は、機材の限界がそのまま前線の仲間の死に直結することを誰よりも理解しているのだ。
息を呑む少年を前に、私は机の上の通信機へと手を伸ばした。
金属の外枠は氷のように冷え切り、指の皮膚が張り付きそうなほどだった。
「落ち着いて、ニコラス。道具はまだ息絶えていません」
「え……でも、芯が完全に冷え固まって……」
「大丈夫です。寒さに負けているなら、寒さを跳ね返す通り道を作ってあげればいいだけですから」
私は微笑みかけ、作業台の油灯を引き寄せた。
王都にいた頃、誰にも顧みられずゴミ捨て場に積まれていた魔導具たちを思い出す。正しく手当てを施せば、金属も革も、必ず応えてくれる。
「ルーファス様、明朝の出発までにすべて仕上げます。哨戒に出る方々の装備を、集められるだけここへ運んでください」
私の言葉に、ルーファス様はわずかに目を見張った。だがすぐにその切れ長の瞳に深い信頼の色を宿し、短く頷いた。
「……頼む。お前の技術を、俺たちに貸してくれ」
◆ーーーー◆
深夜の工房には、冷気除けの厚いカーテン越しにも凍てつく風の音が響いていた。
私は作業机に向かい、息を深く整えて意識を指先に集中させた。皮膚を通して魔力を浸透させると、網膜の裏側に通信機の内部骨格が青白い光の線となって浮かび上がる。
目視では決して捉えられない、極小の魔力回路。
案の定、冷気の侵入によって基幹部分の魔導金属が収縮し、核となる水晶の周りで魔力が鬱屈して澱んでいた。これでは信号を送ろうとしても回路が焼き切れてしまう。
「ニコラス、銀針と導魔油を。それから純度の高い銅の極細線を出して」
「は、はいっ! すぐに!」
少年が素早く道具を並べる横で、私は指先から針の先ほどの繊細な魔力を注ぎ込んだ。力でねじ伏せるのではない。冷気で凝固した魔力の塊を、指先でそっと解きほぐすように撫でていく。
さらに銅線を既存の回路に絡ませ、滞留した冷気を逆に魔力循環の冷却材として利用する新たな迂回路――耐寒増幅回路を頭の中の設計図に従って構築していった。
極低温になればなるほど外気との温度差を吸い上げ、音声を遠くまで響かせる力に変える独自の魔力循環路だ。
「す、げえ……。接合材の熱も使わずに、魔力の流れだけで金属の結晶を繋ぎ変えてる……? 王都のアカデミーの教授だって、こんな芸当できるわけねえのに!」
横で固唾を呑んでいたニコラスが、眼鏡の奥の目を丸くして歓声を上げた。
「見て、ニコラス。無理に熱で溶かそうとすると金属が脆くなるの。冷たさに寄り添って、余分な圧力を外へ逃がす道を作ってあげるのよ」
「冷たさに寄り添う……。へへ、師匠のやり方って、なんだか道具を撫でて機嫌を取ってるみたいっすね」
「ふふ、機嫌を損ねたら動いてくれませんから」
軽口を叩き合いながらも、私の指先は次から次へと持ち込まれる通信機と胸当ての回路を再編成していく。
しかし、数時間にも及ぶ極限の精密作業と、工房の隙間から忍び込む冷気は、確実に体力を削り取っていた。三台目の通信機の歪みを整え終えた時、指先の感覚が麻痺し、小さな銀針を取り落としそうになる。
その瞬間、背後からふわりと分厚い温もりが肩を包み込んだ。
「……無茶をするなと言ったはずだ」
低く、掠れた声が耳朶を打つ。
振り返る間もなく、ルーファス様が自らの毛皮の外套を私の肩に掛け、大きな両手で私の凍えた右手をそっと包み込んでいた。
手袋を外した彼の掌は驚くほど熱く、ごわごわとした角質が私の荒れた指先を確かめるように擦り合わせる。
「ルーファス、様……っ、私は平気です。まだ胸当ての強化が残って……」
「指が白くなっている。このままではお前の手そのものが壊れてしまうぞ」
ルーファス様は腰の小瓶から薬草の軟膏を指先に取ると、私の爪の生え際や、道具ダコのできた掌へと丁寧に塗り拡げていった。痛いほどの寒気が引いていき、薬草の清涼な香りと彼の体温がじんわりと染み込んでいく。
「俺のために、砦のために命を削るな。お前のその手は、誰よりも尊いものだ」
真摯な眼差しで見つめられ、胸の奥が跳ねる。
かつて「卑しいガラクタいじりの手」と嘲笑われ、見捨てられた私の指先を、この人はまるで宝物でも扱うかのように慈しんでくれる。
「休めとは言わん。だが、俺に温めさせろ。それくらいの手伝いは許せ」
不器用な言葉とともに、彼は私の手を包んだままそっと息を吹きかけた。
横でニコラスが「うわ、見ちゃいけないものを見てる気がする」と小声で呟きながら慌てて工具の整理に没頭するふりをしている。
顔に血が上るのを感じながら、私は深く息を吸い込み、温もりを取り戻した手で机の上の胸当てを引き寄せた。
「……ありがとうございます。これなら、最後までやり遂げられます」
◆ーーーー◆
夜が白み始めた頃、砦の中庭は猛り狂う吹雪に覆われていた。
城門の前に整列した哨戒部隊の騎士たちは、これから突入する極寒の死地を前に、誰もが強張った顔で身を縮めている。
その先頭に立つのは、まだあどけなさの残る最年少の騎士、トリスだった。
だぶついた外套の襟を掻き抱きながら、寒さと恐怖で歯の根を合わなくさせている。
「お、おいトリス、震えてんじゃねえぞ」
「ふ、震えてなんかないっすよ! ただ、この風……外に出たら一瞬で声も届かなくなっちまうんじゃ……」
不安に揺れる彼らの前へ、私はニコラスと共に駆け寄った。
抱えていた木箱から、修復を終えたばかりの通信機と、魔力回路を最適化した魔導外套を取り出す。
「トリスさん、これを受け取ってください」
「リディアさん……!? これ、倉庫にあったポンコツの通信機じゃ……」
受け取ったトリスが目を瞬かせる。金属の表面にびっしりと走る繊細な銀の配線は、冷気を吸って微かに青く澄んだ光を放っていた。
私は彼の冷え切った手に通信機をしっかりと握らせ、まっすぐにその瞳を見つめた。
「吹雪に声を奪わせはしません。この通信機は、どんな嵐の中でも皆さんの命をつなぎます」
トリスが息を呑み、震える指で通信機の起動石を押し込んだ。
その瞬間、ザザッという雑音を吹き飛ばし、通信機の拡声水晶から信じられないほど澄み渡った起動音が響き渡った。
『――全哨所、感度良好。吹雪による魔力減衰、一切なし』
壁の上で見張りに立つ兵士の明瞭な声が、暴風の轟音を切り裂いて中庭全体に朗々と響いたのだ。それだけではない。手渡された胸当ての金具に手を触れたトリスが、ぽかんと口を開けた。
「な、なんだこれ……! 吹雪の冷気が当たれば当たるほど、胸当ての金具からポカポカ熱が湧き上がってくるぞ……!? 通信機からも熱が伝わってくる!」
「耐寒増幅回路を組み込みました。外が寒ければ寒いほど、その冷気を取り込んで熱と通信の魔力に変換します。吹雪が続く限り、その装備は絶対に凍りつきません」
私の説明を聞いた瞬間、トリスの大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「うわああああん! 死ななくて済む! オレ、ちゃんと生きて戻ってこられるッ!」
トリスは通信機を胸に抱きしめ、情けない声を上げて私の手を取った。
「女神様だ……! リディアさんはやっぱり砦の守り神っすよ! ありがとうございます、絶対に一番槍で役目を果たしてきます!」
周りにいた屈強な哨戒騎士たちも、手渡された装備の驚異的な温もりに顔を紅潮させ、次々と私に向かって深い敬礼を捧げた。
「隊長、これなら行けます! どんな吹雪だろうが、獣の足音一つ聞き逃しません!」
「よし、出撃だ! 技術者殿が命を吹き込んでくださった装備に泥を塗るな!」
重い城門が軋んだ音を立てて開く。
絶望の色を払拭し、熱い士気に満ちた騎士たちが、猛吹雪の白銀の世界へと力強く駆け出していった。
◆ーーーー◆
遠ざかる部隊の後姿を見送るため、私とルーファス様は見晴らし台の胸壁へと登っていた。
吹き付ける風はナイフのように鋭く、城壁の石を削るような音を立てている。
「……信じられんな」
隣に立つルーファス様が、手元の小型通信機から流れるトリスの元気な定期報告を聞きながら、感嘆の息を漏らした。
「極北の吹雪の中で、一切の歪みもなく声が届く。王都の最高級品ですら成し得なかった快挙だ。お前はまた、この砦の兵たちの命を救ったのだな」
「いえ……私はただ、道具が本来持っていた力を引き出しただけです。寒さの中で戦う皆さんの力になれたのなら、それだけで……」
自分の手を見つめる。油と煤にまみれ、軟膏の匂いが染み付いた指先。
かつては恥と罵られたこの手が、誰かの命を守り、温もりを届けることができた。胸の奥に、確かな誇りと喜びが静かに満ちていく。
だが、その安らぎを破るように――ズズズ、と足元の石壁が低く震えた。
「……っ、地震か?」
「違います、これは……」
私は咄嗟に城門の上部へと視線を向けた。
強固な城門の真上に鎮座する巨大な結晶――三百年以上もの間、沈黙を保ち続けてきた白狼砦の古代防護核だった。
普段は光を失った灰色の結晶にしか見えなかったその内部に、幾筋もの青白い光が亀裂のように走り、不規則に明滅している。
『視える』。
私の目の奥で、停止していたはずの巨大な魔導回路が、激しく軋みを上げながら脈動するのが捉えられた。
それは遠く北の空から押し寄せる、尋常ならざる魔力の渦――大寒波の本隊と、その底に潜む強大な災厄の気配に呼応して、防護核が防衛本能のように唸りを上げているのだ。
キィィィン、と耳鳴りのような高周波が頭蓋を揺らし、核の魔力光が禍々しく跳ねる。
「リディア!」
ルーファス様が素早く私の肩を引き寄せ、己の逞しい身体で風と魔力の衝撃を遮るように庇い立った。彼の鋭い眼光が、明滅を繰り返す城門の上の核を見据えている。
「哨戒隊の危機は凌いだが……どうやら、本番はこれかららしいな」
「はい。あの大寒波の魔力圧に反応して、眠っていた防護核が目覚めかけています。でも、回路のあちこちに滞留があって、このままでは起動の負荷に耐えきれず暴走してしまうかもしれません」
ルーファス様は私の肩を抱く腕に力を込め、迷いのない声で告げた。
「嵐の本隊が来る前に、あの核を調査する。リディア、お前の目であの古代の遺物を解き明かしてくれ。俺が必ず、お前を最後まで守り抜く」
吹き荒れる雪雲の隙間から、紫色の稲妻が砦の影を切り裂いた。
目覚めを告げる古代核の重い脈動が、迫り来る未曾有の嵐との戦いを予感させるように、私の胸の鼓動と重なっていた。




