第5話
夜明けの光が、新しくあてがわれた部屋の床を淡い金色に染めていた。
砦の最上階、東向きに穿たれた大きな硝子窓。これまで冷たい石壁と油の匂いに囲まれて暮らしてきた私にとって、陽だまりが落ちる空間はあまりにも眩しく、爪先の影をぼんやり見つめることしかできなかった。
「……呆けている暇があるなら、手を出しなさい」
低い、けれどどこかぎこちない声音が頭上から降ってきた。振り返ると、団長であるルーファスが、私からわずかに視線を外したまま歩み寄ってくるところだった。その手には昨晩手渡された小さな木箱が握られている。
「団長、これは自分で塗れますので……」
「軍医のクレメンスから、お前は放っておくと自分の体を顧みない質だと聞かされている。余計な遠慮は不要だ」
彼は頑として譲らず、私の躊躇いを遮るように私の右手を取った。戦場で刃を握り続けてきた彼の掌は分厚く、微かに熱を帯びている。私の煤けた指先を、壊れやすい硝子細工でも扱うかのような手つきでそっと支えた。
木箱の蓋が開けられると、清涼な薬草の香りが鼻腔をくすぐった。白濁した軟膏をすくい取り、私のひび割れた関節へ丁寧に塗り広げていく。
「っ……」
「痛むか」
「いえ、冷たくて……とても気持ちがいいです」
王都の公爵邸にいた頃は、油や鉄粉で手が荒れるたびに「見苦しい」「令嬢の肌ではない」となじられ、手袋で隠すことしか許されなかった。誰かにこうして傷を労わられたことなど、生まれて一度もなかった。
「無茶な作業は禁ずる。この工房を預けたのは、お前を酷使するためではない。お前自身の命と尊厳を守るためだ。……いいな」
彫りの深い顔を寄せ、灰青色の瞳で真っ直ぐに見つめられる。その眼差しの奥にある真剣さと、どこか息苦しいほどの熱量に気圧され、私は小さく頷くことしかできなかった。
「はい。ありがとうございます、団長」
部屋にはすでに、頑丈な作業机や真新しい工具立てが運び込まれていた。誰からもガラクタ係と嘲弄されず、ただ純粋に道具と向き合える場所。胸の奥に灯った火が、凍てついていた心をゆっくりと融かしていくようだった。
昼過ぎ、真鍮のノッカーが控えめな音を立てた。扉を開けると、そこには所在なさげに身を縮めた二人の騎士が立っていた。
「あの、技師殿……今、少しだけよろしいでしょうか」
おずおずと声をかけてきたのは、最年少の斥候兵トリスだった。その後ろには、熊のように大柄な副団長のヴォルカーが、抱えきれないほどの黒い布塊と長剣を携えて控えている。
「オレたちの装備、ずっと吹雪でやられっぱなしで……。団長からは無理をさせるなときつく言われてるんですけど、どうしてもこれだけは……」
差し出されたのは、巡回用の魔導外套だった。生地のあちこちが霜でバリバリに凍りつき、冷気の遮断を司るはずの芯材が完全に機能を失っている。ヴォルカーが差し出した魔導剣も、刃こぼれが酷く、刀身に刻まれた補助の線が途切れ途切れになっていた。
「前線の哨戒部隊にとって、外套の機能停止はそのまま凍死を意味します。王都から支給される更新品はどれも粗悪な横流し品ばかりでして……もし、お手を煩わせてもよいのなら」
申し訳なさそうに眉を下げるヴォルカーの指は、かつての凍傷の痕で無骨に変形していた。この人たちは、こんな壊れかけた装備で、あのような猛吹雪の中を命がけで見回っていたのだ。
「すぐに診ます。どうぞ、机の上に」
私は外套を広げ、意識を集中させた。
深呼吸とともに、胸の奥底にある感覚を研ぎ澄ます。視覚を切り替えると、外套の布地が透き通り、内部に張り巡らされた微細な魔力の道筋が、青白い光の繊維となって浮かび上がってきた。
やはり、極寒の冷気によって魔力の循環が結節点で凍りつき、激しい歪みを生んでいる。断線寸前の箇所がいくつもあり、これでは熱が巡るはずもない。
私は指先をそっと生地に添わせ、自身の微弱な魔力を針の糸を通すように滑り込ませた。呪文など唱える必要はない。もつれた毛糸を一本ずつ解いていくように、歪んだ経路を指先でなぞり、正しい流れへと押し戻していく。詰まっていた冷気の澱みがパチリと弾け、一気に熱の脈動が駆け巡った。
「……よし、これで通りました」
作業を終えて顔を上げると、二人は目を丸くして息を呑んでいた。外套は先ほどまでの硬い霜が嘘のように消え去り、ふっくらとした柔らかな質感を取り戻している。
「トリスさん、羽織ってみてください」
促されておずおずと腕を通したトリスは、次の瞬間、跳び上がるように目を見開いた。
「な、なんだこれ……! 風が全然抜けないどころか、羽織った瞬間から陽だまりの中にいるみたいだ! それに、すっげえ軽い!」
「本当か? 貸してみろ」
ヴォルカーが半信半疑で外套の裾に触れると、その強面が驚愕で歪んだ。長年北端の寒さに耐え忍んできた歴戦の副団長が、信じられないものを見るように震えている。
「馬鹿な……新品の最高級品ですら、ここまでの保温力は出ないぞ。魔力の循環抵抗が完全に消えている。これなら、零下の吹雪の中に丸一日晒されても体温を奪われん……!」
続けて魔導剣の刃筋をなぞり、欠けた回路を繋ぎ合わせると、鈍く曇っていた刀身が澄んだ銀色の輝きを取り戻した。握り直したヴォルカーは、武者震いのように喉を鳴らす。
「オレ、もう哨戒で指先が凍りつく恐怖に怯えなくていいんですね……」
トリスは外套を抱きしめたまま、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。赤くなった鼻をすすり、その場にぺたりと座り込んでしまう。
「ありがとうございます、技師殿……! オレ、オレ、一生あなたについていきます! 神様だ、救世主様だ……!」
「ちょ、ちょっと、立ってください! 大げさです、私はただ詰まりを直しただけで……!」
慌てて手を伸ばす私を余所に、ヴォルカーまでもが直立不動の姿勢を取り、深々と頭を垂れた。
「これほど部下の命を救ってくれた技師はいねえ。技師殿、輜重の責任者として心から礼を言う。砦の全員が、あんたの腕に救われた」
顔を真っ赤にした屈強な騎士たちにここまで崇敬の眼差しを向けられ、気恥ずかしさで私の顔まで熱くなってしまった。
夕暮れ時、大広間へ降りていくと、異様な光景が広がっていた。
「技師殿! これ、厨房で焼きたての林檎菓子だ、持っていってくれ!」
「乾燥させた最上質の薪を部屋に運び込んでおいたからな! 煙の出ない特級品だ!」
「肩が凝ったら言ってくれ、いつでも揉むぞ!」
行き交う騎士たちが、次々に私へ駆け寄ってきては頭を下げる。装備の劇的な改善の噂は瞬く間に砦中へ広まったらしく、私の手にはあっという間に菓子や乾肉が山積みにされた。王都では誰も見向きもしなかった私の作業が、ここではこれほどまでに純粋な感謝として返ってくる。
困惑しながら団長室へ報告に向かうと、書類を整理していた彼が顔を上げた。私の両手に抱えられた戦利品を見て、わずかに口元を緩める。
「すっかり砦の英雄だな」
「いえ、そんな……皆さんが大げさなだけです。あ、いただいた軟膏のおかげで、指先も全く痛んでいません」
両手を掲げて見せると、彼は立ち上がり、私の前まで歩み寄ってきた。そして、傷のない私の指先を確かめるように、ごく自然な動作でそっと包み込んだ。
「……ならいい。だが、調子に乗って働きすぎるな。お前が痛めば、砦全体が傷つくのと同じだ」
囁くような声には、指揮官としての配慮を超えた、どこか切迫した独占の色が混ざり込んでいた。誰も近づけさせないと言わんばかりの強い瞳に射抜かれ、胸が不意に跳ねる。
「あ、あの、団長……?」
私が息を呑んだその時、机の上の連絡魔導具が激しい警告音を鳴らした。
通信を担当する兵が慌ただしく紙片を届けてくる。目を通した彼の表情から微温が消え去り、冷徹な軍人の顔へと引き締まった。
「……王都からだ。貴族街の主幹暖房炉が相次いで停止し、大混乱に陥っているらしい」
その報せを聞いた瞬間、私はかつて公爵邸で毎夜行っていた作業を思い出した。あの複雑怪奇な熱源回路は、定期的に魔力の淀みを整えなければ、一月と持たずに閉塞を起こす構造になっていたのだ。
◆ーーーー◆
王都、レスター公爵邸の執務室。
室内を満たすはずの温風は完全に途絶え、隙間風のような冷気が豪奢な絨毯を舐めていた。
「ええい、まだ直らんのか! 錬金術師どもを集めて何時間経っている!」
エドガーは苛立ちを露わにし、銀のゴブレットを暖炉へ投げつけた。甲高い音が響き、冷えた灰が舞い上がる。
「も、申し訳ございません、閣下……! 宮廷の術師たち総出で解析しておりますが、古代の回路が複雑すぎて、誰も手をつけられず……下手に触れれば爆発の恐れがあると……」
「役立たずどもが! あんなガラクタ、あの無能な娘が適当に針金を弄って動かしていただけの代物だろうが!」
寒さに震えながら怒鳴り散らすエドガーの脳裏に、かつて煤にまみれて機械の前にしゃがみ込んでいたリディアの姿がよぎる。
だが、彼は自らの過ちを認めるどころか、青ざめた顔を歪めて憎々しげに吐き捨てた。
「北端の豚小屋で飢え死に寸前のはずだ……。呼び戻しの書状を送れ。戻ってきて平伏するなら、また修理係として使ってやると言えば、泣いて喜ぶに決まっている……!」
◆ーーーー◆
その夜、私は新しく整えられた工房の窓辺に立ち、明日の修復計画を羊皮紙に書き留めていた。机の上には、砦の兵たちが届けてくれた温かい茶が湯気を立てている。
ふと、耳朶を打つ音にペンを止めた。
――ゴオオォォ……ッ。
外壁を叩く風の音が、これまでとは明らかに異なっていた。地を這うような重く低い唸り。遠くの山嶺が軋みを上げ、砦の分厚い石造りの床板が微かに振動している。
「……地鳴り?」
不穏な胸騒ぎを覚えたその時、工房の扉が勢いよく開かれた。マントに氷雪をまとわせた彼が、険しい面持ちで立っていた。
「作業中すまない。……異常事態だ」
足早に窓辺へ歩み寄ってきた彼は、分厚い硝子越しに漆黒の夜空を睨みつけた。
「山脈の北側を巡回していた斥候部隊から緊急連絡が入った。観測史上、前例のない規模の異常大寒波がこちらへ直進している。このままでは、あと数日で砦全域が数メートルの豪雪と万物を凍てつかせる猛吹雪に呑まれる」
「そんな……!」
窓の外を見上げると、夜空を覆う雲が渦を巻き、禍々しい紫色の稲妻が遠雷のように瞬いていた。自然の暴威だけではない。この異常な寒気は、北の果てに眠る災厄が目覚めつつある前兆のようでもあった。
「猛吹雪の中では通常の視界は完全に奪われる。哨戒部隊の命綱となる防護外套の強化と、全哨所を結ぶ通信網の再構築が急務だ。だが、砦に現存する通信魔導具は旧式ばかりで、この極寒に耐えられるか分からない」
彼の張り詰めた声を聞きながら、私はぎゅっと拳を握りしめた。
ようやく手に入れた、私を必要としてくれる温かな居場所。この工房も、笑顔をくれた騎士たちも、絶対に失いたくない。
「通信機を見せてください。倉庫にある古い機材も、すべてここに集めていただけますか」
「……やれるか」
「はい。寒波が砦を呑み込む前に、必ず使えるようにしてみせます」
窓を激しく揺らす暴風の咆哮が、迫り来る危機の大きさを告げていた。
私は手荒れを防ぐ軟膏が馴染んだ指先を確かめ、訪れるべき嵐へと視線を据えた。




