第4話
重厚な鉄の城門が、軋んだ悲鳴を上げて内側へと開かれた。
猛吹雪の白煙を裂いて砦のエントランスへと踏み込んできたのは、豪奢な毛皮に身を包んだ一団だった。先頭に立つ細身の男――王都からの特命監査官、マキシムだ。
彼はいかにも辺境の寒冷地を蔑むように眉根を寄せ、手袋越しに鼻先を押さえながら敷居をまたいだ。
だが、その足が床板を踏みしめた瞬間、男はぴたりと動きを止めた。
「……な、なんだこれは?」
マキシムの口から、呆けたような呟きが漏れる。
外は骨の髄まで凍りつくような氷点下の嵐だというのに、砦の大広間に満ちていたのは、春の陽だまりのような暖気だった。石造りの壁沿いに埋め込まれた循環パイプからは微かな作動音が規則正しく響き、ふわりと温かな湯気が立ち上っている。
それだけではない。奥の厨房から漂ってくるのは、香草と濃厚な干し肉を煮込んだ、食欲を激しく刺激する黄金色のシチューの匂いだった。
「ようこそ、最果ての白狼砦へ。監査官殿」
仁王立ちで待ち構えていたヴォルカー副団長が、地鳴りのような低い声で応対した。
無骨な古参兵の凍てつくような眼光に射すくめられ、マキシムはびくりと肩を跳ね上げる。
「ご、ご苦労。……ふん、吹き溜まりの流刑地と聞いていたが、ずいぶんと無駄に魔力燃料を焚いているようだな。団長室へ案内しろ。貴様らのたるんだ規律を正しに来たのだ」
動揺を取り繕うように胸元を正したマキシムは、足早に石段を上がっていった。
私は作業着の袖を少し引っ張り、油で汚れた指先を隠しながら、静かにその背中を見送った。
執務室の分厚い扉が閉ざされると、張り詰めた沈黙が部屋を支配した。
執務机の奥には、氷狼のような怜悧な双眸を宿したルーファス様が腰掛けている。その両脇を、ヴォルカー副団長と、悔しげに唇を噛みしめるトリスが固めていた。
マキシムは羊皮紙の巻物を仰々しく広げ、尊大な態度で咳払いを一つ落とした。
「単刀直入に申し上げよう、ルーファス団長。此度は王都筆頭公爵家、エドガー閣下直々の監査通達である」
突き出された書類には、見慣れたエドガー様の署名と公爵家の豪奢な刻印が刻まれていた。
「先の婚約破棄に伴い、無能の烙印を押されて追放された厄介者――リディア・アルスターについてだ。あの娘がこの砦へ逃げ込み、貴重な物資を浪費させている疑いがある。此度は砦の帳簿および食糧・燃料の備蓄状況を厳正に監査させてもらう。そのような卑しい穀潰しに、砦の貴重な予算や食費を割くことは一切認められない。即刻、帳簿を開示し、食糧配給を停止して処遇を待てとのことだ」
部屋の温度が、一瞬で氷点下にまで叩き落とされた。
「……おい」
低く唸ったのはトリスだった。まだ幼さの残る顔を真っ赤に染め、腰の短剣の柄をギリリと握りしめている。
「誰がガラクタ係だ……! リディア様がどれだけオレたちの命を救ってくれたか、何も知らねえくせに!」
「黙りなさい、無礼な新兵風情が! 書類上の正当な監査だ! 従わぬというなら、辺境騎士団全体の冬期防衛予算を三割削減するよう王都へ上申するまで――」
言葉の途中で、空気が爆発した。
金属が擦れ合う鋭利な音が重なり、執務室内の全騎士が一斉に抜刀したのだ。
青白い刀身が、マキシムの喉元へ寸分違わず突きつけられる。ヴォルカー副団長の片刃の大剣に至っては、男の首筋の皮一枚を捉えていた。
「ひっ……!?」
悲鳴を上げて尻もちをつくマキシムの視界を、黒い外套が遮った。
立ち上がったルーファス様が、静かに歩み寄る。その歩調には一切の迷いがなく、ただ絶対的な死の気配だけが渦巻いていた。
「……我が砦の客分を、無能と侮辱したな」
氷を削り出したかのような冷徹な声が、執務室の天井を震わせる。
ルーファス様は卓上に置かれたエドガー様の通達書を無造作に掴むと、マキシムの鼻先へ叩き落とした。
「予算の削減だと? 受けて立つ。だがその前に、貴様のその濁った目で、この砦の何がガラクタなのか確かめてくるがいい」
連行されるようにして大広間へ引きずり出されたマキシムは、呼吸すら忘れたように立ち尽くしていた。
砦の地下から引き上げられた湯が満ちる大浴場では、猛吹雪の哨戒から戻った騎士たちが、湯煙の中で極上の笑みを浮かべて手足を伸ばしている。かつては凍傷で指を失う者が続出していた雪山の砦に、湯治場のような活気が満ちていた。
「信じられん……古代の熱魔導配管が、なぜ完全に息を吹き返している……? 王都の特級錬金術師ですら、配線の詰まり一つ直せぬ代物のはずだぞ!」
トリスが誇らしげに胸を張り、マキシムを睨みつけた。
広場にいた屈強な騎士たちが、一人、また一人と無言で歩み寄ってくる。その全員の瞳に宿っているのは、嘲笑に対する怒りと、一人の女性に対する狂信的なまでの忠誠だった。
「リディア様を侮辱する者は、たとえ王都の使者であろうと生きてこの山を下ろさん」
ヴォルカー副団長が地を這う声で言い放つと、百を超える兵士たちが一斉に柄を打ち鳴らし、呼応した。
その圧倒的な威容に、マキシムの膝ががくがくと震えだす。
視線の先、湯気の立つ大厨房の片隅で、私はエプロンを締め、兵士たちに配る焼き立てのパンを並べていた。煤けた袖口を気にしながら、不恰好に笑いかけている私の姿は、王都の貴族令嬢のような華やかさとは程遠い。
けれどマキシムは、その慎ましく手を動かす私の姿に気圧されたように、後ずさりを繰り返した。
「ば、化け物か……。このような神業を、あのような小娘が一人で……?」
深夜。静まり返った執務室へ再び戻されたマキシムは、もはや傲慢な官僚の面影を完全に失っていた。
顔面は蒼白に染まり、床に両膝をついたまま、小刻みに震えている。
机の前に立つルーファス様が、抜刀した愛剣の切っ先を、マキシムの額のわずか数寸前へと突きつけた。
「結論を聞こうか、査察官殿」
冷ややかな宣告が下される。
「リディアは我が白狼砦の至宝であり、騎士団全員の命を繋ぐ要だ。彼女の存在を否定することは、この砦の生存を否定することと同義。我が全責任と全霊をもって彼女を庇護する。この手を害そうとする者は、エドガー公爵令息であろうと、王都そのものであろうと、断固として敵とみなす」
「ひ、反逆……反逆になりますぞ……!」
「敵を討つのが騎士の役目だ。何か不服があるか?」
ルーファス様の双眸に灯る、研ぎ澄まされた殺意。
形式主義の帳簿の中に生きてきた役人が耐えられる圧ではなかった。マキシムの喉から、ひゅうと情けない呼気が漏れる。
「め、滅相もございません……! 通達は誤りでした! 白狼砦の魔導設備は王都の基準を遥かに超えて適正に稼働中であり、技術者リディア殿の処遇には一切の不備なし……! よ、予算削減の件も白紙撤回するよう、私が命に代えて報告書を書き上げます!」
額を床に擦り付け、必死に命乞いをするマキシムの姿に、ルーファス様は静かに剣を鞘へと収めた。
「夜明けとともに立ち去れ。二度とこの地にその濁った目を向けるな」
マキシムは這うようにして部屋から転がり出ていった。重い扉が閉まり、廊下を遠ざかる慌ただしい足音が消え去るまで、私は胸の前でぎゅっと手を握りしめたまま動けずにいた。
◆ーーーー◆
同じ頃、遠く離れた王都のレスター公爵邸では、狂乱の怒声が響き渡っていた。
「火が消えただと!? 馬鹿な、魔石は最高級のものを投入したはずだぞ!」
エドガーは毛皮の寝具を幾重にも羽織りながら、凍てつく暖炉の前で技師たちを蹴り飛ばしていた。
かつてリディアが指先一つで魔力の澱みを解消していた基幹暖房炉は、内部回路が完全に焼き切れ、冷たい黒煙を吐き出す鉄の塊へと成り果てていた。
「も、申し訳ございません閣下! 古代の魔力回路が複雑に入り組みすぎており、現代の技術ではどこが詰まっているのかすら判別できず……!」
「役立たずどもが! 部屋が氷室のようではないか! 早く直せ、凍え死んでしまう!」
豪奢なシャンデリアの下、青ざめた唇を震わせる貴族たち。
自分たちが嘲笑い、追い出した少女が、かつてどれほどの奇跡を無償で施していたのか。その代償の重さに、彼らはまだ気づいてすらいなかった。
◆ーーーー◆
「……リディア」
深く柔らかな声に顔を上げると、執務室には私とルーファス様だけが残っていた。
「あ、あの、ルーファス様……私のために、王都の監査官の方にあんな無茶を……。公爵家を敵に回しては、砦の立場が……」
申し訳なさと不安で胸がいっぱいになり、視線を伏せる。
けれど、近づいてきた大きな影が私の目の前で止まり、そっと膝をついた。
見上げると、あの冷徹無比な剣鬼と同じ人とは思えないほど、痛ましげで温かな光を湛えた瞳が私を見つめていた。
ルーファス様の大きな手が伸びてきて、私の指先を壊れ物を扱うようにそっと包み込む。
「無茶ではない。当然のことをしたまでだ」
彼の手のひらは温かく、私の油や煤で汚れた手を少しも嫌がることなく包み込んでくれた。
「お前のこの手が、凍えかけていた俺たち全員を救ってくれたんだ。理不尽な悪意からお前を守ることすらできなければ、何のための剣だ」
「ルーファス様……」
「もう、自分を卑下するな。お前は俺たちの誇りだ」
真っ直ぐに注がれる熱い言葉が、胸の奥底で燻っていた冷たい澱みを、静かに溶かしていくようだった。
爪の間に残る油の染みも、煤けた服も、ここでは誰一人として嘲笑わない。
むしろ命を繋ぐ尊い証として、受け止められている。
ルーファス様は懐から、手のひらに収まるほどの小さな木箱を取り出し、私の手元へと載せた。
「これは……?」
「薬草を調合した特製の軟膏だ。傷や荒れによく効く。……ずっと、お前の指先が擦り切れているのが気になっていた」
少し気まずそうに視線を逸らしながら告げられた言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
夜が明けるまでの静寂が静かに過ぎ、やがてルーファス様は立ち上がると、私の背を促すように扉へと向かった。
「来い。見せたい場所がある」
案内されたのは、砦の最上階、東側に面した広々とした一室だった。
大きな硝子窓からは、遠くの白銀の峰々と、昇り始めた暁の柔らかな光が差し込んでいる。吹き溜まりの砦とは思えないほど明るく、澄んだ日だまりに満ちた部屋だった。
「明日から、ここをお前の専用工房とする」
ルーファス様は窓辺を振り返り、穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「必要な機材や工具があれば何でも言え。王都の顔色など二度と窺う必要はない。ここは、お前が誰にも脅かされず、腕を振るうための城だ」
差し込む朝日の眩しさに、視界が滲んだ。
抱え込んだ小さな木箱の温もりを指先で確かめながら、私は深く、深く頭を下げた。
寒風吹き荒れる最果ての地で、私はようやく、心から息ができる居場所を見つけたのだった。




