第3話
夜が明けても、白狼砦を包む吹雪は止む気配がなかった。
最上階の客室に差し込む薄青い朝の光の中、私は油染みの残る作業着の袖をまくり上げ、部屋を出た。昨晩、ルーファス様とヴォルカー副団長が告げてくれた力強い言葉は胸の奥で暖炉の火のように燃え続けている。けれど、だからこそじっとしてはいられなかった。
私にできるのは、壊れた道具を直すことだけだ。砦の厄介者にならないためにも、早くこの手で役に立ちたかった。
冷気が残る石造りの廊下を歩き、城の地下に近い大厨房へと向かう。昨晩復旧した配管のおかげで冷え込みは幾分ましになっていたが、厨房の扉を開けた瞬間、思わず足が止まった。
「おいおい、また消えちまったのかい! これじゃ朝の支度どころか湯の一杯も沸かせやしないよ!」
立ち込める白息の向こうで、たくましい腕をまくり上げた赤毛の女性が、大きな鉄釜を前に怒声を響かせていた。白狼砦の台所を一手に預かる料理長、マチルダさんだ。その足元には、数人の炊事番が震えながら、凍りついた木箱から石のように硬い干し肉を削り出そうとしていた。
「マチルダさん、おはようございます。何かあったのですか?」
「あん? ……ああ、あんたが昨夜温水器を直してくれたっていうリディアかい? 見ての通りだよ。冷害のせいで、この大釜の魔導加熱装置が完全に沈黙しちまった。これじゃ兵士たちに氷みたいに冷えた干し肉と固い乾パンを配るしかない。凍傷から戻ってきたばかりの若い子らに、そんなもん食わせられるかいってんだ!」
悔しそうに分厚いエプロンを握りしめる彼女の眼差しには、砦の兵士たちを飢えさせまいとする切実な思いが宿っていた。
私は足早に釜の台座へと歩み寄り、冷え切った青銅の装甲にそっと素手を触れさせた。
意識を集中させ、金属の皮膚の奥へと感覚を潜り込ませる。
視界の裏側に、複雑に編み込まれた太古の魔力回路が淡い光の立体図となって浮かび上がった。王都の貴族たちがただの金属塊として扱う古代の遺物も、こうして見つめれば、生きた血管のように緻密な道筋を持っている。
(……やっぱり。配管の亀裂から吹き込んだ冷気と、古い油煤が混ざり合って、熱の伝達弁を完全に塞いでいるんだわ)
故障の核は明白だった。術式そのものが壊れているわけではない。長年の煤が冷気で凍りつき、魔力の血流を止めてしまっているだけだ。
「マチルダさん、少しだけ触らせてください」
「え? ちょ、ちょっと、素手で触ると凍傷に……」
制止の声を背に、私は指先に微細な魔力を集めた。呪文も詠唱も必要ない。詰まりを起こしている弁の隙間に、針を通すように極小の魔力の波を滑り込ませる。
凍りついた油煤を内側から振動させ、魔力の循環を本来の正しい道筋へと押し戻すように、優しく、けれど断固として歪みを解きほぐしていく。
カチ、と金属の奥で小さな歯車が噛み合う澄んだ音が響いた。
次の瞬間、ぶわりと青銅の隙間から熱風が噴き出し、大釜の底に鮮やかな黄金の魔導炎が立ち上った。ゴオオオ、と頼もしい重低音が厨房の石壁を震わせ、凍りついていた鉄肌が一気に霜を溶かし、温かな蒸気を立ち上らせる。
「ひ、火が……! あの大釜の強火が戻ったよ!」
マチルダさんが目を丸くし、弾かれたように叫んだ。
「す、すごい……! 数ヶ月も微熱しか出なかった大釜が、一瞬で!?」
「今です、マチルダさん! 熱が回っているうちに具材を!」
「ああ、そうだとも! 野郎ども、突っ立ってないで野菜と肉を放り込みな! 今朝は数カ月ぶりの、湯気の立つ温かいシチューだよ!」
厨房中が一瞬で沸き立ち、歓声が上がった。
切り分けられた塩漬け肉と根菜が釜に放り込まれ、香ばしい脂の匂いとハーブの香りが、真っ白な湯気とともに廊下へと溢れ出していく。
「リディア様ァッ! うわああん、いい匂いがすると思ったら、やっぱりリディア様のおかげっすね!」
開け放たれた扉から、包帯を巻いたトリスが転がり込んできた。その後ろには、鼻をひくひくさせた当直明けの騎士たちが、吸い寄せられるようにぞろぞろと集まってくる。
「ほらトリス、走るんじゃないよ! リディア、あんたはこっちにお座り! 一番に食べてもらわなきゃ、あたしの気が済まないよ!」
マチルダさんは私の手を引き、厨房の特等席の椅子へと強引に座らせた。
◆ーーーー◆
砦の食堂は、まるで祝祭のような熱気に包まれていた。
長机の上に並べられた木椀からは、もうもうと真っ白な湯気が立ち上っている。柔らかく煮込まれた塩肉と、甘みを引き出された根菜のシチューを口に運んだ屈強な騎士たちが、次々と固まり、そして目頭を押さえた。
「うまい……温かいぞ……」
「噛める……肉が柔らかい……! こんな飯、いつ以来だ……!」
髭面の古参騎士が、震える手でスプーンを握りしめ、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。隣の席では、トリスが椀に顔を突っ込まんばかりの勢いでシチューをかき込んでいる。
「リディア様、本当にありがとうございます……! 温かい風呂の次は、こんな美味い飯まで食わせてもらえるなんて、オレ、もう砦で死んでも悔いはないっす……!」
「死ぬなんて言っちゃ駄目よ、トリス。ちゃんと食べて、生きるために体力をつけるの」
「はいっ! オレ、一生リディア様についていきます!」
純真な瞳で拝むように言われ、私は頬を掻いた。私にとっては、詰まった汚れを押し流しただけの簡単な作業に過ぎない。こんなにも大袈裟に感謝されると、穴があったら入りたくなってしまう。
「リディア。お前の分だ。しっかり腹に入れておけ」
低く太い声とともに、私の前にどすんと巨大な深皿が置かれた。見上げると、輜重の責任者であるヴォルカー副団長が、仏頂面に微かな温もりを宿して立っていた。皿には、山盛りのシチューと焼きたてのパンがこれでもかと盛られている。
「あ、あの、ヴォルカー様、私には少し多すぎます……」
「減らすことは許さん。お前は昨夜から働き詰めだ。ただでさえ細い腕が、これ以上擦り切れてたまるか。食うのも修理係の重要な任務のうちだ」
「そうだよリディア、残さず平らげちまいな! あんたが倒れたら、この砦の全員が困るんだからね!」
厨房から顔を出したマチルダさんまで加勢し、私は押し切られるようにスプーンを手に取った。熱々のシチューを口に含むと、滋味深い旨味が冷えた体にじんわりと染み渡っていく。
その温もりに胸が詰まりそうになったとき、食堂の入り口が静かに開いた。
ざわめいていた大広間が、さっと波を打つように静まる。現れたのは、黒い毛皮の外套を羽織ったルーファス様だった。
冷徹と恐れられる辺境騎士団長は、湯気に満ちた食堂と、部下たちの生き生きとした笑顔をゆっくりと見渡した。そして、私の前に歩み寄ると、その厳格な眉根をわずかに緩めた。
「……美味そうだな」
「団長! リディア様が厨房の大釜を直してくださったんです! 団長も早く食べてください!」
トリスが無邪気に声を上げる。ルーファス様は私の手元に目を落とし、私の指先が煤で汚れているのを見て取ると、低く息を吐いた。
「朝早くから動いていたのか。……無茶をするなと言ったはずだが」
「申し訳ありません、ルーファス様。ですが、皆さんが冷たい食事で苦しんでいるのを見て、どうしても放っておけなくて……」
私が恐縮して俯くと、頭上に大きな手のひらがそっと置かれた。手袋越しではない、硬く逞しい指の温もりが、私の髪を優しく撫でる。
「責めているのではない。お前のおかげで、兵たちの目に光が戻った。……心から礼を言う」
深く響く声に込められた真摯な響きに、胸が跳ねる。
こんな風に、自分の技術を真っ直ぐに認められ、必要とされることなど、王都にいた頃には一度もなかった。
◆ーーーー◆
一方、遠く離れた王都――レスター公爵邸の豪奢な執務室では、怒号が壁を震わせていた。
「役立たずどもが! なぜ宮廷の主暖房炉が動かんのだ! 貴様ら、宮廷お抱えの錬金術師を名乗る資格などないぞ!」
豪奢な刺繍の上着を乱したエドガーは、執務机を激しく叩きつけた。足元には、平伏して震える老技師たちの姿がある。
「も、申し訳ございません、エドガー閣下! 古代の炉核に満ちていた魔力循環が突如乱れ、熱源の制御弁が完全に焼き付いてしまいまして……我々の手には負えません!」
「言い訳は聞き飽きた! 国王陛下からも寒さでお叱りを受けているのだぞ! いいから今すぐ動かせ! 魔法薬を注ぎ込むなり、火属性の魔石を倍量詰め込むなりすれば済む話だろう!」
エドガーは苛立たしげに美髪を掻きむしった。
屋敷の中も、宮殿も、ここ数日で急速に底冷えが厳しくなっていた。床暖房は停止し、温風の吹き出し口からは時折不吉な黒煙が噴き出す始末だ。
かつては、何もしなくても常に最適な温度が保たれていたというのに、なぜ今になって次々と不具合が起きるのか。
――まさか、あいつが手入れを怠っていたからか?
脳裏に、いつも煤まみれで屋敷の地下に潜り込んでいた元婚約者、リディアのみすぼらしい姿がよぎる。だがエドガーは、吐き捨てるようにその考えを打ち消した。
「馬鹿馬鹿しい。あのガラクタ弄りの落ちこぼれに、大掛かりな炉の構造が理解できるはずがない。ただ適当に煤を払って小間使いの真似事をしていただけだ」
そこへ、冷え切った部屋に身を縮こまらせた従僕が、青ざめた顔で報告書を差し出してきた。
「か、閣下……白狼砦へ送った、予算削減とリディア様の生活費に関する通達の件ですが……」
「ふん、あの蛮族どもめ、青ざめて泣きついてきたか? 中央の金で厄介者を養う余裕などないと思い知っただろう」
「そ、それが……白狼騎士団長ルーファスは通達を完全に無視し、リディア様を手厚く遇しているとの報が……」
「何だと!?」
エドガーは報告書をひったくり、怒りに顔を歪めてそれを破り捨てた。公爵家たる自分の命を、最果ての守備隊風情が握り潰したという事実に、激しい屈辱が込み上げる。
「思い上がりおって、辺境の野蛮人どもが……! このレスター公爵家の決定に楯突くとはいい度胸だ。……おい、書記官を呼べ!」
「は、はいっ!」
「公爵家直属の監査官を今すぐ白狼砦へ送り込め! 中央への反逆と横領の疑いで、砦の帳簿も備蓄も隅々まで徹底的に洗い出させるのだ。あの無能女を囲っている罪を突きつけ、極寒の牢獄で己の無力に泣き叫ばせてやる!」
エドガーは冷酷な笑みを浮かべ、昏い愉悦に口元を歪めた。
◆ーーーー◆
夕暮れ時、白狼砦の団長執務室の空気は、張り詰めた氷のように凍りついていた。
「……ふざけるのも大概にしやがれッ!」
ヴォルカー副団長が怒声を轟かせ、太い拳で執務机を軋ませた。斥候部隊からもたらされた急報を受け、隣に立つマチルダさんも憤怒に顔を真っ赤に染めている。
「先に送ってきた理不尽な通達を突っぱねられたからって、今度は公爵家直属の監査官を差し向けてくるなんて……! あの子を追い出しておいて、どこまで嫌がらせを重ねれば気が済むんだい! リディアがどれだけ砦を助けてくれたか、何一つ知りもしないで!」
「落ち着け、ヴォルカー、マチルダ」
ルーファス様の氷のように静かな声が、執務室の激情を制した。
団長は冷徹な眼差しを崩さず、静かに私を見つめた。私に対する王都の執拗な悪意と、砦を揺さぶるための監査官派遣という強硬手段に対し、その瞳の奥には揺るぎない覚悟が宿っている。
「ルーファス様……私のせいで、また砦が王都から目をつけられて……」
私が唇を噛みしめて俯くと、ルーファス様はわずかに首を横に振った。その灰青色の瞳には、かつてないほど濃密で力強い光が満ちていた。
「お前が頭を下げる必要はどこにもない、リディア。お前の居場所も、この砦の誇りも、すべて俺の命と剣にかけて守り抜く。奴らにお前の髪一本、触れさせるつもりはない」
「団長……」
「ヴォルカー、兵たちに通達しろ。砦の備蓄も帳簿も、王都の犬どもに好き勝手させるな。リディアは我が騎士団の至宝であり、守るべき誇りだ」
ルーファス様の宣言に、ヴォルカー副団長が力強く胸を叩いて応じる。
だがその時――。
けたたましい警戒の鐘の音が、夕闇に染まる砦の空を切り裂いた。
ドタドタと荒々しい足音を立てて、トリスが息を切らしながら執務室の扉を押し破るように飛び込んできた。
「だ、団長! 大変っす! 物見櫓から急報!」
「何事だ。魔獣の群れか?」
「違います! 王都の紋章を掲げた馬車の一行が……! 猛吹雪を突いて、今、白狼砦の正門前に到着しました! エドガー公爵令息が送り込んできた査察官です!」
室内の空気が一瞬にして凍りついた。
あまりにも早い。知らせの到着とほぼ同時に、強権を振りかざす査察官本隊が砦の喉元にまで到達していたのだ。
「……もう来やがったのか」
ヴォルカー副団長が腰の剣の柄に手をかけ、マチルダさんが私の前に庇うように立ち塞がる。
ルーファス様は静かに立ち上がり、黒い外套を翻した。その冷徹な横顔には、理不尽な侵略者を迎え撃つ獰猛な獣の光が宿っていた。
城門の外から、横柄に鳴り響く馬車の警笛と、冷たい吹雪の唸り声が響いてくる。
温もりを取り戻したはずの白狼砦に、王都の悪意を乗せた不穏な嵐が、容赦なく吹き荒れようとしていた。




