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第2話

城門の頂で青く脈打っていた光は、吐息を吸い込むようにすっと収まり、砦はふたたび深い闇へと沈んだ。


胸の奥に残る微かな痺れを指先で押さえながら、私は息を呑む。

ただの偶然だろうか。それとも、私の『構造透視』が、あの巨大な石の奥底にある回路に触れてしまったのか。答えの出ない問いを抱く間もなく、軋んだ金属音が夜気を裂いた。


凍りついた鎖が巻き上げられ、分厚い鉄門が重々しく開いていく。


「無事の帰還、ご苦労だった」


開かれた門の先に、松明の火に照らされた一人の騎士が立っていた。

黒鉄の甲冑の上に、白銀の狼を象った分厚い毛皮を羽織っている。氷を削り出したかのような彫りの深い顔立ちと、射抜くような灰青色の瞳。彼がそこに立っているだけで、吹き荒れる吹雪すら気圧されているように見えた。


白狼騎士団長、ルーファス・グレイアム様。

王都でも「氷雪の剣鬼」と噂される、辺境最強の軍人だ。


「団長! よくぞ出迎えてくださった!」


ヴォルカー副団長が雪を蹴って駆け寄り、胸に拳を当てて敬礼する。

ルーファス様はその視線を緩めることなく、部隊の最後尾にいた私へと冷然たる眼差しを向けた。


「……その者が、王都から送られてきたというアルスター伯爵家の娘か」

「は、はい。リディア・アルスターと申します」


私はドレスの裾を揃え、頭を下げた。

公爵邸を追い出された時のままの薄汚れた格好に、爪の間の油染み。名門貴族の令息である団長の目には、酷くみすぼらしく映っているに違いない。


「単刀直入に言おう。ここは王都の温室とは違う。華奢な貴族の令嬢が務まるような甘い場所ではない。明日には王都へ送り返す手配を――」

「お待ちください、団長!」


低く厳格な宣告を遮ったのは、団長の前では口を慎むはずのヴォルカー副団長だった。

大柄な体を割り込ませ、ルーファス様の眼前で必死に頭を下げる。


「このリディア様を追い返すなど、とんでもねえことです! 俺たちが猛吹雪の中で立ち往生し、凍死寸前だったところを救ってくださったのは、このお方なのです! 完全に壊れ果てていた大型加熱炉を、たった一人、素手で一瞬のうちに直してくださらなければ、俺たち補給部隊は全員あの雪山で骨になっていました!」

「……素手で、大型加熱炉を?」


ルーファス様の眉がわずかに動いた。

信じられない、といった様子で私を見る。


「誰でも、構造さえ見えればできる作業です……。私など、ただのガラクタ修理係ですから」


王都で毎日のように浴びせられた言葉が、無意識に口をついて出る。

その時、大広間へと続く回廊の奥から、慌ただしい足音が響き渡った。


「どいてくれ! 急患だ、道を空けろ!」


担架を抱えた兵士たちが雪崩れ込んできた。その上には、まだ年若い少年騎士がぐったりと横たわっている。


「トリス!?」

「哨戒中に雪庇を踏み抜いて……装備の加護が切れて低体温症です! 手足の感覚も完全に消えている!」

「すぐに医務室へ運べ! 熱い湯を用意しろ!」


白衣の上に毛皮ベストを羽織った無精髭の男――軍医のクレメンス様が叫びながら走ってくる。だが、担架を運んできた兵士は絶望に顔を歪めて叫び返した。


「湯なんてどこにもありません! 地下の供給機は、もう何十年も凍りついたままで……!」

「くそっ、今から雪を沸かしていては手遅れになるぞ!」


トリスと呼ばれた少年の唇は紫色に変色し、荒い息を吐きながら小さく震えていた。このままでは凍傷が壊疽し、命すら危うい。


「案内してください」


私の足は、考えるよりも早く動いていた。


「なっ……リディア嬢!?」

「お湯が出れば、この方を救えるのですね? 地下の機械室へ連れていってください!」


私の剣幕に圧されたのか、兵士の一人が無我夢中で地下へと続く階段を指差した。

私はドレスの裾を乱暴に持ち上げ、冷気が吹き上がる暗い石段を駆け下りた。


地下深くの機械室は、まるで氷窟のようだった。

部屋の中央に鎮座しているのは、青黒い古代金属で造られた巨大な装置――古代温水供給機だ。壁一面に張り巡らされた送水管はすべて分厚い霜で覆われ、太古の遺物は死んだ巨獣のように沈黙していた。


駆けつけたルーファス様とクレメンス様が息を呑む。


「無駄だ、リディア嬢。それは砦が築かれた当初からある古代遺物だ。王都から派遣された錬金術師たちですら、内部の回路が複雑すぎて手が出せず、数十年放置されている。今すぐ動くはずが――」

「いいえ、動きます」


私は手袋を脱ぎ捨て、凍結した装甲へ素手を押し当てた。


――視える。


『構造透視』が発動した瞬間、金属の外殻が透き通るような感覚に包まれる。

内部に刻まれた無数の極小魔力回路が、淡い光の立体図となって頭の中に広がった。三次元的に絡み合う美しい幾何学模様。だが、熱源となる心臓部の直前で、何十年分もの不純物と冷気が澱み、魔力の流れを完全に塞ぎ止めていた。


まるで、血管に血栓が詰まっているかのようだ。


「壊れているんじゃない……寒さで、息が詰まっているだけ」


呪文も詠唱もいらない。私は自身の魔力を指先へ集め、細い針のようにして装甲の隙間へと滑り込ませた。

詰まりの原因となっている冷気の核を探り当て、魔力の先端で優しく、けれど正確に弾く。


パキン、と頭の奥で小気味よい音が響いた。


閉塞が解かれた瞬間、滞留していた膨大な熱魔力が一気に解放され、網の目の回路を駆け巡る。


ゴォォォォォッ――!!


部屋全体が震動するほどの重低音が轟いた。

青黒かった古代金属の表面に、鮮やかな橙色の光条が幾筋も浮かび上がる。氷が砕ける鋭い音が連続し、分厚い霜が瞬く間に水滴へと変わって蒸発していく。


カチ、コチ、と規則正しい歯車の音が刻まれ、送水管の奥から激しい水流の音が響き渡った。


「なっ……魔力圧が上昇している!? 熱が……循環しているのか!?」


クレメンス様が目を見開き、信じられないものを見るように叫んだ。

その直後、頭上の配管から心地よい振動が伝わり、砦のあちこちから歓声が響いてきた。


「湯だ! 蛇口から熱い湯が噴き出してきたぞ!」

「暖房用の送風口から、温かい風が……! 砦中があったけえ!」


機械室の扉が勢いよく開き、毛布にくるまれたトリスを抱えた兵士が叫んだ。

湯気を立てる樽に浸されたトリスは、血色を取り戻した顔から大粒の涙をこぼしていた。


「あったかい……オレ、生きてる……! 指が、動くよ……!」

「トリス……! よかった、本当によかった……!」


屈強な騎士たちが、湯気の中で互いの肩を抱き合い、子供のように泣き崩れている。

彼らは次々に私を振り返ると、床に膝をつき、祈るように両手を合わせてきた。


「女神様だ……数十年誰も直せなかった神の機械を、一瞬で……!」

「リディア様! あんたは俺たち白狼騎士団の恩人だ!」


「そ、そんな……拝まないでください! 私はただ、詰まりを通しただけで……!」


過剰な崇敬に慌てふためき、後ずさろうとした私の手首を、誰かがそっと掴んだ。

見上げると、ルーファス様が至近距離に立っていた。

その怜悧な瞳には、先ほどの冷たさは微塵もなく、息を呑むほどの真摯な熱が宿っていた。


「……すまなかった、リディア」

「え……?」


ルーファス様は私の黒く煤けた右手を、冷え切った自らの両手で包み込んだ。無骨で傷だらけの手のひらから、震えるような感謝が伝わってくる。


「この砦を救ったのは、お前のその尊い手だ」


低く、けれど心の芯まで響く声だった。


「俺たちは王都から見捨てられ、粗悪品を押し付けられ、寒さに凍える部下を見ていることしかできなかった。お前が来てくれなければ、今夜、トリスは死んでいた……。俺の無力でお前を侮辱した非礼を、どうか許してほしい」

「団長様……」


「お前を厄介者として扱うことなど二度とない。この砦で最も日当たりの良い最上階の客室を使え。お前が望む道具も、専用の工房も、すべて俺が用意する」


油と煤にまみれた私の手を、彼は宝物でも扱うかのように優しく包み込み、誓うように言った。

王都で否定され続けてきた自分の手が、誰かの命を救い、こんなにも必要とされている。胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲んだ。


◆ーーーー◆


王都・レスター公爵邸。

エドガーは執務机の前で、苛立たしげに羽ペンを放り出した。


「……おい、部屋がやけに冷えるではないか! 暖房はどうなっている!」


控えていた執事が青ざめた顔で頭を下げる。


「も、申し訳ございません。基幹暖房の魔導炉から微かな異音が響いておりまして……温度が上がりきらないのです。現在、お抱えの錬金術師に調整を命じておりますが……」

「役立たずめ! あんなものは魔力粉末を注ぎ込めば動くはずだろう! あのガラクタ修理女がいなくなって清々したというのに、なぜ不具合が出るのだ!」


エドガーは忌々しげに舌打ちをし、机の上の書類を睨みつけた。

白狼砦への人員移籍に関する監査通達だ。


「……辺境の蛮族どもめ。公爵家の恥さらしを押し付けてやったというのに、礼状の一つも寄越さんとはな。いいだろう、無能なガラクタ修理係の食費など、砦の予算から削ってやればいい。あの女の泣きつく顔が目に浮かぶようだ」


傲慢な笑みを浮かべ、エドガーは署名を書き殴った。


◆ーーーー◆


最上階の客室は、かつて王都で与えられていたどんな部屋よりも温かかった。

修復された温風管から心地よい熱が流れ込み、柔らかなベッドが用意されている。


「リディア様、お休み中申し訳ありません」


ノックとともに現れたのは、険しい表情を浮かべたルーファス様とヴォルカー副団長だった。

ルーファス様の手には、王都の公爵家から届いたばかりの早馬の書状が握られている。


「王都の元婚約者……エドガーから、通達が届いた」


ルーファス様が読み上げた内容は、あまりにも理不尽なものだった。

『無能な修理係を押し付けられた迷惑料として、砦の支給予算を削減し、リディアの生活費は砦の防衛費から捻出せよ』という、露骨な侮蔑と嫌がらせ。


「……私のせいで、砦の皆様に迷惑が……」


私が俯きかけた瞬間、ルーファス様の手の中で羊皮紙が握り潰された。

その灰青色の瞳に、凍てつくような冷気と、部下を理不尽に脅かされた指揮官の激しい怒りの炎が灯っていた。


「迷惑なものか。あいつらは、自分たちが何を手放したのかすら理解していない」


ルーファス様は私を見つめ、静かに、けれど絶対に揺るがない声で告げた。


「お前は俺たちの至宝だ。王都の愚か者どもに、指一本触れさせはしない」


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