第1話
筆頭公爵邸の大広間は、百を超える魔導燭台の白い光に満たされていた。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑している。その華やかな輪の真ん中で、私の婚約者であるエドガー様が、冷ややかな視線を私に向けていた。
「……聞こえなかったのかい、リディア。君との婚約は今この瞬間をもって破棄させてもらう」
エドガー様の通る声が、ざわめく楽の音を断ち切った。
広間の視線が一斉に突き刺さる。冷笑と嘲りの色が、波のように寄せては返す。
「そんな……エドガー様」
「見苦しい言い訳はよしたまえ。君はいつも爪の間に油の染みを残し、煤の匂いを漂わせている。今夜の夜会すら、どこかの歯車をいじっていたのだろう? そんな卑しい修理屋の真似事ばかりして、女を捨てた者を我が公爵家に迎えるなど、恥さらしも甚だしい」
周囲からくすくすと忍び笑いが漏れた。
視界の端で、薄桃色のドレスを着た男爵令嬢がエドガー様の腕にそっと手を添え、私を哀れむように見つめている。
「君のようなガラクタ弄りしか能のない娘は、極寒の北端で冷え切った鉄屑でも数えているのがお似合いだ。白狼砦への左遷人事を手配しておいた。今夜のうちに王都から出ていきたまえ」
追放の宣告だった。魔獣蠢く最前線、王国で最も過酷と恐れられる雪の砦。
誰も庇ってはくれない。公爵家の屋敷中の魔導具や、宮殿の送風機を夜な夜な調整し続けてきた私の作業など、彼らにとってはただの気味の悪い道楽に過ぎなかったのだ。
私の指先は確かに油の匂いが消えないし、華やかな社交界の作法も上手にこなせない。エドガー様の言う通り、私は公爵家にふさわしい令嬢ではなかった。
「……かしこまりました。今まで、ありがとうございました」
私は震える膝を押さえ、深く頭を下げた。
右の手のひらには、エドガー様のために昨夜徹夜で狂いを正した銀の懐中時計があった。強く握りしめすぎたせいで、冷たい金属の角が皮膚に深く食い込み、わずかに血が滲んでいる。けれど、胸を埋め尽くす冷たい虚無感のせいで、痛みなど欠片も感じられなかった。
背中に浴びせられる嘲笑の波をかき分け、私は一人、広間を後にした。
深夜の街道口には、粉雪が舞い始めていた。
用意されていたのは、貴族の乗るものとは思えない簡素な荷馬車が一台。御者台の前に立ち尽くす私の足音を聞きつけて、暗がりから息を切らした人影が駆け寄ってきた。
「お嬢様! リディアお嬢様!」
「オットー……? どうしてここに」
現れたのは、アルスター家に長年仕えてくれている老従者のオットーだった。彼は背負い袋を一つ抱え、私の前に膝をついた。
「私もお供いたします。白狼砦であろうと、世界の果てであろうと」
「だめよ、あそこは命の保証もない極寒の地よ。あなたは王都に残って、暖かいところで暮らして……」
「滅相もございません」
オットーは私の言葉を遮り、私の煤けた両手をそっと包み込んだ。皺の刻まれた手が、激しく震えている。
「お嬢様のこの手は、城中のどの令嬢の手よりも尊い奇跡の手でございます。道具の痛みに寄り添い、人知れず街の火を灯し続けてこられた……それを見抜けないあの方々の目が、あまりにも曇っているだけにございます」
老従者の目からこぼれ落ちた大粒の涙が、私の甲を温かく濡らした。
ぎゅっと胸が締め付けられる。
幼い頃、亡き母の形見だった小さなオルゴールが壊れたとき、私はどうしても諦められなくて、泣きながら部品を一つずつ磨いた。そのとき初めて、金属の奥に流れるかすかな魔力の線が、立体的な光の網となって頭の中に浮かび上がったのだ。
道具には、それを作った職人の願いと、日々使う人々の暮らしが宿っている。だから見捨てたくない。その一心で手を動かしてきた。
誰からも理解されず、恥だと罵られた私の技術を、この人はずっと見ていてくれた。
「ありがとう、オットー。一緒に行ってくれる?」
「勿論にございます。さあ、馬車へ」
凍りついていた心の奥に、小さな火が灯るのを感じながら、私は粗末な馬車の座席へと腰を下ろした。
◆ーーーー◆
その頃、筆頭公爵邸の地下深くにある中央熱源室では、微かな異音が響いていた。
リディアが去ったその部屋で、巨大な魔導炉の計器がわずかに針を震わせ、青白い輝きを鈍らせていたが、祝杯をあげるエドガーたちがそれに気づくことはなかった。
◆ーーーー◆
翌日の夕刻。馬車が進むにつれて雪は猛吹雪へと変わり、視界は白一色に閉ざされていた。
馬車の車輪がきしむ音を立てて止まったのは、曲がりくねった山道の中腹だった。前方に、何台もの輜重馬車が立ち往生しているのが見える。
「お嬢様、前方の部隊が難儀しているようでございます」
オットーの声に促されて外へ出ると、突き刺すような冷気が肌を刺した。吐く息が一瞬で凍りつきそうな極寒の中、数人の兵士が雪の上に倒れ込んでいた。
彼らの中心に据えられているのは、荷台に積まれた巨大な鉄の塊――遠征用の大型加熱炉だ。本来なら周囲数千歩を温めるはずの防寒魔導具が、完全に沈黙し、分厚い霜に覆われていた。
「くそっ、火種すら起きねえ! このままじゃ砦に着く前に、補給部隊全員が凍死しちまうぞ!」
怒声を張り上げているのは、熊のように大柄で強面な騎士だった。頬に深い傷痕を持つその男は、凍傷で紫になった手で炉を叩いている。
「副団長、もう魔力粉末も底を突きました! これ以上の点火は不可能です!」
「諦めるな! 砦の連中が待ってる食糧なんだぞ! 動け、動いてくれ……!」
絶望に染まった叫びが、風の音に掻き消されそうになる。
私は気がつくと、ドレスの裾をぎゅっと持ち上げ、雪を蹴って走り出していた。
「お嬢様!?」
「待ってください!」
オットーの制止を背に、私は凍える兵士たちの輪へと飛び込んだ。強面な騎士――ヴォルカー副団長が、血走った目で私を振り返る。
「あぁ!? なんだ貴様、王都の小娘が何の用だ! ここは貴族の遊び場じゃねえ、死にてえのか!」
「加熱炉の調子を見せてください!」
「はあ!? 見せるだと!? 王都の技師すら匙を投げた代物だぞ、素人が触ってどうにかなる代物じゃ――」
怒鳴りつけるヴォルカー副団長の声を無視し、私は手袋を脱ぎ捨てて、素手を炉の冷え切った外殻に押し当てた。
肌を刺すような冷気の痛みが走る。だが次の瞬間、私の意識は機械の深奥へと潜り込んだ。
固有能力『構造透視』。
冷たい鉄の殻が透明になり、内部に張り巡らされた複雑怪奇な魔力回路が、淡い光の立体模型となって頭の中に浮かび上がる。現代の職人には分解すらできない古代様式の配管設計だ。
「……ひどい。魔力鉱石の燃焼滓が、第三循環路の弁に固着してる。逆流した冷気が基盤の熱核を締め上げて……苦しかったわね」
私は呟きながら、自らの魔力を指先へと集めた。呪文などいらない。ただ、詰まった血流を指で優しく揉み解すように、極細の魔力針を回路の歪みへと滑り込ませる。
引っかかっていた魔力の澱みを、右へ半回転、奥へ三寸押し込む。
パチン、と。
硬質で清澄な音が、金属の奥底で小さく弾けた。
「おい、何をして――」
ヴォルカー副団長が私の肩を掴もうとしたその瞬間。
ゴォォォォォォンッ!
腹の底に響く重厚な駆動音が、沈黙していた炉の心臓から鳴り響いた。
凍結していた外殻の霜が一瞬で蒸発し、白い蒸気が爆発的に吹き上がる。次の瞬間、炉のスリットから吹き出したのは、澄み渡るような青い温風だった。
熱波が円状に広がり、周囲の雪を一瞬で溶かしていく。凍てついていた山道が、まるで春の陽だまりのような暖かさに包まれた。
「な……っ!?」
ヴォルカー副団長が言葉を失い、目を見開いた。
倒れ伏していた兵士たちが、信じられないものを見るように顔を上げ、自らの掌を見つめている。
「温かい……? 嘘だろ、何十年も騙し騙し使って、王都の技師すらお手上げだった老朽炉だぞ!?」
「新品どころじゃねえ、煙一つ出ないでこんな熱量が……!」
兵士たちから、嗚咽のような歓声が上がった。凍傷で震えていた若い兵が、膝から崩れ落ちて雪の上に突っ伏す。
ヴォルカー副団長は、信じられない面持ちで炉と私を交互に見つめ、それからドスンと大きな音を立てて、その場に両膝をついた。
「あ、あの……副団長様?」
「……すまねえ、本当に、すまねえ……!」
強面の武人が、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしていた。
彼は私の煤で汚れた手を、壊れ物を扱うように両手で包み込み、額を擦り付けるようにして深く頭を下げた。
「俺たちは見捨てられたと思ってた……型落ちのガラクタを押し付けられて、仲間を寒さで殺すところだったんだ。あんたは、俺たちの命を救ってくれた。この恩は、死んでも忘れねえ……!」
周りの兵士たちも、涙を拭いながら次々と私に向かって敬礼を捧げている。
王都では誰からも向けられなかった、純粋な感謝と敬意の眼差し。
私の胸の奥で、小さく灯っていた火が、確かな温もりとなってじんわりと広がっていくのを感じた。
自分の手は、決して無駄なものじゃなかったのだと、生まれて初めて思えた。
加熱炉の熱に守られながら、私たちは補給部隊の先導を受け、山道を登りきった。
夜の闇の中、猛吹雪の向こう側にそびえ立つ巨大な影が見えてくる。
切り立った氷壁と黒鉄の巨岩で築かれた、難攻不落の要塞――白狼砦だ。
城門は凍結し、威圧的な冷気を放っていた。
だが、馬車が門の前に差し掛かったその時だった。
ドクン――ッ。
鼓動のような衝撃が、私の胸を激しく揺さぶった。
「……っ!?」
思わず胸元を押さえて砦の頂を見上げる。
巨大な城門の最上部、氷に閉ざされた尖塔の奥に、人の背丈ほどもある結晶が埋め込まれていた。あれは――失われた古代技術で作られた巨大防護核だ。
三百年前に機能を停止し、二度と目覚めることはないとされていたその古代遺物が、私の『構造透視』に引き寄せられるように、激しく脈動していた。
トクン、トクン、と。
まるで永い眠りから揺り起こされ、救いを求める心臓のように。
凍てついた闇の底から、澄み渡るような青い光が、砦の夜空を静かに照らし始めていた。




