七十五話:まだ俺は男だ
岩棚の奥へ入ると、乾いた土の上に爪跡が残っていた。
縁にあったものと同じ大きな跡だ。だが、そのすぐ横には半分ほどしかない小さな跡も並んでいる。
「これは……同じ龍じゃないですよね?」
俺の疑問を受けて猟師がしゃがみ込み、二つの爪跡へ手を当てた。
「大きさも歩幅も違う。別の個体だな」
「風龍がもう一頭いるということか?」
アルヴィンの問いに猟師は頷いた。
「おそらくな。岩棚の奥まで歩いた跡がこれだけ残っているなら、まだ空を飛べないんじゃないか?」
小さな跡は岩棚のさらに奥へと続いている。つまり、それだけの距離を歩いているってことだ。
「風龍も生き物です。ここで子育てをしていて、その子龍の足跡とか?」
「断定はできないがあり得る話だ。ただ、子龍かもしれないからって舐めてかかるのはご法度だぜ。魔法を使っているかもしれないんだろ? そうなりゃ大きさは関係ない」
猟師の言うことは正論だ。空を飛ぶときの姿勢制御に風魔法を使っていると仮定する。で、それを攻撃に転用できるかどうか? ……できると想定しておくほうが無難だろう。
「警戒しながら進むしかないだろう。風龍が戻れば、この先は逃げ場がない。ルシアは護衛より前に出るな。いつ戦いが始まってもおかしくないと思え」
「分かりました。後ろに控えます」
アルヴィンの指示に従い、ここからは護衛の後ろを付いて行く。
山の上の台地となれば空から丸見えだ。かなりの危険が伴うがリネットの導師服がここにあった以上確かめないという選択肢はない。
猟師を先頭にして岩棚のさらに奥へと進んでいく。
足跡は乾いた土や草の上にしか残らず、岩場へ入るたびに途切れた。それでも猟師は足を止め、石の間に挟まった灰青の鱗や折れた草を見つけて進む方向を絞っていく。
空を警戒しつつ猟師の背中を追う。
次第に緊張が高まり、下着が汗で濡れ、呼吸もだんだんと浅くなる。
――落ち着け……落ち着くんだ。意識を集中しろ。
自分にそう言い聞かせながら歩みを続ける。
やがて岩の割れ目を抜けた先に開かれた空間が目に入る。切り立った岩に囲まれつつも、平らな地面が続いていた。
「……待て」
猟師の小声が染み入るように鼓膜を打つ。
なんだと思っていると――風の音に混じって、何かの音が聞こえてくる。
これは……龍の声なのか? しかし、今まで聞いた飛竜の甲高い声とは違う。もっと小さく喉の奥から絞り出すような、弱々しい声だ。
その声の出所と思われる場所には、小さな龍が一頭いた。色合いからして風龍の子か? ――いや、それだけじゃない!
子龍の傍らで白い光が輝いた。あれは何度も目にした、聖法術の光だ!
見間違えるはずがない。導師服を纏った金髪の少女――リネットはそこにいた。
「リネット! 無事か!? 助けに来た」
思わず声が出る。
俺の声を聞いたリネットは治癒を止めずに、驚いた顔で俺たち救出隊を見た。
「ルシア! まさかここまで!?」
それ以上の言葉が続かないようで、リネットもまた何と言っていいのか分からないようだ。
だが、それでいい。今は言葉を交わすことじゃない、行動こそが大切だ。
しかし、なんだあの子龍は? というか、なぜリネットが治療をしている?
子龍は親の風龍よりもはるかに小さい。それでも俺よりはずっと大きく、灰青の鱗に覆われた身体を苦しそうに横たえていた。
翼膜は裂け、脇腹にも深い傷がある。リネットの両手から流れる白い光が傷口を包み、その荒い呼吸をどうにか繋ぎ止めているように見える。
……まさか!? こいつを治させるためにリネットを生かしたまま連れ去ったのか!
「リネット、話は後だ。今のうちに下がるぞ!」
風龍に連れ去られたリネットが無事でいた。
だが、それを確認できただけでは意味がない。早くこの場から離れないと!
あの子龍が気にならないと言えば嘘になる。だけど、今がチャンスなんだ。親である風龍がいない今のうちに脱出しなければならない。
しかし――。
「来ちゃ駄目! 分かるの、この場のことは全部、あの風龍に把握されてる!」
とびっきり厄介な事態に見舞われるという、リネットからの悲鳴のような警告。
反射的に周囲を確認しようとした瞬間――上空から、一体の風龍が降り立った。
それはアークドラゴンに分類される、強力なドラゴン。俺たちを散々に苦しめて来た空の王者。
アークドラゴンとしては比較的小さいという話だったが、そんな分析が嘘としか思えない威容を誇っている。
灰青の鱗。鋭く張った翼。前肢に携えた鋭く尖った爪先。長い首から先にある頭部から、心を締め付けるような、そんな視線が俺たちを警戒しながら見下ろしていた。
翼の端には鱗の欠けた場所がある。俺のレイライフルがかすめた傷だ。それでも動きに弱った様子はなく、風龍は子龍とリネットを庇うように俺たちとの間へ立った。
流麗なそのシルエットだけで見るなら、確かに細身ではあるかもしれない――でもそれが何だって言うんだ?
睨みつけられるだけで、肺が潰れそうなほどに息が苦しくなる。背筋に寒気が走り、脚が勝手に震えだし始めている。
体全体から「止めとけ! お前たちが勝てる相手じゃない!」と、そんなことを言われているような感覚。
――ははっ……こりゃあ、駄目だ。普通に考えて人間がかなう相手じゃない。
補給路を攻撃されていた時からそうだ。こちらの攻撃は回避され、当たっても傷は浅く、空を悠然と飛び回っていた。
こんな巨体だってのに、ヒットアンドアウェイによる捉えどころのない攻撃をしてくる敏捷性。さらには治癒の聖法術を使えるリネットを、子龍を癒すために誘拐するという知性と狡猾さ。
こいつはただ強いだけじゃない――賢いんだ。そんな奴を相手にして、本気で勝てると思っているのか?
そんな弱気が脳裏を埋め尽くす。
いや、俺だけじゃない。多分、救出隊の皆もそうだ。あの風龍の龍眼に睨まれただけで、身をすくまされている。
生物としての、圧倒的な『格』――その前には、人間は龍に対して無力なのか?
そんな弱気を、俺は無理やり打ち払う!
何のためにここまで来た? 何も覚悟をしなかったと思っているのか?
そんなわけあるか! リネットを助けるためにここまで来たんだ! ただ睨まれただけで、おめおめと引きさがってたまるかよ!
俺は右手を上げ、聖法力を指先に集中させる。
すると、指先に白い光が集まり始める。この力が風龍にも通じることは、すでに実証済み。
勇気を振り絞っての臨戦態勢――それでも、身体は情けないくらいに震えている。完全にびびっちまっているのが、自分でも理解できている。
怖い……そりゃあ、怖いさ。当たり前だ。
今の俺の体は男じゃない。小柄な少女だ。体の作りも、気分の揺れ方も、前とまるで同じってわけじゃない。
いくら使命感があったとしても、腹の底から無理やり勇気を引っ張り出すのだって、簡単じゃないんだ。
その証拠が――この震え。怖いに……決まってる。
こんな華奢な身体で、ドラゴンを前にして立っているだけで褒められてもいいくらいだ。
できることなら面倒ごと全部を放り投げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。
そんな衝動ばかりが俺の心を揺らしてくる。
それでも、俺に引くなんて選択肢はない。
恋仲ってわけでもない。抱き合った仲でもない。だけど、リネットは俺にとって仲間であり、大切な存在だからだ。
彼女を見捨てるなんて、誰かが許したとしても、俺自身が許さない!
――だったら、やるしかないだろ。覚悟を決めろ!
喉の奥で、乾いた音が鳴る。
泣きたいのか、笑いたいのか、自分でも分からない。
だけど、こんな体になっても俺の心は――魂が叫んでいるんだ。
――大切な女を助けるために、命を張れるなら、まだ俺は男だってな!
「……上等だ。やってやる」
それは誰に向けた言葉かも分からない。ただ、覚悟が決まり、身体の震えがぴたりと止まったことを自覚する。
与えられた手札は、これまで鍛えあげてきた俺だけの聖法術。
この力で――必ず風龍を倒して、リネットを助け出してやる!
誰に何を言われようと、どんな評価をされようと、俺が俺であることに変わりはない。
あのスラムに少女の体となって落とされてからも、それは変わらなかった。
この戦いは、その延長線にある。――ただそれだけのことだ。




