七十三話:救出の決断
風龍が消えた先を目で追い続ける。
けれど、青い影はすでに山の向こうへ消え、いくら目を凝らしてもその姿は見えない。
追いかけたい――そんな衝動だけが身体を前へ動かそうとするが、だから何だっていうんだ? 空を飛ぶ奴を追う手段なんて俺にはない。走って山へ入ったところで迷子が一人増えるだけだ。
「ルシア……今は撤退が先決だ」
背後から聞こえたアルヴィンの声に奥歯を噛み締める。
「……はい。分かっています」
無理やり視線を下ろせば、嫌でも今やるべきことが見えてくる。
負傷した兵が道の上に転がり、その周りを仲間が取り囲んでいる。荷車の脇では散らばった荷を拾う者と負傷者を運ぼうとする者がぶつかり、駄馬も人の声に怯えて落ち着かない。
「負傷者を荷車へ運べ! 動ける者は列へ戻れ! 空を見上げて足を止めるな!」
輸送隊長が声を張り上げ崩れた隊列を立て直そうとしている。
今の俺が勝手に抜ければ、ただでさえ混乱している現場をさらに乱すことになる。リネットを助けたいからといって、そのために別の誰かを危険へ放り込むわけにはいかない。
もう一度だけ風龍が消えた空を見る……やはり何もない。
――そんなことは最初から分かっているさ……。
俺は空から目を離し、輸送隊長の指示に従って列の先頭へ戻った。
隊列は最低限の統制を取り戻し西へ向かって進み始める。
とはいえ、足並みが揃っているとは言いがたい。恐怖から早くこの場を離れたいのか、前の者へ追いつこうと足を速める兵がいる。逆に足がすくんだのか遅れる者もいて、中には歩きながら何度も空を見上げる者までいた。
そのたびに列が伸びて、輸送隊長や護衛兵が声を飛ばす。
行軍速度は遅い。けれど、思っていたほどではないのかもしれない。
飛竜の影はどこにもなく、恐れはあるが足止めを喰らうことはない。それがない分だけ、ばらばらになった足取りでも隊列は進み続けることができた。
峠を越えて西側へ下り始めても襲撃はなく、日が傾く前には麓の町へ帰り着くことができた。
補給所の門を抜けた途端、待機していた兵や人足が集まってくる。荷車から負傷者を降ろし、最低限持ち帰った荷を別の場所へ運び、前進拠点から撤退してきた者たちの人数を確かめていた。
俺はその光景を、何をするでもなく眺めている。
「アークドラゴンに襲われたにしては損害は少ないな」
誰が言ったのかは分からない。少し離れたところから風に乗って届いた声に、思わず舌打ちが出る。
――損害が少ない? この連中とリネットを同じ秤になんて載せられるものか。命の価値が違うだろ!
そんな悪態は、決して口から漏れ出ることはない。
俺の考えは正論だと思う。聖人候補のリネットとそこらの兵士や人足の価値が同じわけがないからだ。
だとしても、正論がいつだって正しいわけじゃない。それに、正しくても口に出すべきじゃない言葉があることくらい俺にだって分かる。
「……」
何も言わずに踵を返す。
考えるべきなのは、今聞こえた言葉じゃない。これからリネットをどうやって助けるかだ。
その後、前進拠点の基地司令と輸送隊長、護衛を務めた騎士たちに俺とアルヴィンを加えた会議が開かれた。
最初に確認されたのは撤退した人員と負傷者、放棄した物資についてだ。
俺が聞きたいのはそんな話じゃない。早くリネットの話をしろと口を挟みたくなるが、損害の把握を飛ばして次の行動を決められないことくらいは理解している。
逸る気持ちを押さえ込み、机の下で拳を握ったまま報告が終わるのを待つ。
「次に、シスター・リネットについて確認する」
ようやく基地司令の口から名前が出た。
「連れ去られた時の様子を見た者は?」
俺だけではない。輸送隊長や何人かの騎士もリネットが風龍に掴まれた後まで姿を見ている。
「視界から消えるまで手足を動かしていました」
「私も確認しています。少なくとも、連れ去られた時点では生きていたかと」
基地司令は机の上に広げられた峠の地図へ目を落とし、黙り込む。
何を迷っている? リネットは生きていた。なら、次に決めることなんて一つしかないはずだ。
「リネットは生きています。すぐに救出に向かうべきです」
沈黙へ切り込むと、基地司令がゆっくりと俺を見る。
「連れ去られた時には、だ。今も生きているとは限らん」
「だとしても、風龍にはリネットを生かして運ぶ理由があったんじゃないですか? 最初に風龍の襲撃を受けたときに、馬がその爪の餌食になっていました。これは明確な差です。それに他の飛竜は捕らえた獲物を手足を動かせるような力で丁重に運ぶものなのですか?」
その疑問に答えたのは輸送隊長だった。
「風龍の生態までは分かりませんが、シスター・ルシアの言う通りに駄馬は身動きできないほど強く掴まれていたように見えます。そして通常の飛竜なら獲物を生かしておこうなどとは考えないでしょう。人や馬が掴まれた時は逃げられぬよう力の限り締めつけていました」
「なら、リネットはまだ生きています。そうでなければ風龍の行動に説明がつかない。何か理由があって生かしたのです」
「その理由とやらに心当たりはあるかね?」
基地司令の問いに言葉が詰まる。そんなこと俺が分かるわけがない。
「……いいえ」
「そうだろうな。すべては推測にすぎない」
ああ、推測だろうさ! だとしても、引けるものかよ!
「推測でも、死んだと確定していないのに諦めるわけにはいかないでしょう。ラザル派の聖人候補は、そこまで値打ちのないものなのですか?」
少し嫌な言い方だとは分かっている。だけど、人情で軍隊が動くはずがない。
だから価値を問う。俺やリネットは安易に見捨ててもいい者なのかと。
だが、司令の返答は俺の想定の上を行っていた。
「風龍に攻撃を通したのは君だけだ。その君も……ラザル派にとって貴重な聖人候補だ。生き残った君までつぎ込む作戦になる。それを分かって言っているのか?」
失敗した時に失われる命の価値……それは価値を言い出した俺に対する絶好のカウンター。これを言われたら俺に返せる言葉はない。
……となれば、結局は責任者の決断に委ねる他はないってことだ。
「……分かっています。けれど、リネットが死んでいると決めつけるわけにもいかない。だから決断してください」
「救出するか、しないか。その決断を……私に求めるのだな?」
「はい。決めるのは責任者の仕事です。救出を断念するのなら、遺憾ながら従いましょう。しかし、もし救出を決断されたのなら、私は決定された作戦に従い、全力で風龍と戦います」
「そうだな。空にいる限り手のつけられない相手であっても、決して無敵ではない。それはすでに君が証明している」
基地司令は椅子へ背を預け、この場にいる者たちを見渡した。
「皆はどう思う? シスター・リネットの救出に理があると思うか?」
部屋の中に沈黙が満ちる。
誰が何を考えているのか想像するのが怖い。救出に向かうとしても俺一人では無理だ。山道の案内も、風龍に接近された時の護衛も必要になる。ここにいる者たちが首を横に振ればそれで終わる。
最初に沈黙を破ったのはアルヴィンだった。
「守護騎士としてシスター・ルシアの護衛につきます。配置の都合でシスター・リネットとは離れていましたが、彼女を守ることも私の任務でした。救出へ向かうのは義務でありましょう」
「守護騎士殿の意見は分かった。他には?」
護衛に加わっていた騎士の一人が口を開く。
「被害が抑えられたのは幸いです。山中ゆえ大人数では動けませんが、少数の護衛をつける余裕はあります」
続いて別の騎士が地図を覗き込む。
「こちらに同行していた猟師も健在です。山中の案内を頼むことは可能でしょう。風龍が飛び去った方角も分かっていますから、少なくとも探索はできます」
輸送隊長が司令に向かって考えを述べる。
「飛竜が竜哭峠に戻っていない以上、風龍がまだ近辺の山にいる可能性は高いと考えてよろしいかと」
基地司令は一人ずつ顔を確かめ、最後に地図へ視線を落とした。
しばらく動かなかった指が、やがて山中を示す線の上へ置かれる。
「ならば命じる! シスター・リネットを救出するための方策を練るのだ!」
「はっ!」
揃った返事とともに、それまで止まっていた部屋の空気が一気に動き出す。
騎士たちが地図へ集まり、必要な人数や装備について言葉を交わし始めた――リネットを助けるために。




