六十四話:エレナとの約束
エレナが「そっか……」と答えてから、閲覧室の中では沈黙の時間が続いている。
エレナは机の上に置いた自分の手を見ていた。
このまま話を切り上げてもいいのだろうが……それではあまりに後味が悪いか。
「俺と離れるのが寂しいのか?」
尋ねると、エレナの指がわずかに動いた。
「……うん。せっかく仲良くなれたのに、離れたくない」
初めて個室で話した時と比べれば、ずいぶん素直な反応をするようになったと、今更ながら気づく。
あの頃なら、寂しいと認める前に理由を三つくらい並べていたはずだ。
「でも、教導院の中だけの関係だ。このまま教会という組織の中で生きることになれば、その繋がりはあるだろうけど……派閥の差もあるしな」
「分かってる。分かってるけど……こんなに急だとは思ってなかったの」
俺だって、まさか一年程度で教導院の生活が終わるなんて思っていなかったさ。
でも、決まってしまったんだ。そんなことが分からないエレナではないはずだ。
「現実を受け入れろよ。出会いがあれば別れもある。そんなの当たり前だろ?」
「……そうだけど」
うーむ……歯切れが悪いな。
まさかここまで落ち込むことになるとは。
「なんだよ、俺に惚れたから離れがたいってか?」
茶化すようにおどけてみる。少し重くなった話を軽くするつもりでそう言った。
普段のエレナなら顔を赤くして否定するか、また俺が変なことを言っていると呆れるだろう。それで話を戻せばいい。
こんな雰囲気で言うべきことか? と思わなくもないが、今の俺にはこんなことしか思いつかない。
だが、エレナはすぐに否定しない――それどころか、何かを考え込んでいるように見える。
視線を伏せ、迷うように唇を結んでから、もう一度俺を見る。
「……かもね」
「……マジ?」
今度は俺のほうが固まった。
おいおい、そんなことがあるのか? 今の俺は女だぜ? 俺から男のような雰囲気を感じるとは言っていたがな……。
「自分から訊いておいて、その反応は酷くない?」
「いや、だってお前……俺を男みたいだとは言ってたけど、それと惚れるのは別だろ」
「私も、そう思ってた」
エレナは困った表情を隠さないまま、かすかに笑った。
「ルシアはこの一年で背も伸びたし、身体も……その、女の人らしくなったよね」
「……まーな。胸も膨らんできたし、腰回りも丸みを帯びてきた。少し複雑な気分だぜ」
「女の身体が嫌なの?」
「嫌じゃない。むしろ好きだが、心が追いついていないんだ。これは複雑だから、誰にも説明はできない」
身体が出来上がりつつある今、それを楽しめることも増えている。
だとしても、男としての自分が消えていくような恐怖もあって、そこがまた難しい。
「うん。私には理解はできなさそう」
エレナが困ったような顔をする。
だが、すぐに何かを決意したような顔つきになった。
「見た目が変わってきたとしても、やっぱり私はルシアを普通の女の子みたいには感じないの。今でも男の人みたいに思えてる。前より近くなったから……余計に」
「……そうか」
俺はこの言葉をどう受け取っている?
それは……やはり嬉しさだろうな。男として見られ、男として好かれる――どちらも俺がずっと欲しがっていたものだ。
ルシアになった以上、誰にもそう思われることはないと諦めていた。それを、こいつは……。
「なら、あの時の続きでもするか?」
「えっ?」
俺がそう言うと、エレナは目を見開いた。
以前、こいつの顎を持ち上げて、口づける寸前まで顔を近づけたことがある。あの時は半分以上がからかいで、最後までやるつもりはなかった。
――でも、今は違う。
椅子から立ち、机の横を回ってエレナの前へ行く。
俺が手を伸ばしても、エレナは逃げない。
あの時と同じように指先で顎を持ち上げると、何か言いたそうに唇が動くが……それでも言葉の代わりに目を閉じる。
それを見てから、俺は顔を近づける。ここまで来て、遠慮をするつもりなどあるはずがない。
触れたのは、ほんの短い間だ――柔らかくて、少し温かい。確かめるように唇を重ね、すぐに離れる。
エレナがゆっくり目を開いた。
「もう……終わり?」
そんな顔で聞かれると、止めた俺が悪いみたいじゃないか。
「本当はな。これ以上のことをしたい欲もある。もっと深く、長くしたいとも思ってる。だからこそ、今日はここまでだ」
「どうして?」
「どこまでなら止まれるか、自信がないからだよ。残り一週間しかないのに、これで訓練も準備も手につかなくなったら困る」
遠慮をしないだけで、躊躇はする。
ただでさえ性欲を持て余し気味なんだ。そのうえ、エレナと気持ちが通じたとなればどうだ? 残された一週間を無為に使うかもしれない。
さらに言うなら……自分を信じることなんてできない。というか、行けるとこまで行こうとして、そこで手ひどい失敗をしてしまいそうだ。
そんな馬鹿なことをしてエレナに嫌われるほうが、耐えがたい損失――そう思うほどに、俺の心はエレナに惹かれているのかもしれない。
「そういうものなの?」
「そういうものさ。少なくとも俺はな」
エレナはまだ少し不満そうだったが、やがて自分の唇を指でなぞるように確かめる。
「なら、次にまた会えた時に、お互いの気持ちが変わっていないなら……その時に、続きをしよう」
「……それ、恋愛物語でよくある約束じゃないか。大抵は何か問題があって、うまく果たされない奴だぞ」
「本当に果たせたら、素敵だと思わない?」
「俺に恋愛物語みたいな台詞を求めるなよ」
だが、俺にとっても悪くない約束ではある。
今のエレナの気持ちが戦争を前にした不安や、別れたくない寂しさから生まれたものなら、少し離れてみれば変わるかどうか分かるだろう。
俺だって、男として見られたことで浮かれているだけかもしれない。
「まあ……頭を冷やす時間と考えればいいか。勘違いかもしれないからな」
「……うん。それは分かるよ。女の子を男の人みたいに感じて、好きになるのは変だものね。私も、少し時間があったほうがいいと思う」
「ああ。それで気持ちが変わったとしても、今まで通り友人であればいい」
「ルシアはどうなの?」
「恋人なんて、お互いに想い合わないと成り立たないだろ? だから、そこはちゃんと切り替えるさ。一緒に本を読むだけでも、俺はお前と一緒にいたいよ」
エレナは俺の答えを聞くと、唇に指を置いたまま小さく笑った。
「……どっちになったとしても、それでも私は嬉しいな」
「ああ。俺も嬉しいさ」
閲覧室は、また静寂に包まれる。
けれど今度は、気まずさのない、穏やかな静けさだった。




