六十三話:戦場への召集
ベアトリスから手紙が届いて、三か月ほどが過ぎた。
教導院へ入ってからなら、これでもう一年になる。その区切りの日に十五人の候補生が集められたのは、講堂ではなく大オークの下だった。
初めて問答をした時と同じように、候補生は木を囲んで半円に並んでいる。違うのは、誰もこれから何を問われるのかと周囲を窺っていないことだ。
バルタザール院長は全員が揃っていることを確認すると、胸元から一通の書状を取り出して開いた。
「教会本部と王国の連名で、教導院へ正式な要請が届いた」
バルタザール院長は、いつもと変わらない声で告げた。
「戦場は広がりつつある。あくまでも小競り合いの範囲ではあるが……国境沿いの複数地域で聖法術を扱える者が求められておる。候補生を仮の聖導師として派遣する特例も正式に認められた」
ざわめきが起きる。
おそらく、この場にいる候補生たちは事前に知り、この日が来ることも予想していたはずだ。だからといって、衝撃まで消えるわけではない。
驚いている者がいれば、その隣で覚悟していたように目を伏せる者もいる。派閥を問わず、反応は様々だ。
「よって、通常の課程は本日をもって停止する」
今度はざわめきも起きなかった。ただ、誰もが黙って次の言葉を待つ。
「これは修了ではない。諸君らが十分に学んだという認定でも、予定された卒院でもない。戦時の必要によって、続けられなくなっただけだ」
いわゆるこれも学徒動員か?
まさか俺がそれを経験することになるとは思いもよらなかったぜ。
「おおむね一週間以内に、所属派閥、あるいは権限を認められた機関から個別の要請が届く。それまでは定例の講義を行わない。各自、必要と考える準備に時間を使え」
一人の候補生が手を挙げた。
「教導役の方々へ、最後の指導を願うことはできますか?」
「できる。要望があれば可能な限り応じるよう伝えてある。ただし、すべての者が残っているわけではない」
バルタザール院長が言うには、教導役の一部はすでに派遣先が決まっているようだ。
そんな状況でも候補生の教導にできるかぎり時間を割いてくれるのは、俺たちが未熟であることの証明なのかもな。
「派遣先は、いつ分かるのでしょうか?」
「各所の要請が届いてからだ。この場で私が答えられることではない」
バルタザール院長は候補生たちを見回した。
「安全を約束することもできん。だからこそ、残された時間を他人任せにするな。何が必要かを考え、求め、備えよ。以上だ」
最後だというのに演説らしい言葉はない。
無事に帰ってこいとも、国のために命を捧げろとも言わない。ただ、授業は終わり、一週間以内に行き先が決まると告げただけだ。
最初の問答では自分の頭で考えろと言われたが、一年経った今も結局そこは変わらないらしい。
解散になると、候補生たちはすぐに派閥ごとへ分かれ始めた。誰へ指導を頼むか、どんな装備が必要か、今から手紙を出して間に合うのか。あちこちから声が聞こえてくる。
「私たちはいつも通りよ。今更慌てることもない」
ざわめきの中で、リネットは一段と落ち着いているように見えた。実に肝が据わっている。
「……ああ。やることは変わらない。俺は俺が正しいと思ったことをやる」
「ええ。最後の一週間だけ頑張ったところで、それほど意味はない。日々の積み重ねこそが一番価値があるのだからね」
リネットは自室で瞑想し、俺は図書館へ行く。
講義に使っていた時間をそのまま使えるなら、今、自分が一番したいことをやればいいというのが俺たちの結論だ。
リネットの瞑想には何か考えがあるんだろう。俺はクラウディウスに関連する書籍を何度も読み返すだけだ。
聖法術の技が向上したと自覚した後でまた読めば、新しい発見がそこにある。
まるでスルメのように尽きない味があると思っていたが、まさか最後の一週間までそのスルメを齧ることになるとは思わなかったぜ。
図書館に入ると、受付で札を見せ、いつもの帳面に名前を書く。
この一年で何度も繰り返した手順だ。司書にクラウディウス関連の本を持ってきてもらい、それから閲覧室に入る。
何度も読んだ本だ。参照したいところを飛ばし飛ばし読み、今の理解を補強していく。
……こんなものか。まだ昼前だが、訓練場に出て試し撃ちだな。
そう思って閲覧室を出ると、エレナの姿が目に入る。いつもの席で読書をしているようだ。
いや――何か変だな。本を開いているが、読んでいるようには見えない。
その理由はすぐに分かった。俺が閲覧室から出てくるのを確認すると、エレナは待っていたように顔を上げた。
「ルシア。少し、話せる?」
「またマテオ派から連絡か?」
「今日は違う。私の話」
懇親会での和解以降、エレナはマテオ派と俺たちの間の連絡員のような立場になっていた。
図書館でそれなりに話す仲だったからこその抜擢らしい。まあ、そうなるようにエレナが仕向けたと言ってもいいか。
主に事前連絡のためらしいが、無駄な摩擦を起こさず話し合えるので、お互いの派閥にとっても都合がよかった。
だが、それだけでは終わらない。エレナ個人との交流も格段に増えた。
俺が算学を教え、エレナからは古い記録の言い回しや写本の違いを教わる。
そんな普通の学生のような関係が、あの時から続いていた。
「分かった。閲覧室を借りよう」
使い終えたばかりの閲覧室を、また司書へ申請する。
俺たち二人で連れ立っていけば、またいつもの二人ね――とでも言いたげな目で見られる程度には、これも普通になっている。
二人で閲覧室に入ると、エレナが早速話しかけてきた。
「知っていたことだけど、やっぱり動揺したわ……でも、ルシアはそれほどじゃないみたいね」
「俺を見出した聖導師から定期的に手紙が届くが、心構えについてしつこく書かれていたからな」
ベアトリスは前線の一歩手前くらいの場所で業務に励んでいるらしい。
そこからの手紙には戦場の様子も書かれている。小競り合いとはいえ死傷者は出るから、その対応に忙しいという。
ただの連絡というより、俺とリネットが少しでも覚悟できるように伝えてくれていたのかもな。
「そう……こっちも似たようなものだけど。私はまだ覚悟はできていないわ」
エレナは眼鏡の位置を直してから、両手を机の上で組んだ。
「最初から一番危険な場所へ送ることはないと思う。教会も、候補生を無駄に失いたくはないはずだから……でも、やっぱり怖いの」
「俺だって恐怖はあるさ。でも戦場なんてそんなものだろ?」
「戦場を知っているの?」
「知らない。でも、鉄火場は経験している。命の取り合いの空気感は分かる」
俺が候補生の中で最大のアドバンテージを持つとすれば、スラムでの抗争の経験だろうな。
クソみたいな環境だとしても、得るものはある。人生ってのはそういうふうにできている。
「王都の悪所出身だもんね、ルシアは……。それで、この一週間をどう使うの?」
「主に訓練だな。今日図書館に来たのも、その事前準備みたいなものだ」
「本当に、そういうところは変わらないね」
「俺はエレナのような文学少女じゃない」
「実利が一番って?」
「遊びじゃないからな。そういう契約なんだよ」
「……そっか。そうだったね」
雑談の中でラザル派での俺の立ち位置については話している。これは俺なりのラザル派への意趣返しでもある。
アウレリオに伝わっているだろうが、むしろ好都合――俺が仕事として候補生をやっているだけだってな。聖人を本気で目指してはいないと裏から伝えるのも、摩擦を減らす一助になっているはずだ。
「それで、エレナはどうするんだ?」
「私も、教導役に相談してみる。訓練不足を自覚しているからね。あとは……実家へ手紙を書く。すぐには届かなくても、何も知らせないままいなくなるよりはいいから」
「……それがいい。家族は大切にするもんだ」
この世界で孤独となった俺だからこそ、今更ながら分かった。
失ってから分かるなんてまるで漫画みたいだが……人間なんてそんなものなのかもな。
「それで、ルシア」
「ん?」
「今日で図書館に来るのが最後ってわけじゃないよね?」
「どうだかな……訓練の結果次第で変わる。明日からずっと訓練場ってのも否定はできない」
「じゃあ、こうして話すのは、今日が最後になるかもしれないんだね……」
――まだ一週間ある。
そう言いかけたが、時間が合わないこともあるだろう。会える保証なんてない。
「……あり得るな」
俺にとってのエレナも、エレナにとっての俺も、この半年で無視できない重みになっていたのかもしれない。
そうでなければ、こんな気まずい沈黙にはならないだろう。
「そっか……」




