三十九話:大オークの初回問答
「――人はただ適応しているだけです」
口に出した瞬間、俺へ向けられていた視線の多くに、困惑が混じった気がした。
もっと宗教っぽい言葉を選ぶべきだったのかもしれない。救いだの、罪だの、魂の本性だの――ここにいる連中が聞き慣れている言葉なら、いくらでもある。
けれど、頭の中でそれらを並べてみても、どうもしっくりこなかった。
そして俺の喉から出たのが、その言葉だ。
「善も悪も、この世に最初から存在するものではありません。ただ、自己の生存のために取る行動の方向性が、それを決めるだけです」
「……ほう」
バルタザールが低い声で唸る。
叱責ではない。だが、さっきまで候補生たちへ向けていた採点の声とも違う。
むしろ、より深い場所で何かを測っているような、そんな響きのように聞こえる。
「それは、善も悪も存在しないと申すか?」
「はい。私はそう考えます。善悪など、全ては後付けで決められる評価項目にすぎません」
そう言いつつ、スラムの光景が頭の奥に浮かんだ。
飢えたガキを食わせる奴もいれば、そのガキたちを食い物にする大人もいる。施しをする教会があれば、金を巻き上げて数える連中がいる。善人の顔をしながら人を売り飛ばすような奴がいれば、殺人を躊躇わない悪人の癖に、身銭を切って誰かを助ける奴もいる。
どいつもこいつも、最初から善悪の札を額に貼られて生まれてきたわけじゃない。ただ、置かれた場所で息をして、手を伸ばして、届くものを掴んでいただけだ。
「飢えた者は奪いますが、明日も食える者は施せます。守られた者は規律を語れますし、捨てられた者はまず身を守ります。そうやって置かれた場所に応じて選び続けた結果を、後から善悪と呼んでいるだけではありませんか」
そこまで言い切ると、芝生の上に騒めきが広がった。
誰かが息を呑み、誰かが眉をひそめる。俺に向けられる視線の温度が、少しずつ変わっていく。
それはもう、場違いな子供を見る目ではなかった。言ってはいけない場所へ踏み込んだ者を見る目――そう言った方が近いのかもしれない。
――知るかよ。俺は真実を語っているだけだ。小奇麗な世界しか知らないような奴らは黙ってろ!
そんな気概と共に放った言葉だったが、仲間であるはずのリネットの視線が、横からはっきりと刺さってくる。
それ以上はいけない! 止めなさい! ……そんなところか?
だが、バルタザール院長はそこで話を終わらせなかった。
「ならば、聖人とは何だ。その方が言うところの、適応を超える者ではないのか」
おいおい、そこまで言わせるのかよ! 宗教だけでなく、政治にまで踏み込むことになるぞ!
教導院という、ある種の聖域の中で思うままに開陳するには、危険なんてもんじゃない。
――聖人。この世界では、祈りと畏敬をまとった言葉だ。神に愛された者。民を救う者。悪を退け、弱き者を守り、歴史に名を刻む者。
そう言えば全ては丸く収まるのか? いや……バルタザール院長の目は、それで許してくれそうにない。
今さら綺麗な言葉を吐けば、すぐに誤魔化しだと看破されるだろう。
こうなれば、やけだ――!
「聖人とは、一言でいうなら人間兵器ですね」
今度は、さっきより大きく空気が動いた。
アウレリオのいるあたり。つまり、マテオ派の連中が露骨に息を呑む音がした。横目で確認すれば、信じられないものを見るような顔でこちらを見ている。
リネットの目も大きく見開かれていた。ここまで言うとは思っていなかった、という顔だ。
でもなぁ……今さら引っ込めることはできない。
「場合によっては、治癒の力だとか、施しだとかで聖人と呼ばれる者もいます。ですが、その大半は危機において民を守った者への称号にすぎません。あえて悪辣な言い方をするなら、破壊の力を誰よりも持った存在でしょうか」
「……ルシア」
流石にそれ以上はヤバい、という警告だろう。リネットの小声が飛んでくる。
でも、ここで止めたらただ不敬なことを言った馬鹿になるだけだ。どうせ馬鹿になるなら、最後まで理屈を通した馬鹿の方がまだましだ。
「だからこそ国家は聖人を求めるんです。他の国家に対応するために。国家もまた、世界という外的環境の中で生き残りをかけて試行錯誤する存在の一部にすぎません。強い聖人を持つ国が生き残りやすいなら、その国は聖人を育てる。持たないなら、持つ側に押し潰される。信仰は綺麗事として語れても、国家運営はそこまで甘くないでしょう」
すらすらと言葉が出てくるのを自覚する。
これはルシアではなく、俺の言葉だ。俺が俺として感じた世界の理――この世界ではない、現実として存在したはずの世界の構造だ。
――あ、これ気持ちいいな。ベアトリスへの独白と同じくらいすっきりする。
ヤバいことを言っている自覚はある。だが、もう止められない。こういうところが俺の悪い癖だって、分かっているんだけどな。
「教会が聖人を尊ぶのだって、結局は同じです。人心をまとめ、外敵を退け、災厄へ対処し、国と組織を保たせる。聖人は高潔さの証明というより、生き残るための切り札です。ですから、善悪の完成形として聖人を置くより、危機の中で誰よりも適応し、誰よりも大きな力で環境を書き換えた者と見た方が実態には近いのではありませんか」
沈黙が、遅れて全身にのしかかってくるようだった。
こうなると分かってはいた。だが、想像よりもずっと厳しい空気が流れている。
ただの驚きではない。警戒と、未知への恐怖か。初めて触れる思想に対する敵愾心のようなものが、いくつも肌に刺さる。
聖人を人間兵器呼ばわりしたんだ。まあ、そうなるわな。
しかも十歳そこらの候補生が、いきなりそんなことを言ったら誰もが驚くだろうさ。
あまりにもアウェー感が漂う中で、しかし――バルタザール院長は怒鳴らなかった。
「……む」
老いた喉から、短い息が漏れる。そして、院長の目の色は完全に変わっていた。
さっきまでの品定めでも、採点でもない。もっと直接的な、興味と警戒が混ざった目だった。珍しい石を拾った学者のようでもあり、毒の入った杯を見る政治家のようでもある。
さて、評価はいかに?
「――これは、このような場で話すことではないな」
芝生の上にいた全員が固まった。
えっ、それだけ? そんな空気が、一瞬だけ広がる。
バルタザールは、ゆっくりと俺を見据えた。
「後でさらなる対話として、話の続きを行いたい。よいかな、ルシア」
よくない――と、言える空気じゃないよな。
「構いません」
「うむ……座って良し」
頭を下げ、これで俺に対する問答は終わった。
腰を下ろした瞬間、周囲の視線が肌に刺さる。
これは、さっきまでとは違うな。ラザル派が寄越した珍しい年少の候補生に対する視線じゃない。
警戒。好奇。困惑。――それから、院長に何かを認められたことに対する、ほんの少しの反発か?
リネットの視線が痛い。お前何やってんの!? という圧をひしひしと感じる。
ちょっと調子に乗り過ぎた……でも、言いたかったことを言えて気持ちがいい。
それに、ベアトリスが言ったんだ。自分の言葉で話せって。
――だから俺は悪くねぇ!




