三十七話:元婚約者の殿下
「噂には聞いていた。君が教導院に来るかもしれないとはね。ラザル派へ身を移したことは、御実家にとって苦虫を噛み潰すような話だろう。だが、この出世を思えば、閣下もいずれ怒りを御寛恕なさるのではないかな?」
アウレリオと呼ばれた男は、そう言って微笑んだ。
随分と迂遠な言い回しだ。これが貴族にありがちな言葉ってやつか? いや、それどころか王族か。殿下ってリネットが呼んだからな。
どうにも嫌味ったらしさ満々だが、声は柔らかい。立ち方も、視線の置き方も、隙がないほど上品だ。
横目で見るリネットの肩がわずかに強張っていることから、これが高貴な人間の言葉のジャブであることは理解できる。
「実家の件についてはアウレリオ殿下に心を砕いて貰う必要はありません。全ては過ぎたことゆえ」
リネットは丁寧に礼を返した。
だが、そこに怒りがあるのは丸わかりだ。不本意さが滲み出ている。
「失礼な物言いだったかな? そこは謝罪しよう。――しかし、殿下などと、今さら畏まらずともよい。君とは、そう他人行儀な間柄でもなかっただろう」
「ここは教導院です。そうであるならば、この場に応じた礼を取るのが正しき行いであるはずです」
「あの君がここまで律儀になるとはな。ラザル派に身を置いた成果の一つかな?」
「そのように評価されるのであれば、これまでの歳月にも意味があったと、殿下にお認めいただけたものと存じます」
「うむ。私もマテオ派にて得た学びは、人生の標になるものだと考えている。望む道は違えど、己が責務を果たさんとする心は尊いものだ――お互いにな」
リネットの指が、ぴくりと動いた。
顔には出していない。声も揺れていない。だが、隣にいる俺には分かる。今の一言で、かなり腹に来たらしい。
アウレリオはリネットへの挨拶を終えたのか、その薄い青灰色の瞳を俺に向けてくる。
「そして、君がラザル派の新しい聖人候補か」
「はい。ルシアです。アウレリオ殿下とお呼びすればよろしいでしょうか?」
頭を下げる角度は、深すぎず、浅すぎず。
建前上、聖人候補同士は同格だ。だから、そこから逸脱しない程度で十分。ここ数日リネットに言われたことを思い出しながら礼をする。
「教導院に限るなら殿下はいらないさ。君の好きなようにしたらいい」
「それではアウレリオ様とお呼びします。――俗世と切り離されたこの場にあっては、多少くだけた物言いも許されると理解致します。無論、過度に礼を失するつもりはありませんが」
「それでよい。君ほどの年齢で教導院に入る子は珍しいが、よく学んでいるようだ。ラザル派の教育の質の高さを伺える」
「恐縮です。アウレリオ様」
アウレリオは感心したような態度で俺を見下ろしている。
とりあえず怒りを買うこともなく、かといって侮られるような結果にもならなかったようだな。
まあ……実は皮肉って線も否定できないが、そこまで疑っていてもしょうがない。
「とはいえ、ラザル派は君のような子を送り出さねばならないほど、なかなか苦労が絶えないと見える」
だが、それで終わってくれはしなかった。
言葉尻は丁寧だが、明確な嫌味だ。ただ、意地の悪さだけで来ているものではない。これも派閥間闘争の一種だろう。
「否定はできません。しかし、それでも私はこの場にいます。皆様方のご期待に添えるよう努める次第であります」
「……いい返答であると評しておこう。君と共に学べることを嬉しく思う」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします」
こんなところか?
アウレリオは柔和な笑みを浮かべているが、目は笑っていない。それはつまり、この言い合いは引き分けってところだろう。
「では、挨拶はこのくらいにしておこう。大オークの下でまた会おう、リネット。君ともな、ルシア」
そして、これで幕引きか。
アウレリオはそう言って、元いた候補生たちの方へ戻っていった。
俺とリネットはその背中を見送り、数秒だけ黙っていた。
そして、十分に離れたのを見計らい、リネットは周囲に聞こえない程度の声で吐き捨てる。
「……あいつ。やっぱり嫌な奴」
リネットのこの反応だけで、今のがただの挨拶ではなかったことは十分に分かる。
「やっぱり、そういう意味だよな?」
「そうよ。昔とまるで変わっていないどころか、さらにひどくなっているわ。……それにしても、よく反応できたわね」
リネットは感心するような視線を俺に向けてくる。
こういうやり取りの練習はしていなかったからな。それが不思議なのだろう。
「俺にも色々あるのさ。でも、受け答えは正解ってことでいいかな?」
「十分よ。よく言い返してくれたわ」
「なら良かった。しかし――」
リネットとアウレリオ。
二人の間柄からして、貴族同士の家の付き合いってことになるよな?
しかも距離感がまた、なんだろう。ただの顔見知りじゃなさそうだ。
「あいつとリネットはどんな関係なんだ? 今のやり取りを見る限り、ただの顔見知りって距離じゃないだろ」
リネットは一瞬だけ黙った。
答えたくない、という顔だ。だが、ここで誤魔化しても後で聞かれるだけだと悟ったのか、諦めたように肩を落とす。
「元婚約者よ」
「……は?」
「だから、元婚約者。今はもう解消されているけどね」
おいおい。リネットが貴族なのはいいけど、王族と婚約できるような家柄ってか?
「もしかして、リネットって高位貴族なのか?」
「公爵令嬢よ。子だくさんの末っ子で、色々あって実家にはまるで期待されていないけどね」
「……マジか」
言葉を失うとはこのことだ。不機嫌そうな表情のリネットに尋ね難いってのもある。
だが、それ以上の情報密度に頭が混乱している。
公爵令嬢という言葉と、スラムのクソガキ共を介抱していたリネットの姿がまるで結びつかない。
人には歴史があるとは言うが、この若さでかなりの歴史がありそうだな……。
だが――そんな俺の混乱を教導院は待ってくれないらしい。
「候補生の皆様。これより大オークの下へご案内いたします」
案内役の声に、候補生たちの空気が変わった。
談話の時間は終わりらしい。この場を去って行ったアウレリオの背中を見れば、自派閥の仲間たちになにやら指示を出しているようだ。
つまり、元からこのイベントを知っていた。つーか、大オークがなんとかって言っていたしな。それがこれか。
「私の事については後回し。行くわよ」
とにかくリネットの後についていく。何をするのか知っているようだが、事前にイベントがあるなら教えてほしかったぜ。
中庭の奥へ進むにつれ、先ほど見えた大きな木がその全容を現していく。
遠目にはただ立派な木だった。だが、近づけば近づくほど、馬鹿みたいにでかい。幹だけで小部屋一つ分はありそうで、根は芝生を割って地面を掴み、枝は空を覆う屋根のように広がっている。
木陰へ入った瞬間、空気が少しだけ冷えたような気がした。
「教導院で最初に行われる伝統ね。自分の意思と考えを話すのよ」
隣のリネットが小声で言う。
この木の下で、候補生の主義主張を表明するってことか?
「セラフィナ教を広めた八高弟が、オークの木の下で問答を重ねながら教えを説いたって逸話に倣ってるの」
「始業式にして面接みたいなものか」
「……まあね。それだけじゃないけど、聞いていればわかるわ」
この場に集まった候補生たちが、自分の言葉でセラフィナ教について語る場か……。
視界の端に、アウレリオの姿が見えた。そこではやはり、仲間内での相談事に熱心のようだ。
どうやらさっきのやり取りは、このイベント前の威力偵察だったようだ。俺とリネットがどこまで話せるかを見に来たということか?
やれやれ……やはり教導院ってところは、初日からイベント盛りだくさんだな。




