三十二話:教会保護後の新生活
鐘の音が、窓の外から小部屋の中へ落ちてきた。その音に合わせるように、俺は背筋を伸ばし直す。
机の上には、書き取り用の紙と、まだ扱い慣れない筆。指先にはじんわりとした疲れが残っていて、肩には礼法の授業で叩き込まれた姿勢の窮屈さが乗っている。
教会に引き取られて、一週間が経った。
腹が空かない生活そのものは、組織の中で部屋を与えられた時点で手に入っていた。だから、そういう意味では決定的な差があるわけじゃない。
だが、違いは当然のように存在する。
鐘が鳴れば祈る。食事の前にも祈る。廊下では走るな、背筋を伸ばせ、足音を立てるな、返事は短く、目上の相手には言葉を崩すな。
そんなスラムにいた時の癖を取り除くかのような、厳しい教育と引き換えに与えられたのは白い壁と磨かれた床。そして洗いたての布の匂いと整えられた食卓だ。
何もかもが、清潔で、正しくて、息苦しい――汚い檻が、綺麗で立派な檻に変わっただけだ。
そう思ってしまうあたり、俺も相当ひねくれている。
アレンとシエラにとっては、間違いなくこちらのほうがいい環境だ。食事はまともで、怒鳴り声もなく、寝ている間でも警戒を強いられるような悪環境ではない。
文句を言うべきではないのは分かっている。……分かっていても、身体のどこかがまだ、ここを安全だと認めていなかった。
そんな日々の中で、今日もまた小部屋で書き取りの時間だった。
文字を書くこと自体は、組織にいた頃からやっている。帳簿をつける時にも、取引の内容を書き残す時にも、文字は必要だった。
だが、ここで求められるのは、そういう実用一辺倒の文字じゃない。
丁寧な言い回し。
崩さない語尾。
相手の立場に合わせた敬称。
教会の中に組み込まれた人間として、どこに出しても恥ずかしくない型がある。
要するに、今の俺は、言葉遣いまで矯正されている真っ最中というわけだ。
「本日もありがとうございました、ベアトリス聖導師。教会の皆様方へ見せるには拙い文章ではありますが、なんとか形になりつつあるという手応えを感じます」
「ええ。覚えは早いわ。こちらが驚くほどに」
「それは光栄です」
そう返したところで、向かいに座っていたリネットが露骨に顔をしかめた。
「……やっぱりあんたのその口調、なんか気持ち悪いわね」
「ひどい言い草ではありませんか、シスター・リネット。私は教えられた通りの言葉遣いをしているというのに」
「その通りにやってるのが気持ち悪いって言ってるの」
「理不尽ですね」
「理不尽じゃないわよ。なんていうか、無理やり綺麗な布を被せられてる感じがするのよ」
「随分と手厳しいご感想ですね」
失礼な話である。だが、否定し切れないのも確かだった。
ついこの前まで、人を脅し、さらには殺しまでやっていた。そんな人間が、急に教会仕込みの丁寧語を口にしている。
礼法の型をなぞるたび、昔の会社員ロールを無理やり引っ張り出して、そこへさらに教会の布を被せているような気分になる。
そりゃあ気持ち悪い。自分で言っていても、たまに喉の奥がむずむずするくらいだ。
その時、小部屋の扉がこんこんと叩かれた。
「失礼します」
「はいっていい?」
返事をするより先に、扉の隙間からアレンとシエラが顔を覗かせる。
二人とも腕に布束を抱えていた。洗濯場か倉庫の手伝いを頼まれていたのだろう。白い布の端から、乾いた陽の匂いがした。
その顔を見た瞬間、喉にかかっていた妙な力が抜ける。
「シエラ、アレン。どうだ? ここには慣れたか?」
「少しはね。前の部屋より狭いけど、こっちの方が安心できるし、仕事も掃除や修繕、普通のことばっかりだよ」
「ごはんもちゃんと出るし」
「組織でも飯は食えていたろ? 何か違うのか?」
「教会のごはんの方がおいしいから」
……味付けの問題か。
組織の飯は大鍋で一気に作っていて、塩気の強い大味なものが多かった。腹を満たすという意味では十分でも、うまいかどうかは別問題だ。
実際、俺もあれは結構きつかったしな。
それに比べれば、教会の質素飯のほうが食べやすさでは数段上だろう。
「そっか。俺もそう思うよ。良かったな」
席を立ち、シエラのそばへ行って頭を撫でてやる。
シエラはこくりと頷いた。表情は、組織にいた頃よりずっと穏やかだ。
心を感じ取れる力のあるこの子にとって、空気が違うということこそが決定的な差なのかもしれない。
そんな俺たちを見て、リネットが口を開く。
「やっぱりあんた、そっちの方がいいわ」
「あら。リネットさんにも、そのような言葉遣いをしてよろしいということでしょうか。それなら、今後はそう致しますわ」
「……やめて。今、鳥肌が走った」
「うわ、ひでぇ。先輩、そりゃないだろ。こっちは必死こいて言葉遣いを学んでいるってのにさ」
「それはご立派ね。でも気持ち悪いのは本当のことでしょ」
「だとしても言っていいことと悪いことがあるだろ。つーかそれなら、リネットにはこっちで喋るからな」
「別にいいわ。アンタなら外と内の区別もつくでしょ? ベアトリス聖導師、いかがですか?」
ベアトリスは口元に笑みを浮かべ、俺を見る。
「そうですね。授業の時には厳しく指摘するつもりですが、それ以外なら普通に話すことを許可します。私としても、あなたのその口調は少し慣れないですから」
俺に言葉遣いを仕込んだベアトリスからしてこれだ。アレンもシエラも笑っているし、リネットは当然とばかりの表情をしている。
なんだかなぁ、と思いつつも、こういう空気は悪くない。
組織に囲われて安全を得ていた時でも、こんな気分になることはなかった。
だから、教会に来たことは間違いではなかったと思いたい。思いたい、のだが――胸の奥に、まだ硬いものが残っている。
ここは安全だ。
食事もある。寝床もある。アレンとシエラの顔も、前よりずっと穏やかになった。
それなのに、俺は考えずにはいられない。
何を差し出せば、この生活は続くのか? 何を失えば、この綺麗な部屋から追い出されるのか?
スラムに染まり過ぎた弊害だ。俺の日常は、まだあの喧噪の中にある。身体だけが清潔な部屋へ移されても、警戒心まではそう簡単に洗い流せない。
多分、そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
ベアトリスの口元から笑みが消え、次第に真剣なものへ変わっていく。彼女は小さく咳払いをした。
「では、皆がいるうちに話しておきましょう」
それだけで、部屋の空気が締まった。
リネットは背筋を伸ばす。
アレンとシエラも、扉の近くで黙った。布束を抱えたままの二人の手が、わずかに固くなる。
「ルシア。あなたには、リネットと一緒に教導院へ行ってもらいます」
「教導院……」
聞き返すと、ベアトリスは静かに頷いた。
「聖人候補が学ぶ場です。教養、教理、礼法、礼節、実務、そして戦技。教会の中で上へ進む者に必要なものを、一通り身につけるための場所だと考えなさい」
並べられる言葉は、戦技を除けばどれも綺麗だった。
教養。教理。礼法。礼節。
けれど俺の耳には、それが教育というより、選別のための項目に聞こえる。
「なるほど。立派な場所のようだな。そこが次の俺の戦場か?」
「……ええ。そう言って差し支えないわ。派閥間の暗闘が繰り広げられる、まさに戦場でしょう」
やっぱりな。
俺たちが属する派閥は、俺という駒を得た。
なら、そこで行われるのは教育だけじゃない。綺麗ごとが通じない力比べも、当然のように待っているはずだ。
「ルシア。あなたは、自分が普通ではないことを自覚していますね?」
「この世界の誰よりも普通じゃないさ。ベアトリス聖導師には、また俺の独白を聞いてもらいたいくらいにね。話したいことは山ほどある」
「そう……ですか。あなたの話は聞いていて疲れますが、必要であるなら聞きましょう。ですが、そうであるなら理解できますね?」
「ああ。それが俺に課せられた義務だからだ。でないと、俺がここにいる意味がない」
視線をアレンとシエラに向ける。
二人は不安そうな顔をしていた。
詳しいことまでは知らなくても、俺と教会の間にあるものが、ただの善意ではないことくらいは分かっているのだろう。
ベアトリスは俺たちを見ながら、少しだけ目を細めて頷いた。
「……そういうところが、送ってもよいと判断した理由です。本来ならリネット一人だけの予定でしたが、予定を前倒しできるほどに、あなたは学びを深めています」
「付け焼き刃だがな。だが、ベアトリス聖導師が判断したというのなら、それに従おう」
不安は当然ある。
いや――むしろ不安だらけと言ってもいい。
聖人候補。
教導院。
派閥。
この世界の中心と言ってもいい、信仰という名の国家の軸。
その中に、俺は飛び込んでいかなければならない。
「それで――」
だが、その前に解決しなければならない疑問がある。
「俺とリネットが教導院へ行くとして、アレンとシエラはどうなる?」
俺が教会の面倒事に首を突っ込むのは、二人のためだ。
それすら俺のエゴだとは分かっている。それでも、この二人の未来が少しでもましなものにならなければ、俺が教会という檻に入る覚悟をする意味がない。
そういう意味を暗にほのめかすと、ベアトリスの目が、ほんの少しだけ細くなるのが見えた。




