三十一話:汚い檻から綺麗な檻へ
数日後。
出立の日は、思っていたよりあっさり来た。
俺たちが住んでいた個室は、まともな場所ではなかったが、それでも飢えずに済み金を稼ぐこともできた。
ろくでもない場所だが、俺たちにとっては地獄の底から這い上がって得たセーフハウスと言ってもいい。
そんな場所とも――今日限りでお別れだ。
「じゃあな。あんたには世話になった」
荷物も何もなく、体一つでそう言うと、ハリスは鼻で笑った。
「殊勝なことを言うじゃねえか」
「世話になったのは事実だろ? まあ、自分で勝ち取ったもんだけどな」
「はっ! 違いねえ」
最初は怖い上役で、そのあとは上司。最後は教会から金をふんだくる同志ってところか?
妙な関係だが、だからこそ後腐れもない。
「ガスパールの旦那にも礼を言っといてくれ。あの人の指導で力の使い方を覚えたんだからな」
「顔を合わせる機会があったらな。今のところ予定はない」
「スラムも少しは安全になったってことか? そういう言葉遣いから情報ってのは漏れるもんだぜ。注意した方がいい」
「……お前は最後までそれか? やっぱりいなくなってせいせいする。早く行っちまえ」
しっしっ! てな感じで手で俺を追い払う仕草をするハリス。
俺はそれを見て肩をすくめる。
やはり俺とハリスは、こういう関係で十分だ。
「あの……本当にこれ、貰ってよかったんですか?」
横にいたアレンが、少しだけ躊躇ってから前に出る。
手にしているのは短剣だ。
細身だが質はいい。飾り気はないが、握りは手に馴染みそうで、明らかにその辺で拾える代物じゃない。
「ローデルの旦那からだとよ」
ハリスが答える。
「お前に持っていてほしいんだと」
「でも……」
「遠慮はするな。というか、俺は仲介しただけだから何を言われようとそれはお前のもんだ」
「……はい。分かりました」
そう言った後に、ハリスは商売人のような顔つきになる。
「また師事を乞いたいなら、手紙を俺に寄越せ。中継してやる。紹介料は取るがな」
「しっかりしてるな」
「教会からふんだくったとはいえ、金はいくらあってもいいからな」
「違いない」
そんな談笑をしていると、アレンも困ったように短剣を抱えながら笑っている。
シエラだけが意味を分かっていない顔をしているが、それでいい。
汚い社会勉強なんざ、大人になってからやればいいからな。
――この二人と引き離されずに済んだ。それだけで、面倒な契約にも価値がある。
そう思いながら二人に視線を向けていると、ハリスが真剣な表情で俺たちを見る。
「お前たちは運がいい」
それは今までで聞いたことのないハリスの声色だった。
「親の不始末のおかげでスラムで一生を終える。しかも、惨たらしく死んでいたはずだ。そうならなかったのはルシアのおかげだろう。せいぜい感謝しておけ」
きつい言い方だが、それはハリスらしくもある。
この男は、俺たちをガキだからと軽く見なかった。能力だけで値踏みしていた。ひどい話だが、だからこそ公平でもあった。
ハリスの言葉に、アレンはまっすぐ答える。
「そんなことは、ハリスさんよりずっと分かってます」
「わかってるもん」
シエラも負けじと口を挟む。
その返事を聞いて、ハリスはわずかに目を細める。
「ずいぶん懐かれたな」
「まあな」
「いや、それも当然か」
感慨深そうな視線で、ハリスは俺を見る。
「お前をガキとは思えんよ」
そこで俺は、にやりと笑って見せる。
「実は俺の中身は男で、しかもハリスと同い年くらいってならどうだ? ちょっとした妄想だが、それなら納得できるんじゃないのか?」
「バカ言え」
ハリスも口元だけで笑う。
「俺と同世代でも、お前と同じことができる奴がどれだけいると思ってる」
「買い被りすぎだろ」
「いや、特別さ。大した奴だよ、お前は」
あっさり言い切られて、逆に返しに困る。
初めてじゃないか? こういう真っ直ぐな褒め言葉は。
思わず照れていると、ハリスは突然神妙な顔つきになった。
「だが、これからは用心しろ」
「どういうことだ? スラムよりも教会の方が危ないってのか?」
「場合によってはな。お前の用心深くてふてぶてしい態度は、スラムで生き残る智慧と言ってもいい。だが、表の世界で通じるかは別だ。あっちはあっちで面倒くせえ。しきたり、派閥、建前、足の引っ張り合い……殴れば終わりって話じゃない。考えが足りねえってことが、いくらでも起きる」
「……理解はできるよ。それが普通の社会って奴さ」
派閥、根回し、建前、責任の押し付け合い。
社内政治くらい俺も経験している。だが、教会ともなればさらに酷そうだ。
「教会ともなれば、普通の社会なんぞの比じゃないぞ。短気になってイキり散らすな。弁えろ」
ハリスの顔を見れば分かる。
これは――本気の忠告であるってことが。
「……覚えておくよ」
「覚えるだけじゃ足りんな。肝に銘じろと言っている。お前は自分で思っているほど堪え性がないぞ」
「そうかな? 我慢したから今に繋がっているんだけど?」
「忍耐にも種類があるってことだ。お前の利点は欠点にもなる。人に楯突く性格ってのは、思った以上に厄介だぞ」
言い返そうとして――やめた。
一応の自覚はあるからな。俺は人からいいように言われるのが大嫌いだ。それが原因で仕事を辞めたことだってある。
つまり、そういう性格が教会では不利になるってことだ。
「なるべく気を付けるようにするさ」
「そうしろ。……さて、行くか。引き渡しは俺の仕事だからな。教会までだ」
その一言で、ハリスが歩き出し、それに俺とアレン、シエラが続く。
俺も歩き出しかけて、最後に一度だけ、部屋の中を振り返る。
ここに入る前は、酷い生活をしていたよな。
狭い路地。
薄汚れた天幕。
どこかで怒鳴る声が聞こえて。
腹を空かせたガキの目がそこら中で光る。
最初にこの世界へ放り込まれた時、俺はただ生き延びることしか考えていなかった。
そこから、アレンとシエラと出会った。
面倒だと思いながらもこいつらを守っていたら、人を殺して組織に食い込むことになる。
どこで何かを間違えたのか? ――いや、たぶん全部間違っていて、全部必要だった。
だからこそスラムを抜け出すことができたが、次が楽園とは限らない。もっと大きな檻に移るだけかもしれない。
まだ何も分からない。教会によって俺たちは救われるのかどうか。
たとえ救われたとしても、それは俺が契約した責務とのトレードオフだ。
楽な道だなんて、とても言い切れない。
――それでも。今は三人一緒だ。それだけは、俺が勝ち取った成果だ。
「――行こう」
小さな声でそう言うと、シエラが俺の手を取る。
アレンも頷いたあとに、前を向いて歩き出す。
汚い檻から、綺麗な檻へ。あるいは、次のゲームの盤面か?
何が起きるかまるで分からないが、それでもここが一区切り。
だから俺は、この汚いスラムの臭いを最後に一度だけ大きく吸い込んでから、前へ進んだ。




