二十五話:縄張りの火種
教会に通う日々の中でも、前にハリスと話した縄張りの件はずっと頭に残っていた。
帳面の上に置いたコイン。外に面した店。売り上げの落ち方。用心棒代の二重取り。
数字だけなら、ただの不自然な穴で済む。けど、スラムの帳面は組織の血管みたいなものだ。金の流れが濁る時は、だいたい先に路地の空気が濁っている。
その予感は、そう長く待たずに形になった。
ハリスの部屋へ呼ばれた時、机の上には帳面ではなく、簡単な地図が広げられていた。
東三条の通り、拠点、配給の流れ。俺が印を付けた一角にも、煤けた石ころが置かれている。
いつもの金勘定じゃない。面倒事が、紙の上から現実になったのだ。
さらに、その場には珍しくアレンもいた。
「ハリス。何かが起きたのは一目瞭然だが、アレンがいるのはどういうことだ?」
自分でも険しい顔をしている自覚はある。
だが、ハリスは平然としていた。
「お前の懸念は分かる。が、安心しとけ。前線で使うつもりはねえ。そろそろ戦場の空気を知っとく必要があると思ってな」
「空気?」
「ああ。それに小僧に任せるのはお前の護衛だ。どのみち遠距離からの狙撃がお前の仕事。光物を抜くようなことにはならんさ」
なるほど、そういう意味か。
心情的には、アレンを人殺しの現場に出すのはまだ賛成できない。けど、隣にいるアレンの目を見れば、簡単に止められる空気でもなかった。
「大丈夫だよ、ルシア。僕だって実戦は経験済みだよ」
「……そうだな」
そこには、何かを決めた強い意思があった。
水を差すのは無粋ってもんか。
さらに言うなら、アレンに手を汚させたのは俺だ。必要だからそう指示をした。それでも、俺が原因なんだ。
なのに、ここでだけ綺麗な顔をして否定することなんてできない。
「納得はともかく理解はしたよ。それで、帳面の件か?」
「ああ。お前が言ってた二重取りが当たりだった」
ハリスは地図の端を指で叩く。
「ナイトハウンドだ。レッドブレードほど派手じゃねえが、昔はもっと広い縄張りを持ってた古株でな。最近は押されて、今じゃ食い詰めた下っ端共の統制すら上手くいってないらしい。今回の発端はそれだ」
そこまで言ったところで、扉が勢いよく開いた。
「ハリス! ナイトハウンドが動いた! こっちの拠点に攻め入ってるぞ!」
ハリスは椅子を蹴るように立ち上がった。
「まさか向こうから来るとはな。だが、東三条を荒らされたからには、連中の好きにはさせん。出るぞ」
アレンと一緒にハリスの後を付いていく。
事態は急を要する。グレイクロウの拠点が襲われている以上、まずは押し返さなきゃ話にならない。
とはいえ、俺たちだけでそれができるはずはない。当然、その答えをハリスは用意していた。
「ガスパールの旦那と合流する」
ハリスはそう言って、歩く足を早めるだけだった。
本拠点を出て路地を抜ける最中、杖を持ったガスパールがそこにいた。
「景気がいいな。嬢ちゃんの訓練だけでなく、俺を実戦投入か」
「ルシアのおかげで金が浮いているんでな。あんたの腕を買う金くらいは出せるってわけだ」
「ほう? 良い拾いものをしたな、ハリス」
「得体の知れないガキって点は、今でも恐ろしいがな」
そんなやりとりをしながらも、二人の足は止まらない。
路地を抜け、大通りに出ると、怒鳴り声が聞こえた。いや、それだけじゃない。
何かが割れる音。人が走る足音。剣や棍棒を持ち出した連中が、こちらの拠点へ雪崩れ込んでいる。
窓は割られ、木箱はひっくり返り、配給用の袋が踏み潰されていた。地面に散らばった穀物を、誰かの足がぐしゃりと踏む。
バリケードを置いて耐えているようだが、時間の問題だ。数だけ見れば、駆け付けた俺たちより明らかに多い。二十人はいる。
「ありゃ面倒だな。思った以上に戦力を集めてやがる」
ハリスは思案するように目を細める。
「――ルシア。何発かかまして痛い目を見せてやれ。それで止まらねえなら、ガスパールの旦那の出番だ」
「あの人数をやるとなれば特別料金だぞ。それでも俺を使うのか?」
「今日だけさ。連中に長丁場をやる余裕はねえ。戦力を集めてきた今がベストだ。痛い目を見せたあとに、手打ちへ持ち込む」
そんな会話の横で、アレンの呼吸が浅いのに気づく。
身体が、はっきりと震えていた。
「大丈夫か?」
「……分からない。でも、なんとか」
「そっか。無理はするなよ」
「うん……。でも、多分これが本当の戦場なんだ。本気で剣を学んでからは、怖さもちゃんと分かるようになった。師匠に言われた通りだよ」
前は無我夢中だった。それは俺も同じだったから、実感として理解できる。
でも、今は違うってことだろう。分かった上で前に立つのは別物だ。
アレンの成長を嬉しく思いつつ、物騒な成長だなと苦笑する。
だが、そんな感傷は後回しだ。今見るべきは敵について――。
入口を攻撃しているのが三人。建物を囲むのが十人以上。そして、路地に目を向けて警戒しているのが五人ってとこか。
距離は十分に離れているし、一方的な攻撃が可能。となれば、焦る必要なんて俺にはない。
「そろそろ始めるか。ルシア、まずは脅しだ。一発かましてやれ」
「あいよ。殺さなくていいんだな?」
「一方的に狙われているって空気を出せればいいさ。少しばかり焼いてやれば十分。それで駄目ならガスパールの旦那の出番だ」
それなら気が楽だ。
慣れたとはいえ、無関心に殺しができるほど割り切れちゃいない。
俺は一歩前に出た。呼吸を整え、指先から細い光を通して狙いを定める。
いつものレーザーポインタだ。後は威力を少し上げてやるだけだ。
ただ、今日は少し感覚が違う。
正確に言えば、治癒を覚えてからだ。
身体の奥にあった引っかかりが、今はかなり薄い。だから威力調節の勝手がどこか違う。
若干嫌な予感がする。
でも、もう撃つしかない。
入口を叩き割ろうとしている男の背へ、そのままレイガンを撃ち込んだ。
次の瞬間、狙った男の背中に、ぽっかりと穴が空く――血を噴き出し、前のめりに倒れる。
周囲の喧噪が一瞬だけ止まり、次いでその惨劇を認識した者たちが一斉にこっちを振り向いた。
「おい、そこまでやれって言ってねえだろ!」
「俺だってそのつもりじゃなかった! 勝手に抜けたんだよ!」
「ああ、もう! 仕方ねえ! こうなりゃ強くいく! ガスパール、金は心配すんな! かましてやれ! ルシアは逃げる奴の背中を撃て!」
「まったく。手下の制御もできんボスなど、長生きできんぞ」
ガスパールが溜め息をつきながら、俺を流し見る。そしてハリスに苦言を呈した。
「うるせぇ! ルシアがただのガキじゃないことは、アンタも認めただろうが! うだうだ言ってないでとっととやってくれ」
「仕方ないな」
気だるそうに言いながら、ガスパールの目が細くなる。
杖の先に熱が集まり始めた。
これは、冗談抜きで本気の魔法だ。
俺のせいで、大事になってしまった。
が、こうなればやるしかない。
「アレン! 俺の守り頼んだぞ」
「……ルシアは頼りになるけど、やっぱり抜けているところもあるよね」
アレンにまでそんな評価をされてしまうとか、情けないにも程がある。
だが、あんな殺しをした俺に向かって、アレンは微笑んでみせた。
「でも、いいよ。覚悟は決めた。ルシアは僕が守る」
そう言って、鞘から抜いたのは見覚えのない短剣だ。
おそらく師匠とやらが関係しているのだろう。スラムのガキ共が持つ武器とは比べ物にならない。
武器を持って俺の前に立とうとするアレンを見て、俺も覚悟が決まる。
――自分の尻は、自分で拭かなくちゃいけないよな。
俺はもう一度、前を見た。
ナイトハウンドの連中は撤退じゃなく攻撃を選んだ。俺たちを見つけて駆けてくる。
こうなった以上、手加減は不要だ。そもそも加減が効かないのなら、全力でやるしかない。
俺は指先へ力を集め、次の標的へ照準を合わせた。




